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春の途中―ある家族と過ごした春の記録―  作者: 種村朔


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第十二章  喫茶店

食事が終わったあとだった。

私が帰ろうとすると、弟と彼女も立ち上がった。

私たちは三人で家を出た。


春の夜風はやわらかかった。

いつもの帰り道だったが、その日は少しだけ違っていた。

もう家庭教師の日は終わったのだ。

そう思うと、不思議な気分だった。


駅へ向かう道で、弟は相変わらずよくしゃべった。

学校のこと。

友達のこと。

サッカーのこと。

話題は次々に変わった。


私は笑いながら聞いていた。

彼女は時々うなずくだけだった。

けれど以前ほど無口には見えなかった。


駅前に着くと、私たちは喫茶店に入った。

夕方の混雑も落ち着いた時間だった。

窓際の席に座る。

問題集も参考書もない。

ちゃぶ台もない。

それだけで、どこか落ち着かなかった。


注文した飲み物が運ばれてきた。

私はコーヒーを頼んだ。

弟はジュースだった。

彼女は紅茶だったと思う。

ずいぶん前のことだから、そのあたりの記憶は少し曖昧だ。


三人で他愛のない話をした。

学校のこと。

部活のこと。

これからのこと。

受験の話はほとんどしなかった。

合格したことは、もうみんな知っていた。

改めて話す必要もなかった。


弟は楽しそうだった。

彼女も時折笑っていた。

私も何を話したのかはあまり覚えていない。

ただ、あの時間が穏やかだったことだけは覚えている。


家庭教師でもなく、

先生と生徒でもなく、

ただ三人で座っていた。

そんな時間だった。


やがて帰る時間になった。

私たちは店を出て、改札口の前で立ち止まった。


「ありがとうございました」

彼女が言った。

私は少し笑った。

「よく頑張ったな」

そう言うと、彼女は小さくうなずいた。


弟も頭を下げた。

私は先に弟と握手をした。

弟は少し照れくさそうに笑っていた。

続いて彼女が右手を差し出した。


そのとき、彼女ははめていた手袋を外した。

私は少し意外に思った。

けれど何も言わなかった。

ただ、その仕草だけは今でも覚えている。


短く握手をした。

彼女は小さくうなずいた。

それだけだった。


特別な言葉はなかった。

けれど、それで十分だった。


私は改札を通った。

数歩歩いてから、一度だけ振り返った。

改札を抜けて振り返ると、


ふたりはトボトボと歩いていた。

春の夕暮れの中で、その後ろ姿だけが妙に記憶に残っている。

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