終章 春の途中
それからしばらくして、母親と会う機会があった。
もう家庭教師は終わっていた。
彼女は高校へ進学し、弟も少しずつ大きくなっていた。
話の流れで、母親がふと笑った。
「あの日のこと、覚えてますか」
喫茶店の日だった。
私はうなずいた。
すると母親が言った。
「家に帰ってから、あの子泣いてたんですよ」
私は思わず聞き返した。
「弟さんがですか」
「そうです」
母親は懐かしそうに笑った。
「普段あまり泣かない子だったんですけどね」
私は少し驚いた。
あの日の弟は、いつもと変わらないように見えたからだ。
駅まで歩き、
喫茶店で話をして、
最後に握手をした。
それだけだった。
少なくとも私にはそう見えていた。
けれど、子どもなりに思うところがあったのだろう。
改札を抜けて振り返ったときの後ろ姿を思い出した。
あのとき、二人はトボトボと歩いていた。
あれは気のせいではなかったのかもしれない。
しばらくして、もう一つ思い出した。
合格したあと、私は弟と映画を見に行ったことがあった。
あのころは弟とずいぶん仲良くなっていた。
だから特に深く考えなかった。
けれど今になって思う。
あのとき彼女も誘えばよかったのではないかと。
もちろん、来たかどうかはわからない。
断られたかもしれない。
それでも声くらいは掛けるべきだった気がする。
春になると思い出す。
平屋の家。
ちゃぶ台。
おばあちゃん。
夕方の水戸黄門。
丸めたコピー用紙。
そして、静かに問題を解いていた彼女の横顔。
どれも特別な出来事ではない。
けれど不思議なことに、今でもはっきり覚えている。
あの春は、もうずいぶん遠くなった。
それでも時々思い出す。
私にとって、あれは確かに春の途中だった。
この作品を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。 皆さまの心にも、それぞれの『春の途中』があれば幸いです。




