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第86話 一枚だけ、違う布が入っていた

 違う布は、黙ってそこにあった。


 王妃執務院指定仕立て場の長机の上。


 ほかの十一梱から出された北方厚織毛布地と並べられていると、その一枚だけが、妙に心もとなく見えた。


 色は近い。


 灰色に、わずかな青み。


 遠目には同じ北方毛織物に見える。


 だが、指で押すと違う。


 厚みが足りない。


 布の目が少し甘い。


 毛の詰まりも浅い。


 何より、端印が違った。


 ノルヴァルト公認商会の鹿角印ではなく、簡略化された別の商会印。


 それは、帳簿の上では小さな違いかもしれなかった。


 しかし、仕立て場の針子たちにとっては違った。


 触れば分かる。


 裁てば分かる。


 縫えば分かる。


 そして、病床に掛ければ、もっと分かる。


「これでは、冬の夜に足りません」


 仕立て場長エヴァレット夫人は、静かに言った。


 怒鳴りはしない。


 だが、その声には鋏より鋭いものがあった。


 針子ニナは、問題の布を二本の指で持ち上げ、少し光に透かすようにした。


「待合室の膝掛けなら、まだ使えるかもしれません。でも、病床用って言われたら違います」


 ミレーヌは、開封確認表を前にして座っていた。


 手元の羽根ペンは震えている。


 昨日、最初に不一致を記録した時から、まだその震えは完全には引いていなかった。


 用途追跡木札番号。


 NVT-S-007。


 記録上用途、施療院保温布用。


 輸出元目的、施療院病床用。


 現物、厚み不足。


 端印相違。


 等級不一致の疑い。


 要調査。


 書いた。


 確かに書いた。


 だが、正式な不一致確認として再度記録するとなると、重みが違う。


 この一行で、誰かが問われる。


 商会かもしれない。

 港湾かもしれない。

 輸出元かもしれない。

 倉庫かもしれない。

 ただの積み間違いかもしれない。


 まだ分からない。


 けれど、書かなければ始まらない。


「ミレーヌ」


 クラリスが声をかけた。


 その声は低く、落ち着いている。


「はい」


「一つずつ確認しましょう」


「はい」


 ミレーヌは深く息を吸った。


 クラリスは問題の布の前に立ち、確認事項を読み上げた。


「外装梱包番号」


 オスカーが答える。


「NVT-S-007。外装札と用途追跡木札は一致しています」


「封印」


 エリオットが確認する。


「港湾到着時、破損なし。第三北方倉庫搬入時も破損なし。仕立て場到着時も、開封前封印は保持されていました」


「木札」


 ボルクが言った。


「脱落なし。紐の緩みもなし。倉庫確認印あり」


「現物」


 エヴァレット夫人が布を押さえた。


「記録上の厚手保温級ではありません。通常外套用、下から二番目程度の等級と思われます」


「端印」


 セリア記録官が表と見比べる。


「輸出元記録の端印と不一致。別商会印の可能性」


「用途」


 ニナが小さく言った。


「施療院病床用には足りません」


 ミレーヌは、震える手でそれを記録していく。


 途中で、羽根ペンの先が紙に引っかかった。


 インクが小さく滲む。


 彼女は一瞬、顔を強張らせた。


 だが、紙を破ったり、書き直そうとしたりはしなかった。


 余白に小さく記す。


 筆記時インク滲み。内容判読可。


 セリアがそれを見て、静かに頷いた。


 ミレーヌは少しだけ息を吐いた。


 失敗を消さない。


 それもまた、記録だった。


 確認が終わると、問題の布は他の十一梱と分けられた。


 エヴァレット夫人が、白い布を敷いた台の上に置く。


「この一梱は、加工しません」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「証拠保全扱いとします」


 王弟府調査官カレルが、静かに一歩進み出た。


「現物保全袋を用意しています」


 彼の声は淡々としている。


 王弟府の人間は、こういう時に余計な感情を挟まない。


 それがありがたい時もあれば、少し怖い時もある。


 布は、折り目を変えないよう慎重に畳まれ、端印が見える形で保全袋に入れられた。


 袋には番号が振られる。


 現物不一致一号。


 その文字を見た瞬間、ミレーヌの喉が少し鳴った。


 一号。


 つまり、これから二号、三号が出る可能性もある。


 クラリスは、その視線に気づいた。


「現時点では一号です」


 静かに言う。


「増えるかどうかは、調査しなければ分かりません」


「はい」


「だから、今は一号として扱います。必要以上に恐れない。軽くも見ない」


「はい」


 ミレーヌは頷いた。


 その時、仕立て場の扉が慌ただしく叩かれた。


 入ってきたのは、リーヴェ商会の代理人マルティン・ケイルだった。


 昨日、第三北方倉庫で搬出変更を求め、ダンに止められた男である。


 彼は昨日より顔色が悪かった。


 だが、口調だけはまだ商会代理人として整えようとしていた。


「クラリス顧問。これは何かの手違いです」


 部屋に入るなり、彼は言った。


「まだ何も説明していません」


 クラリスは静かに返した。


「ですが、私どもにも確認の連絡が来ました。用途札と現物が違ったと」


「事実です」


「積み間違いでしょう」


 マルティンは早口になった。


「港か、輸出元か、どこかで似た布が混ざっただけです。北方毛織物は外見が似ています。悪意あるものではありません」


「悪意とは言っていません」


 クラリスは答えた。


「では、すぐに商会へ戻していただければ、正しい品と差し替えます」


「戻しません」


 その言葉に、マルティンの表情が強張った。


「なぜです」


「現物不一致として保全します。差し替えは、その後の手続きです」


「しかし、急ぎの布です。施療院へ届けるものなのでしょう」


「だからこそです」


 クラリスの声が少しだけ低くなった。


「だからこそ、間違った布をそのまま動かせません」


「ただの積み間違いです」


「その可能性はあります」


「なら」


「ただし、積み間違いであることを記録で確認する必要があります」


 マルティンは、唇を引き結んだ。


 クラリスは続ける。


「リーヴェ商会には、以下の補足資料を求めます。NVT-S-007に関する商会受領時記録、内部保管記録、差し替え記録の有無、同日に扱った同種毛織物の一覧、担当者名、搬出変更を求めた理由、そして昨日の搬出先変更書類の作成者名」


「それは……かなり多い」


「一梱だけ、違う布が入っていました」


 クラリスは、台の上の保全袋を見た。


「多いのは当然です」


 マルティンは、視線を逸らした。


 王弟府調査官カレルがその様子を静かに見ている。


 レオンハルト本人はいない。


 しかし、王弟府がいるだけで場の温度は下がる。


 マルティンはそれを感じたのだろう。


「商会主に確認します」


「お願いします」


「ただ、商会としては故意ではないと」


「故意かどうかは、今は判断しません」


 クラリスは遮らず、しかし逃がさずに言った。


「記録と現物で確認します」


 マルティンは深く礼をして退室した。


 その背中は、昨日より小さく見えた。


 扉が閉まった後、ボルクが低く言った。


「積み間違い、か」


「あり得ますか」


 クラリスが尋ねる。


「あり得ます。港では似た荷が並ぶこともある。だが、今回は封印が保たれていた。港と倉庫で外装に問題はなかった」


「つまり」


 エリオットが続ける。


「中身の違いは、封印前に起きていた可能性が高い」


 セリアが表情を硬くした。


「輸出元か、商会引渡後か」


「はい」


「ノルヴァルト側への照会も必要ですね」


「必要です」


 クラリスは頷いた。


「輸出元記録、商会引渡書、梱包時確認者、端印確認、同日発送の別等級布。この五点を照会します」


 オスカーがすぐに書き取る。


 ミレーヌも、自分の控えに同じ項目を書いた。


 その手は、さっきより少し落ち着いている。


 クラリスは、それを見て小さく頷いた。


 現物不一致は、数字だけの問題ではなかった。


 ニナが言ったように、この布では病床の子は寒い。


 だが、怒りに任せて誰かを責めても、正しい布は届かない。


 どこで違ったのか。


 なぜ違ったのか。


 それを追わなければならない。


 昼過ぎ、王宮筆頭実務顧問室に速報が戻された。


 イリスは、クラリスの顔を見るなり何も聞かず、熱い茶を置いた。


「重い顔をされています」


「重い布を見ました」


「布が?」


「ええ。見た目より、かなり重い」


 イリスは、すぐに意味を察したようだった。


「現物不一致ですね」


「はい」


 オスカーが報告書を広げる。


 表題はすでに決まっていた。


 北方厚織毛布地 NVT-S-007 現物不一致正式確認報告


 項目は細かい。


 到着時状況。

 封印確認。

 木札確認。

 倉庫搬入記録。

 仕立て場開封者名。

 立会者名。

 記録上用途。

 現物等級。

 端印。

 針子証言。

 仕立て場長判断。

 財務院見解。

 王弟府保全番号。

 商会代理人発言。

 追加照会先。


 クラリスは、一つ一つ確認した。


 怒りで雑にしてはいけない。


 怒りがある時ほど、記録は丁寧でなければならない。


 その途中で、ミレーヌが小さく言った。


「お姉様」


「何?」


「これを書くと、誰かが責められますか」


 部屋が静かになる。


 クラリスは、羽根ペンを置いた。


 妹の目は不安そうだった。


 けれど、逃げている目ではない。


 自分が書いた一行が誰かを動かすことを、ようやく実感している目だった。


「責められるかもしれません」


 クラリスは正直に答えた。


 ミレーヌの肩が少し動く。


「でも、書かなければ、誰も直せません」


「……はい」


「記録は、人を罰するためだけにあるのではありません。間違った布が、間違ったまま届かないようにするためにあります」


「はい」


「怖いなら、怖いと記録してもいい」


 ミレーヌは驚いた顔をした。


「怖いと?」


「ええ。補佐見習い所感として」


「そんなものを」


「記録そのものではなく、作業記録に。現物不一致を初めて扱った時、記録者がどこに迷ったか。それも後の研修になります」


 セリア記録官が静かに頷いた。


「よいと思います。記録者が責任の重さに気づいた事例として」


 ミレーヌは少し迷った後、自分の不備記録用紙を出した。


 そして書いた。


 現物不一致を記録する時、誰かを責めることになるのではないかと怖くなった。しかし、書かなければ正しい布が届かない。記録は責めるためだけでなく、直すために必要。


 書き終えると、彼女は小さく息を吐いた。


「少し、落ち着きました」


「よかった」


 イリスが静かに茶を差し出した。


「記録者にも温かいものが必要でございます」


「ありがとうございます」


 ミレーヌは両手で杯を受け取った。


 夕方、王弟府からレオンハルトが顧問室を訪れた。


 彼は現物保全報告の写しを読み、表情を変えなかった。


 だが、目だけは鋭かった。


「一梱だけか」


「現時点では」


「端印が違う」


「はい」


「封印は保たれていた」


「港湾到着時、倉庫搬入時、仕立て場到着時、すべて破損なしです」


「なら、封印前だな」


「その可能性が高いです」


 レオンハルトは資料を机に置いた。


「王弟府は、ギデオン・マースとハーゲン補助官の足跡と並行して、NVT-S-007の梱包前経路を確認する」


「リーヴェ商会も?」


「もちろんだ」


 クラリスは頷いた。


「ただし、現時点では積み間違いの可能性も残します」


「分かっている」


 彼は短く答えた。


「断定はしない。だが、保全はする」


「お願いします」


 レオンハルトは、ミレーヌの記録にも目を通した。


 怖くなった。しかし、書かなければ正しい布が届かない。


 そこを読んだ時、彼は少しだけ表情を緩めた。


「よい補佐見習いだ」


 ミレーヌは、突然言われて顔を赤くした。


「いえ、私はまだ」


「まだ、だからよい」


 レオンハルトは言った。


「慣れすぎると、怖さを忘れる」


 その言葉に、クラリスも静かに頷いた。


 怖さは、邪魔になることもある。


 だが、怖さを完全に失えば、記録は人を傷つける刃にもなる。


 ミレーヌは、まだ怖がれる。


 それは弱さではなかった。


 夜、正式な追加照会文が三通作られた。


 一通目。


 リーヴェ商会宛。


 NVT-S-007に関する内部記録提出依頼。


 二通目。


 ノルヴァルト大使館宛。


 輸出元および公認商会への梱包前確認照会依頼。


 三通目。


 財務院宛。


 同日同種毛織物の減免・関税処理記録照合依頼。


 どれも、言葉は慎重にした。


 不正疑いとは書かない。


 現物不一致と書く。


 積み間違いを含む原因確認と書く。


 追加照会手順に基づくと書く。


 感情ではなく、手順で進める。


 それが、今できる最も強い対応だった。


 最後に、クラリスは国際案件の箱を開いた。


 その中にはすでに多くの紙が入っている。


 港湾倉庫報告。

 用途追跡札改訂。

 余り布記録。

 商会別記録濃度表。

 倉庫番記憶控え。

 リーヴェ商会搬出停止報告。


 そこへ、新しい札を入れた。


 現物不一致


 白い紙に、黒い字。


 たった四文字。


 だが、その四文字は重かった。


 ニナの声が、クラリスの耳に残っている。


 この布じゃ、病床の子は寒いです。


 数字でも、等級表でも、商会印でもない。


 布を触る手が言った言葉。


 それが、今回の不一致の本質だった。


 イリスが終業の札を置いた。


 今日は帰る


 クラリスは、箱を見つめたまま少し黙った。


 まだ書きたい。

 まだ確認したい。

 まだ追いたい。


 けれど、今日の報告は出した。


 緊急照会も出した。


 王弟府にも共有した。


 これ以上は、怒りで紙を増やすだけになる。


「帰ります」


 クラリスは言った。


 イリスは頷いた。


「はい」


 ミレーヌも、自分の札を鞄にしまう。


 今日、新しく書き足された言葉があった。


 怖くても、書かなければ届かない。


 一枚だけ、違う布が入っていた。


 それは、ただの間違いかもしれない。


 あるいは、もっと大きな流れの端かもしれない。


 まだ分からない。


 だが、その一枚は止まった。


 病床へ届く前に。


 寒い布が、暖かい布のふりをして届く前に。


 記録は、初めてそれを止めた。

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