第140話 ケイン元参事補佐は、紙の向こうで笑った
ルドルフ・ケイン元参事補佐は、約束の時刻より少し早く現れた。
それだけで、彼がどういう種類の人間かが少し分かる。
遅れない。
慌てない。
待たされる側に回らない。
王宮の小会議室に入ってきた男は、六十に届くか届かないかという年頃だった。
銀混じりの髪はきちんと撫でつけられ、上着は古いが上等で、靴はよく磨かれている。
退官した役人というより、まだどこかの机に座っている人間の姿だった。
いや、実際に座っているのだ。
商務評議会外部顧問。
肩書は外部でも、商人、港湾、迎賓、財務の隙間に手を入れられる場所にいる。
ケインは部屋に入ると、レオンハルトへ深く一礼した。
「王弟殿下におかれましては、ご機嫌麗しく」
「形式はよい」
レオンハルトは短く言った。
「今日は確認だ」
「承知しております」
ケインは少しも乱れない声で答えた。
視線がクラリスへ移る。
「クラリス顧問。ご高名はかねがね」
「恐縮です」
クラリスは礼を返した。
その言葉を、額面通りには受け取らない。
ご高名。
こういう場でのそれは、褒め言葉ではなく、牽制であることが多い。
あなたのことは知っている。
あなたが何をしているかも見ている。
そういう意味が、柔らかな言葉の裏に置かれている。
出席者は絞られていた。
レオンハルト。
カレル調査官。
クラリス。
オスカー。
ミレーヌ。
グレゴール参事官。
エリオット。
そして、記録官としてヘレナ。
バルナス主任は同席していない。
彼の証言が、今日の確認事項に含まれるからだ。
証言者本人を同席させれば、ケインは彼の顔色を読む。
それは避けた。
ケインは椅子に腰を下ろすと、ゆっくり手袋を外した。
「それで、古い白鴎館の件と伺いましたが」
先に言った。
こちらが切り出す前に、範囲を狭める。
クラリスは紙を一枚出した。
白鴎館客室使用簿の写し。
そこには、短く書かれている。
K参 北翼手配。客人冷やすな。
「この記載に見覚えはありますか」
ケインは紙を見た。
顔色は変わらない。
「古いものですな」
「見覚えは?」
「白鴎館は、当時しばしば臨時宿泊に使われました。北翼も使ったでしょう。客人を冷やすな、というのも、迎賓の場では当然の配慮です」
「あなたの指示ですか」
「K参が私を指すなら、そうかもしれません」
曖昧だ。
否定しない。
だが、認めてもいない。
「K参はあなたを指しますか」
カレルが尋ねる。
ケインは軽く首を傾げた。
「当時の参事補佐でKなら、私の可能性はあります。ただ、役所の略記ほどいい加減なものはありません。顧問殿ならよくご存じでしょう」
クラリスは頷いた。
「はい。ですから、一枚では判断しません」
ケインの目が、わずかに細くなる。
クラリスは、次の紙を出した。
施設局寝具補充記録。
K参急。白館優先。
「こちらは?」
ケインは、今度は少しだけ長く見た。
「白館優先。これも、迎賓上はあり得る言葉です。外国商務関係者を寒い部屋に泊めれば、翌日の交渉に響きます」
「慈善施設の物資より優先されるべきでしたか」
ミレーヌの筆が止まった。
ケインは、クラリスを見た。
初めて、ほんの少し笑った。
「問いが早いですな、顧問殿」
「早いでしょうか」
「ええ。白館優先と書いてあるだけで、慈善物資を奪えとは書いていない」
「その通りです」
クラリスは静かに答えた。
「ですので、次の紙を見ます」
三枚目。
伝言札の写し。
北翼八床。今夜。K。G札可。
ケインの笑みが、ほんのわずかに薄くなった。
本当にわずかだった。
だが、クラリスは見逃さなかった。
「G札可、という記載があります」
「古い港湾通称でしょう」
「ご存じなのですね」
「商務に関わっていれば、多少は」
「G札を使ってよいと、あなたが許可したのですか」
「このKが私であるなら、何らかの手配許可をした可能性はあります」
「G札が何を意味するか知った上で?」
ケインは、少しだけ息を吐いた。
「当時の港湾では、急送手配の略称が多く使われていました。G札というのも、その一つでしょう」
「ギデオン・マースの名義札ですか」
「そう呼ぶ者もいたかもしれません」
「あなたは、そう認識していましたか」
ケインは、すぐには答えなかった。
それは短い沈黙だった。
だが、初めての沈黙だった。
「港湾仲介の一種として認識していました」
「責任者は?」
「港湾管理側でしょう」
「正式記録が薄い経路だと知っていましたか」
「急送とは、そういうものです」
ドレイクがいれば、顔をしかめただろう。
クラリスは、声を変えずに続けた。
「急送であっても、記録は必要です」
「今の制度では、そうでしょう」
「当時も必要でした」
ケインは、笑わなかった。
だが、目だけが少し冷えた。
「理想論ですな」
「いいえ」
クラリスは答えた。
「南施療院の病床は、理想論では暖まりません」
会議室が静まり返った。
ケインは、わずかに眉を動かした。
その一瞬だけ、彼の顔から柔らかな礼儀が消えた。
だが、すぐに戻る。
「南施療院の話になりましたか」
「はい」
クラリスは、次の資料を出した。
南施療院の日誌。
保温布と言うが、病床用には心許なし。
そして、旧礼拝堂跡で見つかった布見本包みの写し。
C-3 正温
外套地 転
さらに包み紙の転写。
南へは外套転。西へは軽寝二。C-3は別送。Hが気づく。Bへ戻すな。
ケインは、布見本の写しを見た。
今度は長く見た。
部屋の空気が重くなる。
ミレーヌの筆が小さく動いている。
震えてはいない。
ただ、慎重に、言葉を待っている。
「興味深いものを見つけられた」
ケインは言った。
「見覚えは?」
「ありません」
「C-3正温を白鴎館へ送る指示を出しましたか」
「出していません」
初めて、はっきり否定した。
クラリスは、表情を変えない。
「では、白鴎館北翼八床へ運ばれた上等保温布八は、どこから来たものですか」
「施設局の臨時補充でしょう」
「施設局在庫には不足記録があります」
「ならば、財務院が調達したのでは」
「財務院記録では、C-3正温八梱が同夜に白館裏門へG札で搬送されています」
「それが白鴎館の布とは限らない」
「限りません」
クラリスは認めた。
ケインは、その返答に少しだけ目を細めた。
否定しきるための足場を、こちらが不用意に作らない。
それが気に入らないのだろう。
カレルが静かに尋ねた。
「バルナス主任は、あなたが“白館優先で手を打て。慈善側は数字を合わせろ”と発言したと証言しています」
ケインは、初めて明確に笑った。
声は出さない。
ただ、口元だけ。
「バルナス君が、そう言いましたか」
「はい」
「彼も追い詰められたのでしょうな」
「虚偽だと?」
「そうは言いません。人は記憶を自分の都合に合わせるものです」
「では、あなたは言っていない」
「少なくとも、そのような乱暴な言い方はしません」
クラリスは、静かに紙をめくった。
「乱暴な言い方」
ケインの目が少し動いた。
「この発言内容は、まだあなたへ読み上げていません。カレル調査官は“白館優先で手を打て。慈善側は数字を合わせろ”と読みました。あなたはそれを“乱暴な言い方”と評しました」
「内容を聞けば、そう評するでしょう」
「あなたらしくない?」
「私なら、もっと制度に沿った言い方をします」
クラリスは頷いた。
「たとえば?」
ケインは一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
けれど、部屋の空気はその一瞬を拾った。
「……白鴎館側の不足は臨時補充で対応し、慈善側は別送処理で数量を整える、といったところでしょう」
ミレーヌの筆が止まった。
オスカーの目が、わずかに細くなる。
クラリスは、ゆっくり確認した。
「慈善側は別送処理で数量を整える」
ケインは、すぐに言った。
「仮に私が言うなら、という話です」
「はい」
クラリスは頷いた。
「仮の言葉として記録します」
ケインは黙った。
失言とまでは言えない。
だが、彼の頭の中に、白鴎館側と慈善側の数量調整という構造があることは見えた。
カレルが質問を変える。
「あなたは、C-3正温八梱が南施療院予定分だったことを知っていましたか」
「知りません」
「C-3が王宮慈善保温布上等品区画であることは?」
「今聞きました」
ヘレナが、その返答を書き留める。
クラリスは、別の紙を出した。
商務評議会外部顧問就任後の資料。
現在の港湾商務調整表。
そこには、ケインの手書きと思われる注記がある。
C区物資は慈善・接待の区分注意。混用不可。
ミレーヌが、思わず顔を上げた。
ケインは、その紙を見て目を細めた。
「現在の注意書きですね」
「はい」
「それが何か」
「現在のあなたは、C区物資が慈善・接待で混用される危険を認識しています」
「改革後の運用ですから」
「二年前には認識していなかった?」
「当時の担当ではありません」
「白鴎館北翼八床の手配にはKとして関わった可能性を先ほど認めました」
「可能性です」
「G札可も?」
「可能性です」
「では、C区物資の危険を知らずに、G札可を出した?」
ケインは、少しだけ口を閉じた。
答えにくい問いだった。
知っていたなら、責任がある。
知らなかったなら、知らずに危うい経路を許可したことになる。
「当時の私は、白鴎館の客室対応を急がせただけです」
「何を使うかは誰が決めたのですか」
「現場でしょう」
「現場とは?」
「財務院、港湾、施設局」
「つまり、誰でもあるが、誰でもない」
クラリスの言葉に、ケインは初めて少し苛立った顔をした。
「顧問殿は、言葉がお上手ですな」
「お褒めいただく場ではありません」
レオンハルトが低く言った。
その一言で、室内の温度が下がった。
ケインはすぐに姿勢を正す。
「失礼いたしました」
クラリスは、最後の紙を出した。
白鴎館仮受控え。
保温布八 G札 後日施設局へ振替。
「この振替は、行われていません」
「施設局の不備では?」
「そうかもしれません」
「なら、私の関与ではありませんな」
「まだ関与とは言っていません」
クラリスは静かに言った。
「ただ、あなたの名を示す可能性のあるK、白館優先、G札可、北翼八床が同じ流れにあり、C-3正温八梱が白鴎館へ入った可能性がある。さらに、慈善側は外套地転で数量を合わせられた疑いがある。これを確認しています」
ケインは、しばらく黙った。
そして、柔らかな声で言った。
「ご立派な整理です。しかし、全て可能性です」
「はい」
「私はC-3正温を白鴎館へ回せとは命じていない」
「記録します」
「慈善側に外套地を送れとも命じていない」
「記録します」
「G札の具体的な運用を知りません」
「先ほど、港湾仲介の一種として認識していたと証言しています」
ケインの口元が、ほんの少し硬くなった。
「細かい」
「必要です」
クラリスは答えた。
「南施療院の布は、その細かさを失ったために薄くなりました」
ケインは何も言わなかった。
初回確認は、そこで終わった。
彼は最後まで大きく崩れなかった。
C-3移送の直接指示は否定。
慈善側への外套地転送指示も否定。
G札の詳細運用は知らないとした。
K表記は自分の可能性を否定しきらないが、手配一般に留めた。
だが、彼は「慈善側は別送処理で数量を整える」という仮の言葉を口にした。
そして、G札を港湾仲介の一種として認識していた。
知らないと言うには、知りすぎている。
知っていたと断じるには、まだ紙が足りない。
顧問室へ戻ると、ミレーヌは疲れたように椅子へ座った。
「怖い人でした」
「はい」
クラリスは答えた。
「怒鳴らないのに、怖いです」
「言葉の逃げ場をたくさん持っている人です」
オスカーが清書を始める。
表題。
ルドルフ・ケイン元参事補佐初回確認報告
主な内容。
一、K参表記について、自身の可能性を否定せず。ただし略記の曖昧さを指摘。
二、「客人冷やすな」「白館優先」について、迎賓上の配慮として一般化。
三、「G札可」について、港湾仲介の一種として認識していたと証言。詳細運用は知らないと主張。
四、C-3正温八梱の白鴎館移送指示は否定。
五、慈善側への外套地転送指示も否定。
六、バルナス主任証言「白館優先で手を打て。慈善側は数字を合わせろ」について、自分ならそのような乱暴な言い方はしないと主張。
七、仮の表現として「白鴎館側の不足は臨時補充で対応し、慈善側は別送処理で数量を整える」と発言。
八、現在の商務評議会資料では、C区物資の慈善・接待混用不可を注記している。
九、白鴎館仮受の後日施設局振替未実施について、施設局側不備の可能性を示唆。
十、直接指示の証言は得られず。ただしK表記、G札認識、慈善側数量調整に関する言葉の整合性について継続照合が必要。
クラリスは最後に一文を書いた。
ケイン元参事補佐は、命じていないと言った。だが、命じた者しか知らないはずの言葉の形を、よく知っていた。
ミレーヌは、少し考えてから札を書いた。
否定の中にも、知っている形が出る。
イリスがそれを壁に貼った。
国際案件の箱に、報告書が入る。
ケインはまだ倒れない。
それどころか、紙の向こうで静かに笑っているようだった。
だが、初回確認で十分だった。
彼の否定の輪郭は見えた。
次に必要なのは、ケイン本人の筆跡資料。
そして、「慈善側は別送処理で数量を整える」という言葉が、過去のどこかの紙に残っていないかを探すことだった。
彼が自分で作った逃げ道の形は、きっと過去の紙にも残っている。




