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第133話 空欄は、終わっていないことを喋る

空欄は、見た目よりもうるさい。


 何も書かれていないのに、目に入る。


 そこだけ紙が白い。


 そこだけ処理が止まっている。


 そこだけ、誰かがまだ返事を待っている。


 クラリスは、例外負担票の控えを三枚並べた。


 一枚目、東南救貧宿の冬用敷布。

 補填完了欄には、きちんと記入がある。


 本日夜、同等敷布一梱受領確認済み。


 二枚目、北西施療所の薪油。

 補填予定日は翌日午前便。

 しかし、補填完了欄はまだ空欄。


 三枚目、中央施薬院の薬瓶箱。

 輸送中に外装が割れ、薬瓶自体は無事だったが、外箱の破片混入確認が必要。

 現場一言欄には、こうあった。


 瓶は割れていません。ただ、破片が入っていないか今は怖くて使えません。


 こちらも完了欄は空欄だった。


 ミレーヌは、その二つの空欄をじっと見ていた。


「白いところが、目立ちますね」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「それが大事です」


「でも、埋めたくなります」


「ええ」


「空欄があると、仕事が終わっていない感じがします」


「終わっていないのです」


 ミレーヌは、少しだけ肩をすくめた。


「言われると、その通りですね」


 イリスが茶を置きながら、いつもの静かな調子で言った。


「空の皿を下げるのは簡単ですが、食べていない人の前から皿を下げてはいけませんから」


「今日も的確ですね」


 オスカーが苦笑する。


 イリスは涼しい顔で答えた。


「侍女の仕事でございます」


 顧問室の壁には、昨日の札が増えていた。


 今夜は足りる、は、明日も足りるではない。


 その横に、もう一枚。


 紙を嫌う者は、まず紙を出さずに済ませようとする。


 ミレーヌはその札を見てから、空欄の票へ目を戻した。


「今日は、この空欄を見るのですね」


「はい」


 クラリスは答えた。


「空欄が、ちゃんと空欄として残っているかを見ます」


 午前、財務院で例外負担票の試験導入初回確認が行われた。


 出席者は、クラリス、オスカー、ミレーヌ、エリオット、グレゴール参事官、バルナス主任。


 港湾管理局からはドレイクも来ている。


 王宮慈善窓口のセレナも同席した。


 まだ試験導入から数日。


 それでも、票は三枚出ている。


 少ないとも言える。


 多いとも言える。


 グレゴール参事官は三枚を見て、渋い顔をした。


「未完了が二件か」


「はい」


 エリオットが答える。


「北西施療所の薪油は、本日午前便で補填予定。中央施薬院の薬瓶箱は、破片混入確認待ちです」


 若い財務官が、遠慮がちに口を開いた。


「薪油の件は、午前便で出すことは決定しています。完了見込みとして閉じてもよろしいのでは」


 部屋の空気が、少し変わった。


 クラリスは若い財務官を見た。


「閉じたい理由は?」


「週次報告で、未完了が残ると説明が必要になります」


「説明が必要だから、閉じる?」


 若い財務官は、顔を赤くした。


「いえ、その……便は出る予定ですので、ほぼ完了と見てよいかと」


 ミレーヌが、ぽつりと言った。


「予定は、到着ではありません」


 若い財務官の視線がミレーヌへ向く。


 ミレーヌは緊張したように指先を握ったが、続けた。


「東南救貧宿の時も、夜間便が出ただけでは完了ではなく、現場が受領してから完了でした。薪油も、午前便で出る予定なら、出発予定と書けばいいと思います。でも、受け取っていないなら完了ではないと思います」


 短い沈黙があった。


 バルナス主任が、低く言った。


「正しい」


 若い財務官は、少しうつむく。


 クラリスは責める口調を避けた。


「完了見込み欄を作ることはできます」


 全員が彼女を見る。


「ただし、完了欄とは別です。出発予定、到着予定、完了見込み。この三つを補助欄として書く。完了欄は、現場受領確認後にのみ埋める」


 オスカーがすぐに記録した。


 完了見込みは可。ただし完了欄と分離。現場受領確認前の完了扱い禁止。


 ドレイクが腕を組んだ。


「それなら港も助かります。便を出した時点で、港としては仕事が終わった感覚になる。だが、現場に届くまでは完了ではない、という区別ですね」


「はい」


 セレナが頷いた。


「慈善窓口としても、その方が返答管理しやすいです」


 若い財務官も、小さく頭を下げた。


「分かりました。完了見込み欄として記載します」


 ミレーヌは、そっと息を吐いた。


 クラリスは、その横顔を見て思う。


 彼女はもう、ただ記録するだけではなくなっている。


 紙の意味を見て、必要なところで止める。


 それができるようになってきた。


 次に議題になったのは、中央施薬院の薬瓶箱だった。


 薬瓶自体は割れていない。


 しかし、外装木箱が割れており、破片が混入していないか確認中。


 現場は怖くて使えないと書いている。


 財務院側の整理欄には、若い財務官の下書きでこうあった。


 薬瓶無損。外装破損のみ。使用可見込み。


 セレナが、その欄を見て眉を寄せた。


「現場一言欄との温度差がありますね」


 エリオットが頷く。


「薬瓶が割れていないことは事実です。ただ、現場がまだ使えないと言っている」


 バルナス主任が静かに言った。


「“使用可見込み”だけでは危ないでしょう。“破片混入確認後、使用可否判断”です」


 若い財務官は慌てて修正した。


 ミレーヌは、手帳に書く。


 壊れていない、は、今使えるではない。


 クラリスは、その言葉を見て小さく頷いた。


 これも札になるかもしれない。


 会議は順調に進んでいるように見えた。


 少なくとも、最初は。


 だが、三枚目の資料を確認していたドレイクが、不意に顔をしかめた。


「これは誰が書いた」


 その声に、全員の視線が集まる。


 ドレイクが見ていたのは、北西施療所の薪油の補足欄だった。


 名義経路欄。


 そこには、本来なら「財務院直手配」「港湾通常便」「仲介名義なし」などと書くべきところに、誰かが小さくこう書き添えていた。


 旧G便より早い


 部屋の空気が、急に変わった。


 ミレーヌの手が止まる。


 エリオットの顔が強張る。


 グレゴール参事官は、紙を引き寄せた。


「旧G便?」


 クラリスは、その文字を見た。


 小さな欄外メモ。


 正式な記入ではない。


 だが、確かに書かれている。


 旧G便より早い。


 つまり、現場の誰か、あるいは港湾の誰かが、今も「G便」という呼び名を知っている。


 しかも、比較対象として使っている。


「誰の記入ですか」


 カレルはいない。


 だが、クラリスの声は自然と調査の調子になった。


 ドレイクが控えを確認する。


「港湾補助書記のラウルだと思います。便の手配欄を補足した者です」


「ラウル様は、旧G便という言葉をどこで?」


「確認します」


 ドレイクはすぐに部下へ伝令を出した。


 バルナス主任は、その文字をじっと見ていた。


 顔色が悪い。


「バルナス主任」


 クラリスが声をかける。


「旧G便という呼び名に覚えは?」


「あります」


「今も使われているのですか」


「正式には、使われていないはずです」


「非正式には?」


 バルナスは、少し目を閉じた。


「港湾では、古い夜間便の通称として残っているかもしれません」


「G経由の経路が、今も実務語として残っている」


「可能性があります」


 グレゴール参事官が低く言った。


「廃止したはずの呼び名が、欄外に残るか」


 ドレイクは険しい顔をしている。


「港湾で確認します。旧G便という正式便はありません」


「正式には、でしょう」


 セレナが静かに言った。


 ドレイクは反論しかけたが、言葉を飲み込んだ。


 正式にはない。


 だが、欄外にはある。


 この事件で何度も見てきた構図だった。


 正式な帳簿にないものが、余白や札や呼び名に残る。


 ミレーヌが、慎重に手帳へ書いた。


 正式にない呼び名が、欄外に残る。


 クラリスは、その字を見て頷いた。


「この件は、例外負担票の運用確認とは別に、名義経路確認として扱います」


 グレゴール参事官が頷く。


「当然だ」


 ドレイクも、渋い顔で頷いた。


「ラウルから聞き取りを行います。港湾内の通称も確認します」


「お願いします」


 クラリスは、票を見た。


 薪油の不足は、まもなく補填されるだろう。


 それはそれとして進める。


 だが、その欄外に残った「旧G便」は別の問題だ。


 例外負担票は、現場負担を残すために作った。


 だが、思わぬ形で、古い経路の名残も拾った。


 紙を増やすと、隠れていた言葉が出る。


 それは、制度の副産物だった。


 会議が終わる頃、北西施療所から薪油補填の受領確認が届いた。


 午前便にて小瓶二本分受領。明晩分に充当可能。


 完了欄が、ようやく埋まった。


 若い財務官が、今度は慎重に書いた。


 補填完了:本日午前、北西施療所受領確認済み。


 ミレーヌは、それを見てほっとした顔をした。


「空欄が、正しく埋まりました」


「はい」


 クラリスは答えた。


「予定ではなく、確認で埋まりました」


 その横で、中央施薬院の薬瓶箱はまだ空欄のままだ。


 破片混入確認待ち。


 それでよい。


 空欄は、終わっていないことを喋っている。


 無理に黙らせてはいけない。


 顧問室へ戻ると、イリスが札用の紙を出した。


「今日も増えそうですね」


「増えます」


 ミレーヌは少し考え、まず一枚書いた。


 予定は、到着ではない。


 次に、クラリスが一枚書く。


 空欄は、終わっていないことを喋る。


 オスカーが珍しく一枚を取った。


 正式にない言葉ほど、余白に残る。


 イリスが三枚を並べて、少し満足そうに頷いた。


「本日の壁も、よく働きました」


 ミレーヌが笑う。


「壁が過労になりませんか」


「壁は立つのが仕事でございます」


 そのやり取りに、顧問室の空気が少しだけ和らいだ。


 しかし、クラリスの目は、もう別の紙を見ていた。


 旧G便より早い。


 欄外の小さな言葉。


 それは、古いG経由が完全には過去になっていないことを示しているかもしれない。


 ギデオン本人なのか。

 ギデオンの名を使った便なのか。

 ただの古い通称なのか。

 港湾の慣用語なのか。


 まだ分からない。


 だが、見逃せない。


 国際案件の箱に、二枚の紙が入る。


 一枚は、北西施療所の薪油補填完了票。


 もう一枚は、欄外「旧G便」確認メモ。


 空欄は、終わっていないことを喋る。


 そして余白は、まだ消えていない古い言葉を喋る。


 例外負担票は、現場の今夜を変えるだけではなかった。


 古い港湾の影まで、紙の上へ呼び戻し始めていた。

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