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第115話 似た声は、本人の声とは限らない

声は、紙に残らない。


 そう思われがちだ。


 けれど、声も時には記録に残る。


 誰かの証言として。

 誰かの記憶として。

 誰かが言ったはずの言葉として。


 ただし、声は厄介だった。


 外套よりも軽い。

 印よりも曖昧。

 筆跡よりも揺れる。


 その日の体調、廊下の反響、聞いた者の緊張、相手への思い込み。

 それだけで、声は別人のものにもなる。


 クラリスは、顧問室の机に置いたネーラの証言を見ていた。


 第一鐘前後、旧帳簿保管室入口で“第七箱はまだ仮置き台か”と声をかけられた記憶あり。声はバルナス主任に似るが背中越し。確定不可。


 似る。


 その言葉は、便利で、怖い。


「今日は、声ですね」


 ミレーヌが言った。


「はい」


 クラリスは頷いた。


「ただし、声で人を決めるのではありません。声がなぜ似て聞こえたのかを見ます」


「声が似て聞こえた理由……」


「本人だから似ていた可能性もあります。本人ではないが似ていた可能性もあります。本人の言い回しを誰かが使った可能性もあります」


 オスカーが、すぐに白紙へ三つの項目を書いた。


 一、本人の声。

 二、似た声。

 三、本人らしい言い回し。


 ミレーヌは、それを見て小さく呟く。


「外套と同じですね」


「ええ」


 クラリスは答えた。


「本人の物ではなく、本人らしい物で席が作れた。声も同じかもしれません」


 イリスが茶を置きながら、さらりと言った。


「口癖は、外套より借りやすいですから」


「本当に怖いことを言うわね」


「ですが、よくございます。旦那様のお言葉として、実際には執事の言い回しが伝わることなど」


 クラリスは頷いた。


 王宮では珍しくない。


 「陛下の御意向」と言われたものが、実際には側近の解釈だったこと。

 「王妃様がおっしゃった」とされたものが、女官長の判断だったこと。

 「財務院の見解」として流れていたものが、一人の主任の口癖だったこと。


 言葉は、人を離れて歩く。


 そして、歩く途中で、持ち主を変える。


 財務院旧帳簿保管室の入口は、思ったより音が響く場所だった。


 廊下が少し曲がり、石壁が近く、棚の奥から声をかけると、誰の声か少しこもって聞こえる。


 ネーラが「バルナス主任に似ていた」と言った場所。


 そこへ、クラリスたちは向かった。


 同行者は、クラリス、オスカー、ミレーヌ、王弟府調査官カレル、エリオット。


 財務院側からはグレゴール参事官も立ち会った。


「声の確認までやることになるとはな」


 グレゴールが苦い顔で言う。


「声で記録が動いた可能性があります」


 クラリスは答えた。


「なら、確認します」


「まったく、財務院は紙の府だと思っていたが、今日は劇場のようだ」


「劇場なら、なおさら誰が台詞を言ったか大事です」


 グレゴールは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。


「言い返せんな」


 ネーラは、旧帳簿保管室の入口に立つと、明らかに緊張した。


 昨日よりも顔色が悪い。


「無理に思い出さなくて構いません」


 クラリスは言った。


「覚えている範囲を、覚えているまま話してください」


「はい」


「声はどこから聞こえましたか」


 ネーラは、旧帳簿保管室の扉と、廊下の角を交互に見た。


「たぶん、このあたりです。私は鍵を開けて、帳簿棚の札を確認していました。背中側から、“第七箱はまだ仮置き台か”と」


「振り返りましたか」


「少しだけ。でも、保管室の中からモーリス様に呼ばれて、そちらを向いてしまって」


「顔は見ていない」


「はい」


「声だけ」


「はい」


 カレルが淡々と記録する。


 クラリスはさらに尋ねた。


「なぜバルナス主任だと思いましたか」


 ネーラは少し考えた。


「声も似ていました。でも、それより……言い方が」


「言い方?」


「バルナス主任は、いつも“まだ”とおっしゃるんです。第七箱は返ったか、ではなく、第七箱は“まだ”か、と。誰かを責めるような感じで」


 エリオットが目を伏せた。


 心当たりがあるのだろう。


「口癖ですね」


 ミレーヌが小さく言った。


「はい」


 クラリスは頷いた。


「声だけではなく、口癖で判断した」


 ネーラは頷いた。


「そうだと思います」


 オスカーが記録する。


 ネーラ証言:バルナス主任と判断した根拠は、声そのものに加え、“まだ”という言い回し・責める調子。顔は未確認。


 次に、財務院内の職員に協力してもらい、同じ場所で短い言葉を発してもらった。


 もちろん、芝居じみたことはしない。


 ただ、旧帳簿保管室の入口、廊下の角、棚の奥、それぞれから同じ言葉を言う。


 第七箱はまだ仮置き台か。


 最初に、エリオットが言った。


 声は若く、明らかに違う。


 次に、モーリス老書記官が言った。


 低く、少しかすれる。


 次に、グレゴール参事官が言った。


 響くが、重すぎる。


 最後に、セドリックが言った。


 若く緊張していて、似ても似つかない。


 ネーラは、そのたびに首を横に振った。


「違います」


 だが、廊下の角から、グレゴールが少し声を低くし、ゆっくりと言った時だけ、ネーラの表情が揺れた。


「今のは?」


 カレルが尋ねる。


「少し……近いです。でも、主任ではありません」


 グレゴールが苦い顔をした。


「私はそんなに嫌な言い方をしたか?」


「参事官」


 クラリスが軽く制した。


「今は感想ではなく、響きです」


「分かっている」


 この確認で分かったのは、声そのものだけでは判断できないということだった。


 廊下の角で低めに話せば、声はこもる。


 言い方を似せれば、相手の記憶はそちらへ引っ張られる。


 ネーラが聞いたのがバルナス本人だった可能性は残る。


 だが、本人らしい言い方を知る内部者なら、似せることも不可能ではない。


 ミレーヌは、手帳に書いた。


 声は反響で変わる。口癖は借りられる。


 クラリスは、それを見て小さく頷いた。


 その後、モーリス老書記官への聞き取りが行われた。


 彼は旧帳簿保管室の中にいた。


 ネーラが声を聞いた直後、彼女を呼んだという。


「当日の朝、外から誰かの声を聞きましたか」


 カレルが尋ねる。


「聞いたような気はします」


「どんな声ですか」


「低い声。だが、保管室の中は紙の音が多いので、はっきりとは」


「バルナス主任だと思いましたか」


 モーリスは少し考えた。


「その時は、そう思ったかもしれません」


「なぜ?」


「第七箱のことを気にする者は限られている。バルナスか、ハーゲンか、エリオット殿か、私か。声の調子から若い者ではなかった」


 エリオットが少し肩を硬くした。


 モーリスは淡々と続ける。


「ただし、私は顔を見ていない。声だけです」


「では、バルナス主任と断定は?」


「できません」


 クラリスは記録した。


 モーリス証言:低い声を聞いた可能性。第七箱を気にする者からバルナス主任を想起したが、顔は未確認。断定不可。


 ここでも同じだ。


 声そのものではなく、「その言葉を言いそうな人」から判断している。


 本人らしさ。


 また、それが出てきた。


 昼前、バルナス主任への短い再確認が行われた。


 彼は、声の確認と聞いて明らかに不快そうだった。


「私の声まで疑われるのですか」


「声そのものではなく、証言の根拠を確認しています」


 カレルが答える。


「三日前の第一鐘前後、旧帳簿保管室入口でネーラに“第七箱はまだ仮置き台か”と声をかけましたか」


「覚えていません」


「言っていない、ではなく?」


 バルナスは少し黙った。


「第七箱のことを確認した可能性はあります。旧港湾雑費整理のために必要でしたから」


「では、ネーラに声をかけた可能性は認める」


「可能性です」


「その時、あなたはどこにいましたか」


「財務院内です」


「南口外出前ですか、後ですか」


「私は外出していません」


 いつもの答えだ。


 カレルは、そこで深追いしなかった。


 代わりに、口癖について尋ねた。


「あなたは、部下に確認する際、“まだ”という言葉をよく使いますか」


 バルナスは、少し眉を寄せた。


「知りません」


「周囲の職員は、あなたの口癖として認識しています」


「それが何か?」


「その言い回しを使えば、あなたの言葉だと誤認される可能性があります」


 バルナスは、初めて少し動揺した顔をした。


「誰かが私の真似をしたとでも?」


「可能性の確認です」


「馬鹿げている」


 そう言ったものの、彼の声には完全な否定の強さがなかった。


 クラリスは静かに口を開いた。


「バルナス主任。あなたの外套らしいものが席に置かれた可能性があります。あなたの口癖らしい言い方で、ネーラ様に声がかかった可能性があります」


 バルナスは、クラリスを見た。


「つまり、私は嵌められたと?」


「そう断定していません」


 クラリスは即座に言った。


「あなたが関与した可能性も、あなたらしさを誰かが利用した可能性も、両方残しています」


 バルナスは、深く息を吐いた。


 怒りか、疲れか、恐れか。


 まだ分からない。


「……私の言い方を真似できる者は、財務院には多いでしょうな」


「具体的には?」


「長く同じ部署にいる者。旧港湾雑費の処理に関わった者。私を嫌っている者」


「誰ですか」


 バルナスは黙った。


 少し考えているようだった。


「ハーゲン」


 その名が、ようやく本人の口から出た。


「ハーゲン補助官?」


「彼は、私の言い方を皮肉って真似ることがありました」


「いつ頃から?」


「ここ半年ほどです。旧記録整理で衝突が増えてから」


「衝突の内容は?」


「彼が、古い南施療院の記録を蒸し返したがった」


 部屋の空気が静かに重くなった。


「蒸し返したがった」


 クラリスが繰り返す。


「はい」


「あなたは反対した?」


「古い件を今さら開けば、財務院全体が揺れます」


「それが理由ですか」


「十分な理由でしょう」


 バルナスの声は硬かった。


 だが、そこには初めて、南施療院の件に対する本人の見解が出た。


 クラリスは、慎重に聞く。


「ハーゲン補助官は、何を見つけたのですか」


「知りません」


「本当に?」


「……雑費控えに、余計な名前が残っていたようです」


「G・マース?」


 バルナスは答えなかった。


 だが、その沈黙は大きかった。


 カレルが静かに記録する。


「ハーゲン補助官は、南施療院記録を蒸し返そうとしていた。バルナス主任は財務院全体への影響を理由に反対。雑費控えに余計な名前が残っていたと認識」


 バルナスは、苦い顔で目を閉じた。


「余計なことを言いましたな」


「必要なことです」


 クラリスは答えた。


 午後、顧問室で整理が行われた。


 ミレーヌは、時系列表の横に新しい欄を作っていた。


 本人らしさ


 外套。

 口癖。

 席。

 処理箱。


「本人らしさを集めると、本人のように見える」


 彼女は言った。


「でも、本人とは限らない」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「ただし、本人らしさを利用できるのは、本人をよく知る者です」


「内部者」


「または、近くにいた者」


 オスカーが報告書をまとめる。


 表題。


 バルナス主任類似声および口癖確認報告


 主な内容。


 一、ネーラが聞いた声は顔未確認。判断根拠は声そのものに加え、“まだ”という言い回し・責める調子。

 二、旧帳簿保管室入口は音が反響し、声だけで本人特定は困難。

 三、モーリスも低い声を聞いた可能性があるが、顔未確認。第七箱を気にする者としてバルナス主任を想起。

 四、バルナス主任は、第七箱についてネーラへ声をかけた可能性を否定しきらず。

 五、バルナス主任の口癖・言い回しが本人らしさとして使われた可能性。

 六、バルナス主任は、ハーゲン補助官が自身の言い回しを真似ることがあったと証言。

 七、ハーゲン補助官は南施療院記録を蒸し返そうとしていたとバルナス主任が証言。

 八、バルナス主任は財務院全体への影響を理由に反対していた。

 九、雑費控えに余計な名前が残っていたとの認識を示唆。

 十、声・口癖による本人推定は、証言として弱く扱い、他の記録と照合する必要あり。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 似た声は、本人の声とは限らない。だが、その人をよく知る者の近さを示すことがある。


 ミレーヌは自分の札に書いた。


 口癖は、声より先に人を作る。


 イリスがそれを見て、少しだけ目を細めた。


「今日は怖い札が続きますね」


「ええ」


 クラリスは答えた。


「でも、必要です」


 国際案件の箱へ報告書を入れる。


 バルナス主任の朝は、まだ割れている。


 彼がいたのか。

 誰かが彼らしさを使ったのか。

 それとも、彼と誰かが別々に動いたのか。


 まだ分からない。


 だが、新しいことが見えた。


 ハーゲン補助官は、南施療院の記録を蒸し返そうとしていた。


 バルナス主任は、それを止めたがっていた。


 そして、誰かがバルナス主任らしい外套と、バルナス主任らしい言い回しを使い、財務院の朝を作った。


 次は、ハーゲンがなぜ南施療院の記録を開こうとしたのかを追う番だった。

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