第2話 絡む声、締まる家2
奥の部屋に、お紺がいた。膝を抱え、口が黒い糸で縫われている。
(……っ……っ……)
正は弥一の肩からふわりと飛び降り、畳の上を音もなく歩いていく。
近づくにつれ、黒い糸がびくりと震え、まるで正の気配を恐れるように縮こまった。
正はお紺の前で立ち止まり、糸に触れないよう、そっとしゃがみ込む。
お紺の呼吸に合わせて、糸がかすかに脈打っていた。
「これが“歪み”。言えなかった言葉が、自分の口を塞いでる」
正は静かに立ち上がり、お紺の背後に渦巻く黒い影を一度見上げてから、ゆっくりと弥一の方へ振り返った。
その目は、“ここからが本番だよ”と告げていた。
弥一は鑿を構え、一度、深く息を吸った。
天井から落ちてくる圧しの重みが肩にのしかかり、腕がじんと痺れる。
それでも、足を踏ん張り、鑿の刃先を黒い塊へそっと当てた。
コッ……コッ……
削るたび、天井がわずかに震え、がやの声が変わっていく。
(気が弱いからねぇ) → (大丈夫かい、お紺さん)
(旦那の機嫌ばかり見てるんだよ) → (無理しないでおくれよ)
弥一は肩で息をしながら、鑿を下ろした。
次に、壁の針へ向かう。
近づくと、針の根元から漏れる声に肌がひりつき、思わず一歩後ずさる。
それでも弥一はノミを握り直し、針の根元へそっと刃を添えた。
パキン……
乾いた音とともに、黒い針が砕け散る。
(お前が悪い) → (どうしたんだ)
(黙ってろ) → (話してみろよ)
刺す言葉は 芯 に変わった。
弥一はノミを下ろし、まっすぐ残った細い芯を見つめる。
その一本が、お紺の本当の声へ続く道のように思えた。
最後に足元の黒い沈殿を見下ろした。
底の見えない闇が、ゆっくりと呼吸するように揺れている。
「……あとは、これか……」
沈みがざわりと波打ち、弥一の足首へ細い糸のようなものを伸ばしてくる。思わず身を引きながらつぶやいた。
「これは……どうすればいいんだろう……?」
正は弥一の横へ歩み寄り、沈殿の縁にしゃがみ込んだ。
指先で黒い水面をそっと弾くと、沈んだ言葉がびくりと震え、箪笥の方へわずかに流れた。
「沈んだ言葉には……箪笥を使うんだよ」
正は弥一を見上げ、
“ここが肝心だよ” と言うように小さくうなずいた。
弥一は手許箪笥をそっと置いた。修理のとき、底板の裏に挟まっていた手紙のことを思い出す。
――読まずに戻した。
持ち主に返すべきだと思った。だから今日、届けに来たのだ。
沈んだ黒い言葉が、引き出しへ吸い込まれるように流れ込む。
そのとき――
箪笥の奥から、一通の手紙がふわりと浮かび上がった。
ひとりでに開くと、柔らかな筆の跡が光を帯びて浮かび上がった。
お紺へ
言えぬことがあってもよい。胸にしまったままでもよい。
つらくなったら、誰かに預けなさい。お前の声を、聞いてくれる人がきっといる。
母より
手紙の言葉が光となり、沈んだ黒い言葉を澄ませていく。
(……ありがとう……)(……つらかった……)(……言いたかった……)
澄んだ言葉が、お紺の胸の奥へ戻っていった。
魔窟が閉じる、圧しは心配に。刺すは芯に。沈むは澄むに。
三つの言葉が整った瞬間、魔窟全体が静かに揺れた。
お紺の口を塞いでいた糸がほどける。
「……ありがとうございます……」
お紺は涙をこぼしながら、初めて自分の声で言葉を発した。
弥一は箪笥を見つめ、小さくつぶやいた。
「……届けに来て、よかった……」




