表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
心削り師 弥一とノミの神  作者: ナフト


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/7

第3話 魔窟のあとさき

魔窟が閉じた瞬間、長屋を満たしていた黒い気配が、潮が引くように静かに薄れていった。


畳の色が戻り、行灯の火がふっと灯り直す。


つい先ほどまで歪んでいた空間が、何事もなかったかのように息を吹き返していた。


弥一は鑿を握ったまま、しばらくその場に立ち尽くした。

腕は震え、肩も足も鉛のように重い。


正が肩にぴょんと戻ってくる。


「よくやったよ、弥一。初めてで、ここまでできる人はなかなかいない」


その声はいつもより柔らかかった。


お紺はまだ膝を抱えていたが、口元には“声を取り戻した人”の温度が宿っていた。


「……ありがとうございます……」


震える声でそう言うと、胸の奥に戻った澄んだ言葉が、静かに呼吸しているのがわかるようだった。

弥一は箪笥の前にしゃがみ込み、そっと引き出しを閉めた。

――届けに来て、よかった。その思いが胸に広がる。正が袖を引いた。


「帰ろう。魔窟が閉じたあとは、長くここにいない方がいい」

「……どうしてだ?」


「“言葉の跡”が残るからね。魔窟にまだ慣れてない。引っ張られたら、戻れなくなる」


正の声は淡々としていたが、その奥にある“経験の重さ”が弥一にも伝わった。

弥一はお紺に深く頭を下げた。


「箪笥は……また明日、改めてお届けします。今日は、ゆっくり休んでください」


お紺は涙を拭いながら、何度も何度も頭を下げた。


外に出ると、夜風が頬を撫でた。

正がぽつりと言う。


「弥一。これで一つ、あんたは“心の大工”になったよ」


弥一は返事ができなかった。胸の奥に、まだ言葉にならない何かが渦巻いていた。


工房の灯りはまだついていた。師匠は帳場で帳面をつけていたが、弥一の顔を見るなり、筆を止めた。


「……遅かったな。お紺さんのところは、どうだった?」


弥一は言葉に詰まる。何から話せばいいのか分からない。


正が先に口を開いた。


「魔窟が開いてたよ。三層全部だ」


師匠の眉がぴくりと動く。


「三層……?沈み、圧し、刺す……全部か」


正がうなずく。


「弥一が、ひとりで閉じたよ」


師匠はしばらく弥一を見つめていた。

その視線は、叱るでも褒めるでもない。

“確かめる”ような職人の目だった。


「……無茶をしたな」


弥一は胸が締めつけられた。


「す、すみません……勝手に……」


師匠は首を横に振る。


「違う。無茶をしたのは、お前じゃない。“魔窟の方”だ」

弥一は顔を上げた。


「初仕事で三層を相手にするなんて、本来ありえねぇ。普通なら、心が折れて戻ってこれん」


正が肩でうんうんとうなずく。


「でも弥一は、折れなかった。ちゃんと“言葉を整えて”帰ってきた」


師匠は深く息を吐き、帳場の向こうからゆっくり立ち上がった。


「……弥一」


「はい」


「今日の仕事は――」


一拍置いて、


「見事だった」


弥一の胸が熱くなる。


「鑿の使い方も、ノミの入れ方も、

 お前は“物”じゃなく“心”を見ていた。

 それができる大工は、そうはいない」


正が得意げに胸を張る。


そのとき――

正は弥一の肩の上で、鑿の刃先を覗き込むように身を乗り出した。

木の体がわずかに締まり、刃の“甘い部分”に視線が吸い寄せられる。

まるで熟練の職人が刃の癖を読むときの動きだった。


師匠はちらりと正を見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。


数日後。長屋の前には町役人が来ていた。

旦那の死因を調べたが、外傷も毒もなく、争った形跡もない。

近所の者の証言もあり、「病死」として処理されることになった。


お紺は処罰を受けずに済んだ。だが、生活は厳しい。

収入は途絶え、心も弱っている。


そんな中、

長屋の大家や米屋の奥さんが声をかけた。


「針仕事なら手伝いがあるよ」

「無理に話さなくていいからね」


お紺は少しずつ働き始めた。

最初は震える手で針を持っていたが、日が経つにつれ、糸を通す手つきが安定していった。


近所の噂も変わった。


(お紺さん、気の毒だったね)(あの旦那じゃあ……)

(最近は挨拶もできるようになったよ)


噂は“責める声”から“支える声”へと変わっていった。


弥一が様子を見に行くと、お紺は深く頭を下げた。


「……暮らしていけそうです。 皆さんが、よくしてくださいます」


胸の奥に手を当てて言う。


「ここは、もう……苦しくありません」


その言葉は、現実の空気の中で生まれた“回復の声”だった。


そのとき、正は弥一の肩の上でふわりと立ち上がり、箪笥の木肌にそっと手を添えた。

木の節を確かめるように、指先で木目をなぞる。


「……うん。この箪笥、前より呼吸してるよ」


お紺は箪笥に触れてみて微笑んだ。


工房の裏手。

朝日の光が差し込む土間で、師匠は鑿を拭いていた。


そこへ、静かに足音が近づく。


「……邪魔するぞ」


榊原だった。奉行所の羽織を脱ぎ、肩にかけている。


師匠はちらりと視線を向ける。


「珍しいな。こんな朝早くお前がここに来るとは」


榊原は木屑の舞う工房を見渡し、低い声で言った。


「弥一のことだ」


師匠の手が止まる。


「……あいつがどうした」


榊原は静かに続けた。


「奉行所としては、魔窟の案件をこれから“弥一に任せる”方針になった」


師匠の目が鋭くなる。


「……神守の家の末裔としての、お前の判断か?」


榊原は苦笑した。


「俺に“力”はない。だが血筋として、魔窟の深さは知っている。

 そして……俺では踏み込めん」


師匠は鑿を置き、榊原を見据えた。


「弥一を使い潰す気なら、俺は許さん」


榊原は首を横に振る。


「違う。あいつは“選ばれた”んだ。魔窟に」


「神守の家は、もう俺ひとりだ。だが魔窟は消えない。

 だから……弥一に託すしかない」


師匠はしばらく黙り、やがて深く息を吐いた。


「……あいつは優しすぎる。心が折れたら、戻ってこれん」


榊原は静かに言った。


「だからこそ、お前が必要なんだ。俺には“血”しかない。だが、お前には“技”がある」


師匠は鑿を握りしめた。


「……弥一が折れたら、神守の名も奉行所も関係ない。俺がお前を許さん」


榊原は小さくうなずいた。


「覚悟はしている」


外の賑わいが工房を吹き抜けた。


榊原は帰り際に言った。


「師匠。弥一を頼む。神守の家の役目は……もう、あいつに託す」


師匠は背を向けたまま答えた。


「託すのは勝手だ。だが守るのは、俺の仕事だ」


榊原は静かに工房を後にした。


師匠はひとり残り、鑿を握りしめた。


「弥一……お前はあんなことにはさせない」


その声は、弟子を案じる師匠の声であり、同時に――

背負ってきた“闇”を知る者の声だった。


工房に戻ると、師匠が弥一を呼び止めた。


「弥一。今日から、お前に“ひとりの仕事”を任せる」


「……え?」


「魔窟の仕事だ。正と行け。お前なら、もう大丈夫だ」


弥一は深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


師匠は鑿を置き、ふと遠くを見るような目をした。


「弥一。魔窟の仕事は、“閉じれば終わり”じゃない」


弥一は息を呑む。


「言葉は…… 人を救うこともあれば、人を壊すこともある」


その声には、どこか深い影があった。


「俺も昔、一度だけ……“戻れなくなるところ”まで行った」


正が小さく震える。


師匠はそれ以上語らず、作業台に向き直った。


「いつか、お前自身の“言葉”と向き合う日が来る」


その言葉は、工房の静けさの中で重く響いた。


外に出ると、夕暮れの空が赤く染まっていた。


正は弥一の肩の上で、風に乗って流れてくる“木の匂い”を嗅ぐように

鼻先をすっと上げた。


「弥一。これから、もっといろんな“歪み”に出会うよ」


弥一は拳を握る。


「……俺は、逃げない」


正がにやりと笑う。


「うん。その言葉、忘れないでね」


こうして弥一は、

初めて“ひとりの仕事”を任され、

同時に師匠の背に潜む“闇”の存在を知る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ