第2話 絡む声、締まる家
魔窟へ足を踏み入れた瞬間、弥一は息を呑んだ。
そこは長屋だった。だが、長屋ではなかった。
空気が重い。胸の奥に石を押し込まれたような圧がのしかかる。
「……なんだ、これ……」
肩の上で、正が囁く。
「お紺さんの“言えなかった言葉”が沈んでるんだよ。沈んだ言葉は、重みになって底に溜まるんだ」
足元で黒い水のようなものが揺れた。踏み込むと、ずぶ…… と足を取られる。
(ごめんなさい)(わたしが悪い)(言えない……言えない……)
黒い沈殿は、死人の手のように足首へ絡みつく。
「お紺さんが飲み込んできた言葉だよ。言えなかったぶんだけ、底に沈んでいくんだ」
(お紺さん、また言えなかったんだってさ)(気が弱いからねぇ)(旦那の機嫌ばかり見てるんだよ)
噂話が響くたび、天井が ぎ……ぎ…… と軋み、ゆっくりと下がってくる。
行灯の火が押しつぶされるように揺れ、空気が重く、息がしづらい。
「これに…旦那は圧しつぶされた…?」
「うん。外からの言葉は、上から押しつける力になる。お紺さんはずっと、これに押されているように感じていたんだ、でもこれだけでは旦那はああならないよ」
(お前が悪い)(黙ってろ)(言い訳すんな)
壁には、黒い針のような言葉が突き刺さっていた。
針の根元からは、旦那の声がじわりと漏れ出す。近づくと、肌がひりつくような痛みが走る。
「刺す言葉は、針になるんだよ。曲がった力で相手を傷つける言葉だ」
弥一は沈む言葉、圧し、刺すを見渡した。
「……正。これ……まさか……」
正は静かにうなずく。
「うん。この三つが、旦那さんを呑んだんだよ。」
「三つ……?」
正は弥一の肩からふわりと飛び降り、沈殿の縁に立った。黒い水面が、正の足元にざわりと揺れる。
「まず“沈み”。お紺さんの飲み込んだ言葉が底に溜まって、旦那さんの足を奪った。」
正は沈殿へ指先を向ける。黒い言葉が、死人の手のように伸びてくる。
「次に“圧し”。噂話が積もって、天井ごと旦那さんを圧しつぶし、動けなくなるようにした。」
天井はぎ……ぎ……と音を立て、まるで正の視線に応じるようにさらに下がった。
「そして“刺す”。旦那さん自身の言葉が針になって、逃げ場を塞いだ。」
正は壁へ歩き一本の針にそっと触れた。天井の動きに合わせるように弥一の方へ向きを変える。
「沈みと圧しに挟まれて、刺す言葉に囲まれて……旦那さんは、言葉に呑まれたんだよ。」
弥一は喉を鳴らした。
「……言葉で……殺されたってことか……?」
正は首を横に振った。その動きは小さいが、はっきりしていた。
「ううん。違うよ。“言えなかった言葉”が積もりすぎただけ。それをどう感じるかは、その人次第なんだ。今もきついだろうけど大丈夫だろ? 彼は、自分の放った言葉に追い詰められて、勝手に責任をとっただけだよ。」
正は弥一の前に戻り、小さな手で弥一の袖を引いた。正は奥の闇を指さす。
「さあ、この奥だ。 お紺さんを、助けに行こう。」




