47.私はクラゲ
いつから示し合わされていたのか、あるいは誰の発案であったのかさえ定かではない。
夕闇が街の輪郭をうす甘い群青に溶かし始める頃、どこからともなく『ソサイエティ』の面々が集いはじめた。
日中は溜まり場に姿を見せなかった生徒までもが、どこからともなく現れ、慣れた足取りで連れ立ち、路地裏にへばりつくように建つ古びた焼肉屋の引き戸を潜っていく。
店内に満ちる脂とタレの饐た匂い、そして長年の煙に燻された飴色の柱が、彼らをいつものように無造作に迎え入れていた。
「はい、七海ちゃん。ラムネ」
「ありがとうございます」
戸川から手渡された冷たいガラス瓶を指先で摘むと、案の定、表面にはかすかなベタつきが残っていた。糖分の痕跡。毎回その小さないたずらのような不快感を忘れては握りしめてしまう自分のおかしさに、七海は胸の奥で小さく苦笑した。
手元に置かれた湿り気のあるおしぼりで指先を丁寧に拭い、次いでビー玉がカランと涼やかな音を立てる硝子胴の曲面を静かに拭き上げた。
「今日は槇村の奢りだからな。遠慮すんな、食え食え」
東海が無愛想とも親切ともつかない手つきで、黒ずんだ鉄網の上に次々と薄切りの肉を滑らせていく。ジゥ、と湿った熱気が弾ける音が立ち上る。
「なんですかぁぁ?!」
「だって、お前。あのTシャツが売れて稼げたんだろ?」
「いやいや! トウミ先輩の方がよっぽど稼いでますからね?!」
網の上で身をよじる肉片と、立ち上る煙の向こうで繰り広げられるいつもの賑やかな応酬。
七海はその光景を静かに網膜に収めながら、焼き上がったタン塩を口へと運んだ。
歯を立てると、肉汁の濃厚な旨味とともに、絞りかけられたレモンの青臭い清涼感が口腔の粘膜を一気に駆け抜けていく。
それを喉の奥へと飲み込んだとき、ずっと胸の澱のように溜まっていた疑問が、不意に滑り出た。
「東海さんて、卒業したらどうするんですか?」
東海は肉を引っ繰り返すトングの手を緩めることもなく、感情の波風を一切感じさせない飄々とした顔つきのまま、淡々と答えた。
「さあな。なんも決めてない……」
「えぇー? 会社立ち上げるんすよね? 俺たちで!」
槇村がすがるような目つきで身を乗り出す。
「いやいや。お前、法人を立てるのがどんだけ大変か分かってんのか? 登記の手続きだってあるし、初期投資だって要る。その先には容赦なく税務が追いかけてくるんだぞ」
「そこはお得意のAIでなんとかなりますって!」
「お前なぁ……」
七海は、戸川がトングの先から手際よく自分の小皿へと移してくれた肉片を見つめていた。表面に浮く微細な脂の泡が、蛍光灯の光を反射して小さく明滅している。
「会社、か……」
つぶやきは、網から上がる煙の中に溶けて消えた。
今年この美術大学の門を潜ったばかりの七海にとって、卒業やその先の生活といったものは、まだ霧の彼方に佇む出来事に過ぎない。けれど、いつかこのモラトリアムという名の温室を放り出されたなら、自分もまた「社会」という長大で歪な機構の、一個の歯車として組み込まれなければならないのだ。その手前には、就職活動という、まだ見ぬ恐ろしい儀式――自らの価値を切り売りし、品定めされる洗礼が待ち構えている。
しかし、この面々。
ソサイエティなどという得体の知れない名で結ばれた、奇妙で不均衡な仲間たちとならどうだろう。
この無辺の荒野のような世界を、なんとか溺れずに泳ぎ切ることができるのではないか。
それは甘えかもしれない。
都合のいい打算かもしれない。
あるいは単に、厳しい現実から目を背けて楽をしたいだけの卑怯な欲望に過ぎないのかもしれない。
……けれど、人間とて所詮は地球の上に蠢く脆弱な生命体の一つなのだ。
群れをなし、身を寄せ合うことで生存の確率を僅かに上げ、番を見つけ出す効率を高め、そうしてどうにか命の糸を明日へと紡いできたのではないか。
七海は、ロースターの熱気に晒されながら、ぼんやりとそんな生物学的な諦念に似た思考を巡らせていた。
手元のラムネ瓶を横から透かして見る。
炭酸の微細な気泡が、あたかも逆さまに降る雨のように、底から上へ上へと立ち上り、水面で儚く弾けて消えていく。その上昇の途上に、まるで孤立した小さな水星のように、青澄んだビー玉が頼りなく揺れていた。
「私たちも雇って貰おうねー!」
不意に、横から重みがかかった。
戸川が七海の肩に体を預けるように抱きついてくる。衣服から、ほんのりと甘く熱い酒の匂いが漂った。
今夜の彼女は、いつもより少しだけ酔いの廻りが深いようだった。
「はい。就活なんてしたくないんで、お願いします」
七海が努めて真面目な声色でそう応じると、
「ハッハッハー!」
「確かにぃ!」
テーブルを囲む全員から、屈託のない笑いが弾けた。
だが、期待の矛先を一身に浴びた当の東海はといえば、網の上の焦げ目を気にするポーズを崩さないまま、
「だから……。俺は単に、次の場所へ行くための腰掛けとしてここにいるだけなんだって。次はどこへ流れていくのか、俺自身にだって分からないんだから」
呆れたように、けれどどこか拒絶の線を引くように呟くのだった。
「あっ! また出た! いつもの『俺はクラゲみたいに生きてきた』ってやつですか?」
槇村がおどけて指を差すと、東海はあからさまに嫌そうな顔を作った。
「うるせぇ。ほら、ドンドン食え。どうせ槇村の金なんだから」
「だからなんで俺の財布前提なんすか?!」
再び、笑い声と網の上の爆ぜる音が混ざり合い、賑やかな狂乱が再開される。
「クラゲ……」
七海は唇の中でその音を反芻した。
だとしたら――自分もまた、クラゲと同じなのではないか。
確固たる意思があったわけでもなく、ただ時代の波や環境という抗いがたい海流に流されるまま、この美大という場所に漂着した。
ここへ来れば何か決定的な変化が訪れるのではないかという、根拠のない予感だけを抱えて。
そうして辿り着いたこの場所は、酷く騒々しく、不条理に満ちていて、けれど――思いのほか、あたたかかった。
自分はまだ、外海を知らない幼いクラゲに過ぎないのかもしれない。
けれど、いつの日か。
彼らのように、混沌とした欲望と強烈な自我を剥き出しにし、不格好に、けれど美しく足掻きながら生きていく「人間としての意思」を持てるようになるのだろうか。
胸の奥に小さく芽生えたその問いかけに、「希望」という大層な名前を与えるのは、いささか青臭すぎるだろうか? 七海は自らの思考のキザさに、ほんの少しだけ頬を熱くした。
「さ、七海ちゃんも遠慮しないでドンドン食べなさい!」
戸川がまたしても、焼きたてのタン塩を七海の皿へと滑り込ませる。
「分かっていますね。私はタン塩一点突破です」
七海は隣の先輩を、少しだけ悪戯っぽく見つめた。
「もちろん!」
戸川は子供のように屈託なく笑った。
そんな賑やかで泡沫のような宴も、一時間ほどで終わりを迎えた。槇村が懐から引き出した財布の底を覗き込み、情けない悲鳴を上げたからだ。
示された伝票の数値は、学生の懐には容赦のないものだったが、「まあ、このソサイエティに属している限り、餓死することはないさ」と、東海は満足そうに口の端を上げていた。
店を出た一行は、線路に沿って伸びる夜道へと連なって歩き出す。
肌にまとわりつく夏のぬるい夜風。鉄のレールを軋ませて過ぎ去る電車の走行音。街灯の光の下で揺れる仲間たちの影と、途切れることのない笑い声。
「二次会どうします?」
「カラオケ行かね?」
「コンビニで酒とつまみ買い込んで、溜まり場で飲めばよくね?」
「俺、アイス食べたいっす」
誰もが取り留めのない会話の糸を紡ぎながら、この愛おしい夜が終わりに向かうのを少しでも引き引き延ばそうと、思い思いの提案を口々に投げ交わしていた。
七海は、ふと足を止めた。
賑やかな集団の足音から、ほんの数歩分だけ取り残される。
見上げれば、今夜の空もどんよりとした低い雲に覆われており、微かな星の光さえ見出すことはできなかった。
「七海ちゃん? どうしたの?」
振り返った戸川の声が、夜気を突き抜け届く。
それに引きずられるように、全員が足を止め、七海の方へと視線を戻した。
「次、行かないのか?」
東海が少しだけ目を細めて尋ねる。
七海はそれに対して、夜の闇に紛れるような薄い笑みを浮かべた。
「あ、すみません。私、今夜もうちょっと走ろうかなぁって……」
七海は、自身の傍らで静かに金属の冷たさを主張しているロードバイク――古いレイダックの、真新しいハンドルグリップをぎゅっと握り締めた。
「うわー、相変わらず体力あるっすねぇ」
「稼ぐねぇ。まあ、俺も明日からのためにバイト増やすか……」
この宴から七海一人だけが離脱していくことを、誰一人として咎めたり、不自然に理由を詰問したりはしなかった。この集団における距離感の心地よさが、そこにはあった。
「今夜は、もう少し稼げそうなので……」
小さくそう呟くと、七海はレイダックの細いトップチューブを跨ぎ越した。
「じゃあね、七海ちゃん! また明日!」
「気をつけろよ」
夜の静寂の中に、それぞれの温かい声援が響く。
七海はサドルに腰を落ち着けると、ペダルに体重をかけ、確かな手応えとともに踏み込んだ。
金属の噛み合うカチリという音とともに、リアのギアを一段落とす。
歩道の上に立ち止まる仲間たちの横をすべらかに抜き去り、七海は深く暗い夜の街へと躍り出た。
この先、資材置き場の陰に隠すように置いてあるフードデリバリー用の大きなバッグを回収しなければならない。足腰の疲労と時間を計算すれば、まだ数時間は走れるはずだ。
運が良ければ、夜の街でさらに五件ほどの注文をこなせるだろう。
再び、激しい金属音と轟音を立てて、高架の電車が七海の右上方から追い越していく。
ふと視線を上げれば、疾走する車窓の明かりの中に、疲れを宿した乗客たちの丸い頭が幾つも並んで揺れていた。
高架から漏れ出る規則的な四角い光芒は、暗い海面を照らす波間に揺れる月光のように七海の視界を眩しく彩り、そして一瞬のうちに遥か前方へと過ぎ去っていった。




