46.七月の風
セミの声を聞くや否や、東京の空気は苛烈な酷熱へとその質を変えた。
重たく粘りつく熱気が都市を覆い尽くし、アスファルトの照り返しは視界の端々を歪ませている。
七海は、コンビニエンスストアの側壁が落とすわずかな影の帯へと滑り込んだ。
ロードバイクを乾いたコンクリートの壁に立て掛け、その隣で自らも膝を折り、背を預ける。アンダーフレームのボトルケージから抜き取った麦茶のペットボトルは、すでにぬるま湯のような温度へと成り下がっていた。
それを口に含んでも、喉の渇きが癒えるわけでもなく、ただ生命維持のための無機質な水分補給に過ぎない。
七海はぐったりと首を投げ出し、Tシャツの胸元をパタパタと仰いだ。
全身が湿り気を帯び、もはや皮膚のどこを探しても乾いた場所を見つけることのほうが困難な有様だった。
ふと左腕のチープなカシオに目をやると、デジタル表示は「13:21」を刻んでいる。
早朝からペダルを漕ぎ続け、これで八件のフードデリバリーを終えたところだった。
稼ぎの数値としては悪くない。
問題は、この天上に君臨する太陽の容赦のなさだ。
七海は眩しさに目を細め、白酷の空を苦々しく仰ぎ見た。
額の汗を拭おうとした指先が、左目の上にある細長い傷跡に触れ、微かな抵抗感を覚える。
「……もう、いいかな……」
呟きが、乾いた喉から漏れた。特別なノルマを課していたわけではない。
だが、手にする報酬と、逃げ場のない酷暑の中ですり減らしていく肉体の労力とが、もはや不均衡を起こしているのは明白だった。
さっさと安アパートの自室に逃げ帰り、シャワーで汗を洗い流して、冷気が満ちた狭い部屋で課題制作に没頭するのもいい。
あるいはスマホの画面を無目的にスクロールし、滑稽なほど無為で怠惰な時間を浪費するのも悪くはない。
自分は一応、美大生という免罪符のようなモラトリアムを満喫している、一年目の小娘に過ぎないのだから。
しかし、思考を巡らせてみれば、ここからであればアパートよりも大学のキャンパスの方が近かった。
土曜日である今日も、あの不規則な資材置き場には「ソサイエティ」の面々が集まり、今月下旬に迫った講評会に向けて、脈絡のない制作に勤しんでいるはずだ。
七海はフラットバーの黄色いグリップに引っ掛けていたキャップとヘルメットを取り上げた。
手ぐしで汗ばんだ髪をかき上げ、キャップを前後逆に被り直す。湿り気を帯びた布地が頭皮に触れる感覚は不快だったが、これがいつしか身についた彼女のスタイルだった。
その上からヘルメットを被り、カチリと顎紐を留める。立ち上がり、愛車である古いブリヂストン・レイダックのハンドルを固く握りしめた。
日陰の領域から滑り出し、トゥクリップに爪先を押し込んでペダルを力強く踏み込む。
走れば、流れる風がふたたび味方へと変わる。
東京という巨大な都市の風が七海の汗をさらっていき、額の傷跡を静かに撫でて通り抜けた。
跨線橋のゆるやかな弧を描き、無機質な研究所の壁面を通り過ぎてゆく。
歩道を行き交う人々の足取りは不規則で、まばらだった。
まるで自分と彼らとの間には、決して交わることのない時間軸の隔絶が存在しているかのように感じられる。
時折、不機嫌そうな排気音を響かせながら七海を追い越していく乗用車もあるが、彼女の意識の表面を滑り落ちていくだけだ。
白い一時停止線で、確実に車輪を止める。
左右の安全を確かめ、左へと車体を傾けると、そこからはなだらかな下り坂が広がっていた。
都市という巨大な生体組織の皮膚を撫でるように、七海は滑らかに自転車を走らせた。
やがて校門をくぐると、敷地内にはいつもと変わらぬ、どこか浮世離れした日常が広がっていた。
鮮やかな花壇の向こうでは、三脚に固定されたスマートフォンに向かって、男子生徒たちが滑稽で異様なダンスを踊っている。
配信動画か、あるいはSNSのショートコンテンツの撮影だろうか。
七海はロードバイクから降り、サドルを押しながらゆっくりと歩を進めた。
校舎の玄関前のブロック床には、中身を失ったティラノサウルスの着ぐるみが、まるで真夏の脱皮殻のように転がっていた。
あまりにもリアルなその質感を一瞬不思議に思いながらも、七海はその横を静かに通り過ぎた。
ソサイエティの溜まり場である資材置き場にも、見慣れた混沌がそのままの形で存在していた。
戸川は巨大なキャンバスに向かい、激しい腕の動きで油彩の筆を走らせている。
槇村は、幾重にも幾何学的な改造が施されたエレキギターを大型アンプに繋ぎ、前衛的で耳障りなノイズの断片を撒き散らしていた。
東海のほうといえば、歪んだパイプ椅子に身を沈め、ノートパソコンの青光りする画面で古いモノクロ映画をぼんやりと眺めている。
残る数人は、テーブルの上で用途のわからない紙粘土の人形を、まるで工場作業のようにひたすら量産していた。
美術大学という空間が持つ特有のカオス。
しかし七海は、この不条理な秩序の中に、自分自身がいつの間にか心地よく沈着してしまっていることを自覚していた。
「お疲れ様です」
七海が空間の密度を割るように声をかけると、彼らは視線を完全に切り替えることもなく、口々に言葉を投げ返した。
「お疲れー」
「うわぁ、すごい汗……」
「なんだか、急に焼けたねぇ」
無遠慮だが温かい、皮膚感覚の近い言葉たち。
気になり、七海は壁際に追いやられ、端が微かにひび割れた姿見の前に立った。
鏡の中に収まっていたのは、すっかり陽に焼け、どこか野生味を帯びた見知らぬ自分の姿だった。
短くまとめた髪、貰い物であるオーバーサイズのTシャツ、黒いキャップの庇。
浅黒くなり始めた肌の質感は、まるで健気な少年のように見える。
ほんの半年前、まだ曖昧な輪郭しか持っていなかった頃の自分とは明らかに違う存在がそこに立っており、七海は不思議な断絶感を覚えた。
「あ、ねえ。七海さん。春日さんから、心配するメッセージ来てましたよ? なんか、いつでも連絡ほしいって」
まだ名前すら覚えていない男子生徒が、粘土を捏ねる手を止めずに唐突に言った。
「春日……さん?」
七海は首を少し傾げた。
「ほら、いつだったか。バーベキューで会った、あの金髪の女の子。覚えてない?」
キャンバスから目を離さずに、戸川が助け船を出す。
七海の記憶の底から、あの日の湿った光景が浮上した。
シャワーを借り、あの部屋に満ちていた異質な居心地の悪さから逃れるようにして飛び出した、あの金髪の彼女のことだ。
すると、粘土を捏ねていた別の男子生徒が、肘で隣を突きながらからかうような声を上げた。
「コイツさ、春日さんと付き合い始めたんだってよ!」
声をかけられた男子生徒は、手元の粘土を弄くりながら、満更でもない様子で照れくさそうに頭をかいた。
「いや、まあ……そう、なんだけどさ」
七海の思考の奥底で、小さな波紋が広がる。
――そうか。なら、あの男とは別れたのだろうか。
あの部屋の空気を重く沈殿させていた存在。時折転がり込んでくると彼女が語っていた、名前も顔も知らない、ただ不快な気配としてのみ記憶に残っている歪な関係性の男。
だが、それ以上の詳細を七海は知らないし、踏み込んで聞いたこともない。あるいはすべては七海の身勝手な不快感が作り出した妄想に過ぎなかったのかもしれない。
しかし、いまの七海にとって、それはすでに薄膜の向こう側の、どうでもいい出来事に過ぎなかった。
友人たちから冷やかされて鼻の下を伸ばしているこの男子生徒は、そんな背景など知る由もないだろう。
そして、知る必要などどこにもないのだ。
七海は鏡から視線を外し、キャップの庇を指先で少しだけ直すと、静かな声で告げた。
「……まあ、心配しないで、と伝えておいてください」
その言葉は、埃っぽい資材置き場に、あっけなく溶けて消えていった。




