45.蘇る輝き
展覧会の熱気が去り、一週間という時間が静かにその余韻を削ぎ落としていた。
銀座のレンタルスペースという、どこか他人行儀で余白の多い空間で開催されたグループ展。
七海にとって初めての「自らの作品が見知らぬ他者の視線に晒される」体験は、確かな手応えを残すこともなく、ただ流れる水のように呆気なく過ぎ去っていった。
百余人という来場者の数が多いのか少ないのか、彼女には測りかねた。
ただ、自作のテクスチャーアートの傍らに置かれた椅子に腰掛け、まるで展示室の置き物か学芸員のように静かに時を過ごしていたことだけが記憶に残っている。
重厚な塗膜と陰影を見つめる人々の視線は真剣で、密やかな吟味を含んでいたが、言葉が交わされることはなかった。
彼らはただ静寂の中で頷き、次の壁面へと視線を滑らせていったのだった。
だが、失意があったわけではない。
作品のテクスチャーをグラフィックとして再構築し、Tシャツに落とし込んで物販を手掛けた槇村が、
「結構な利益が出たので、焼肉を奢るっす!」
と手放しで喜んでいた。
誰かが自らの表現を手に取り、対価を支払ったという事実は、タダで肉にありつけるというささやかな現実味を帯びて、七海の胸の奥をほの暖かく満たした。
初夏の兆しを孕んだ日曜の朝。
七海は、歯車のモチーフが刷られたTシャツに袖を通し、自室を出た。
見上げる空は高く澄み渡り、押し寄せる夏の足音がすぐそこまで来ていることを感じさせる。
いつもの通学路を辿り、美大へと足を進める。
休日特有の静けさのなかに、どこかそわそわとした生徒たちの影が散見された。
フェンス越しに見える野球場では、造形科の学生たちが、あの謎めいた焼け焦げたモニュメントを解体する作業に追われていた。
冷気を含んだ廊下を抜け、馴染みの場所――資材置き場へと向かう。
建付けの悪い戸を押し開けると、軋む音とともに、使い古された絵の具と金属の匂いが鼻腔をくすぐる。
その雑多な空間が、今の七海には何よりも心地よかった。
馬渕東海は使い古されたソファに深く身体を沈め、戸川はパイプ椅子に腰を掛けたまま雑誌のページをめくっている。
そして槇村は、事故で傷ついていた七海の愛車――ブリヂストン・レイダックのフレームを、油の染みついたウエスで丁寧に拭き上げていた。
「おはようございます」
声をかけると、まどろみを含んだ「おはよう〜」「ういーっす」という声が重なって返ってくる。
槇村だけが振り返り、顔いっぱいに破顔した。
「七海さん! 待ってましたよ。ほら、生まれ変わった新レイダックです!」
大袈裟に両腕を広げる槇村に応えるように、七海はスタンドに佇む相棒へと静かに歩み寄った。
その、黒いサドルにそっと指先を滑らせる。
「なんだか……可愛くなっちゃいましたね」
漏れ出た言葉は、素直な感慨だった。
白から紫へと滑らかに溶け込むグラデーションのフレームはそのままに、折れてしまったフロントフォークは無骨で太い黒のカーボンメッシュへとすげ替えられている。
かつて彼女を苦戦させたドロップハンドルは取り払われ、高校時代のシティサイクルを思わせるゆるやかなフラットバーに変わっていた。そしてその両端には、鮮やかな黄色のラバーグリップが添えられている。その挿し色が、妙な愛嬌を与えていた。
「あり合わせのパーツで組み上げたんで、こんな感じになっちゃいました。気に入らなければ、純正品を取り寄せますけど」
胸を張る槇村に、七海は首を振った。
「いえ……槇村先輩、ありがとうございます。私、この子のこと……もっと好きになれそうです」
愛おしさを込めて黄色いグリップを強く握りしめると、手のひらに吸い付くようなゴムの感触を通じて、冷たい鉄の造形物にふたたび命が宿っていくのが分かった。
胸の奥で、風を切って街を駆け抜ける感覚が鮮やかに蘇る。
衝動を抑えきれなくなった七海は、勢いよく顔を上げた。
「槇村先輩! ちょっと試しに走ってきてもいいですか!?」
「ダメっす……」
あっさりと遮られた声に、七海は目を見開く。
「ええっ!? なんでですかあ!?」
「まだ、ブレーキを取り付けてないっす」
「あっ……でも、大丈夫じゃないですか? ほら、止まらなきゃいいだけですし……」
「ダメっす!! 完全に、道交法違反っす!!」
「えええぇ!!」
噛み合わない押し問答に、ソファの奥から東海の豪快な高笑いが弾けた。
「はーはっはっはっハッハッハ!」
呆れと可笑しさが混ざり合う空気の中、七海は少しだけ唇を尖らせ、いじけたようにそっぽを向いた。
初夏の光が、窓越しに彼女たちの小さな日常と、蘇ったロードバイクをキラキラと輝かせていた。




