39.転生できない私たち
六月。
梅雨の気配を孕んだ湿った風が、七海の通う美術大学のキャンパスを包み込んでいた。彼女の日常には、極めて精密で、それゆえにどこか無機質な多忙さを帯びたルーティンが定着しつつあった。
午前中の講義を漏れなく消化し、午後は自身が専攻するテクスチャーアートの制作に没頭する。絵の具に砂や繊維を混ぜ合わせ、キャンバスの上に物質としての凹凸を、触覚的な記憶を定着させていく作業。放課後になれば、キャンバスから離れ、「資材置き場」と呼ばれるソサイエティの溜まり場へと足を向けた。
そこでは、先輩の槇村の手伝いという名目で、古いレイダックの修理――否、もはやそれは「再生」と呼ぶべき執念深い作業――に時間を費やす。
油と金属の匂いに塗れた時間が終わると、今度は商店街の片隅にある、年季の入った小さな整骨院へと向かうのだった。
そこでの施術が、一体何のためのものなのか、七海には今ひとつ判然としなかった。
「事故の被害者としての当然の権利」
周囲の誰もがそう異口同音に諭し、当初は保険会社からすべての費用が賄われると説明されたからこそ通ってはいるものの、日々繰り返されるその行為は、あの忌まわしい衝突事故とどう結びついているのか、理解の範疇を超えていた。
腕に電極を貼り付けられ、微弱な電流が神経をチクチクと刺激する。その無機質な刺激ののち、後半は決まって施術台にうつ伏せになり、全身をもみほぐされるマッサージの時間となる。
「なにか、運動でもやってらっしゃるの?」
初老の、いかにも恰幅の良い女性施術者が、肉厚な手で七海の背中を押し込みながら尋ねてきた。
「いえ……なにも……うぐぅ……」
否定の言葉は、顔を埋めたクッションの冷たい布地に吸い込まれ、潰れた。左の肩甲骨と右の臀部を同時に、対角線上に強く圧迫される。身体が斜めに引き伸ばされるような、痛みの境界線上にある、得も言われぬ快感が走り、思わず声が漏れた。
「そうなの? だって、ふくらはぎの筋肉がすごく逞しいもの。てっきり、何か競技でもされているのかと思ったわ」
おばさんは手を止めず、滑らかに揉み進めていく。この施術者はかなりの話し好きで、それが七海にとっては退屈しのぎになり、密かな好意を抱く理由でもあった。
「あー……自転車に、乗るから、でしょうか」
七海は合点がいったように呟いた。
日々の通学、そして生活費を稼ぐためのフードデリバリーのアルバイト。あの『Society』のロゴが掠れたステッカーをフレームに貼った愛車――ロードバイクを駆って街を縦横無尽に疾走していた日々。
知らぬ間に、ペダルを漕ぎ続けた肉体は、自立した確かな変化を刻み込んでいたのだ。
「あぁ、なるほどねぇ」
「そうです。それで、あの、トラックに撥ねられてしまって……」
「あらまあ。でも、その程度の怪我で済んで本当に良かったじゃない。だからこそ、毎日ちゃんと通いなさいね」
抜け目のない営業トークを滑り込ませてくるその図太さに、七海はうつ伏せのまま、苦笑を噛み殺した。
だが、実質的に無償で、こうして毎日極上のマッサージを受けられるのだ。そこに生じる奇妙な心地よさと、ささやかな利得感は、通い始めに抱いていた後ろめたさを容易に凌駕していた。七海は、自分自身の現金な割り切り方に、苦笑を禁じ得なかった。
フードデリバリーの仕事は、当面の間、完全な休業を余儀なくされている。
何より相棒であるロードバイクが現在「資材置き場」で治療中であるし、今ここで焦って汗を流さずとも、しばらくすれば保険会社から相応の慰謝料が振り込まれると聞かされていたからだ。
アパートの薄暗い一室に戻ってからの時間は、極めて怠惰で、凪いだ海のように静かだった。
YouTubeの動画を脈絡もなく画面に流し、あるいは槇村先輩から「布教活動っす!」と無理矢理貸し出されたライトノベルのページをめくる。
槇村が好む「異世界転生」や「悪役令嬢」といった突飛な設定は、最初こそ七海の頭に上手く像を結ばなかったが、読み進めるうちに、その平易な文体と、コミカルに躍動するキャラクターたちの掛け合いに、いつしか硬かった頬が緩んでいる自分に気づく。そして何より、そこには現実の世界では到底見出せないような、全き善意と、無条件の優しさに満ち溢れた世界が広がっていた。
今の現実の、どの街角を探しても見当たらないような、そんな完璧な優しさが――。
ある土曜日の午後。
七海は、あの日の事故現場へと足を運んでいた。
揺れる路線バスに揺られ、停留所からしばらく歩いた、見覚えのある街並み。
事故の直後、七海は完全に意識を喪失していたため、当時の記憶は断片すら残っていない。ただ、トラックの側面に弾かれ、縁石を跳び越えて宙を舞った彼女の身体は、一軒の店舗のウィンドウを粉砕して突っ込んだのだと、のちに聞かされていた。
多大な迷惑をかけたその店に、せめてもの謝罪の意を表そうと、彼女の手には菓子折りが握られていた。もっとも、それは加害者側の運送会社が病院の病室を訪れた際に置いていった見舞い品の、完全なる流用であったが。
しかし、その目的の店舗の前に佇んだとき、七海は呆然と立ち尽くした。
「……お菓子、屋さん……」
事前に耳にしていた店名だけでは気づかなかったが、そこは暖簾の揺れる、古風な和菓子屋だった。
和菓子屋に対して、他所で買った菓子折りを持参して謝罪する――その行為の滑稽さと間抜けさに気づき、七海の足はすくんだ。店構えはすでに新調された美しいガラス戸に覆われており、凄惨な事故の痕跡など微塵も留めていない。もしかして、場所を間違えたのだろうか。
不安に駆られ、七海が辺りをキョロキョロと見回していた、その時だった。
明るい店内のカウンターの奥から、七海の姿を認めた黒縁眼鏡の年配の男性が、弾かれたように表へ駆け出してきた。
「あんた、もしかして……あの時の、事故の、お嬢ちゃんじゃないか!?」
その尋常ならざる勢いに圧倒され、七海は思わず半歩、後退りそうになった。
「あ、はい。そう、そうです……おそらく……」
語尾を濁しながら答える。
「大丈夫だったのかい!? いやあ、あの時は本当に凄かったんだから。血だらけでさ、本当に心配したんだよ。でも、こうして元気になって、本当に良かった……!」
男の瞳には、打算のない本物の憂慮の色が浮かんでいた。
「あの、その節は、本当に多大なご迷惑をおかけしてしまって……」
七海が慌てて頭を下げ、菓子折りを差し出そうとした瞬間、男は店内に向かって大声を張り上げた。
「おい、母さん! おーい、母さん! あの子が、ほら、あの事故のお嬢ちゃんが来てくれたよ!」
その呼び声に応じるように、店の奥にある厨房の仕切りから、割烹着を身に纏った、店主の年齢に比して驚くほど若い女性がパタパタと小気味よい足音を立てて現れた。
「まあまあ! あなた、体はもう大丈夫なの? あらあ、おでこに少し傷が残ってしまったのね……痛かったでしょうに。さあ、立ち話もなんだから、入って入って!」
「あ、あの……」
困惑する間もなく、七海は半ば強引に店内へと誘われた。
気がつけば、店内の片隅に置かれた小さな木製の椅子に腰掛けさせられ、目の前には冷たく澄んだ緑茶が差し出されていた。
それから、とりとめのない会話が始まった。
七海がガラスを派手に突き破ってくれたおかげで、保険金が下り、念願だった新品の自動ドアを導入することができたのだ、と店主は笑った。もちろん、その改修費用もすべて相手方の保険会社に請求できるのだという。そして、意識を失ったまま救急車で搬送されていった七海の安否を、夫婦でずっと祈るように気にかけていたこと。
「いやあ、あの瞬間は心臓が止まるかと思ったよ。突然、ガッシャーン! だからね。一瞬、店に隕石でも降ってきたのかと思ったよ」
店主がおどけた身振りを交えて語ると、狭い店内は温かな笑い声で満たされた。
さらに、彼らは店の名物であるという「芋羊羹」を皿に載せて勧めてくれた。
口に運ぶと、さつま芋そのものが持つ素朴で、それでいて濃厚な甘みがじんわりと広がり、七海は一瞬でその味の虜になった。この美味しさを、ぜひ「資材置き場」のソサイエティの面々にも伝えたいと思い、いくつか購入させてほしいと申し出ると、
「いいの、いいの! そんなの気にしないで。気に入ってくれたなら、あるだけ持っていきなさい!」
と、奥さんは断る隙も与えず、ずっしりと重みのある紙袋いっぱいに羊羹を詰め込んで持たせてくれた。
終いには、この歳の離れた夫婦の、いささか劇的な馴れ初め――二十歳近く年下の、パティシエを志していた若き日の奥さんを、この実直な店主がいかにして射止めたかという惚気話まで聞かされ、七海は自分が一体何のためにここへ謝罪に来たのか、輪郭が曖昧になっていくのを感じていた。しかし、頭を掻きながら本気で顔を赤らめている店主の姿には、打算のない誠実さと人間味が溢れており、不思議と心地よい幸福感が胸を浸していくのだった。
去り際、夫婦はわざわざ店の外まで見送りに現れ、七海の姿が小さくなるまで大きく手を振り続けてくれた。
「またいつでも遊びに来るんだよー!」
「来月から、いちご大福の試作品を始めるから、絶対に試食しに来てねー!」
七海も振り返り、何度も大きく手を振り返した。
歩みを進め、角を曲がる直前に今一度だけ後ろを仰ぎ見ると、二人はまだそこに佇み、まるで遠出する我が子をいつまでも見守るかのように、名残惜しそうにこちらを見つめていた。
その視線の温かさに、七海は胸の奥が少しだけ、くすぐったいような、むずがゆいような熱を帯びるのを感じた。
帰りのバスの座席に深く身体を沈める。
窓の外には、夕闇の濃淡に染まりゆく家々や、家路を急ぐ人々の営みが、古い映画のフィルムのように緩やかに流れていく。
彼女の足元には、あの芋羊羹が端正に整列し、詰められた紙袋が静かに鎮座していた。
そして、ふと、胸の底から湧き上がるひとつの感情があった。
――案外、この現実の世界も、それほど捨てたものではないのかもしれない。
わざわざ本を開いて、ここではない「異世界」へと魂を逃避させなくとも、奇妙な事故がもたらした数奇な巡り合わせと、和菓子の持つ飾らない甘さの中に、こうして確かに、かすかな幸福の粒子は漂っているのだ。
私たちはその淡い光を、日々の営みの中で一つ一つ丁寧に紡ぎ合わせながら、ただ生きていくしかないのだろう……。
と。




