40.意識の深海
七海が美術大学の学生としての本分を全うし、それと並行して、規律正しい、いわば「完璧な人間としての営み」を忠実になぞるようになればなるほど、彼女の胸中にはある種の固有の気楽さが、凪のような静けさをもって居着き始めていた。
朝になれば起きる。学校に向かう。講義室の硬い椅子に腰を下ろして教授の声を聴き、放課後は油と鉄の匂いの立ち込める資材置き場で、槇村とともにロードバイクの精緻な骨格をいじる。
夕暮れ時には商店街の片隅にある整骨院の施術台で、目的の曖昧な治療に身を委ね、アパートの自室に帰れば、誰の目を気にすることもない無為な時間を貪ってから、深い眠りに落ちる。
肉体は程よく疲弊し、胃の腑は程よく満たされ、時にはソサイエティの先輩たちの気まぐれな好意によって、温かい食事を奢ってもらうこともあった。
あの衝突事故が彼女の身体に残した、額のひきつれたような傷跡は、今も生々しい輪郭を保ったままであったが、七海がそれを前髪で執拗に隠そうとしたり、他者の視線を恐れて俯いたりするような素振りは微塵もなかった。
それは彼女にとって、すでに拒絶すべき醜い異物ではなく、自らの歴史の一部として受容された皮膚の風景に過ぎなかった。
そして、その肉体的な受容と呼応するように、彼女がキャンバスに向かう際のアティテュード――創作に対する精神の構え方にも、明らかな変質の兆しが現れていた。
「せっかくそこまで綺麗にメデュウムを盛ったのに、わざわざ傷をつけちゃうの?」
手元を覗き込んできた戸川の、純粋な戸惑いを孕んだ問いかけに対し、七海はペインティングナイフを握ったまま、淡々と応じた。
「はい。だって、ただ綺麗なだけでは、どこか嘘っぽくて、退屈じゃないですか」
キャンバスの上に何層も重ねられた、盛夏の海を想起させる深い藍から淡いエメラルドへのグラデーション。
七海はその均整の取れた美しい色彩の地層へ、容赦なくナイフの鋭利な先端を突き立て、縦一文字に引き裂くような傷を刻み込んでいく。
すると、あらかじめ下地に仕込まれておいた、赤く着色された新聞紙の断片が、裂開した皮膚の隙間から覗く臓物のように、不気味で生々しい赤い線となって地表に這い出してきた。
「アバンギャルドに目覚めたみたいだねえ」
戸川はからかうようにおどけてみせたが、この程度の過激さや前衛的な試みは、美術大学という特異な自意識の収容所においては、むしろ推奨され、容易に許容される部類のものだった。
しかし、七海が事故の余波の中で自身の内省を深めている間に、ソサイエティの内部では、彼女のあずかり知らぬ大がかりな企画が水面下で進行していたようだった。
「銀座での、展覧会、ですか?」
資材置き場の薄暗い空気の中、立てかけられたキャンバスの陰からひょっこりと顔を出すようにして、七海は馬渕東海に問い返した。
「うん。坂大介っていう名前、耳にしたことあるだろ? あの人と共同で開催することになったんだ」
東海は、まるで明日の天気を口にするかのような平淡な調子で言った。
だが、その名を聞いた瞬間、七海の胸には小さな動揺が走った。坂大介――それは美術に深く関わっていなくとも耳にする、新進気鋭のメディア・クリエイターの名だった。
確か、どこかの権威ある芸術大学で客員教授の任にも就いている、時代の寵児のような人物ではなかったか。七海も、彼がYouTubeで各界の知識人を相手に、流暢で知的な対談を繰り広げている番組を画面越しに眺めた記憶があった。
「どうして……そんな雲の上存在みたいな人と、私たちが?」
七海は戸惑いを隠せず、言葉を詰まらせた。
「いや、別に深い意味はないよ。単に、あいつが俺の友人だからさ」
またしても、当然の摂理であるかのように東海は告げた。彼は毛羽立った古いソファのクッションに深く腰を沈め、手元のアート雑誌のページを無造作にめくっている。
確かに、馬渕東海という男自身が、ある種の強烈なインフルエンサーであり、世間的な知名度を持つ有名人である事実を思えば、そのような人脈が存在すること自体は、十分に納得のいく話ではあった。
「そういうわけだから、お前も何か一つ、まとまった作品を出展してくれよな」
さらりと告げられたその要求は、七海の胃の腑をじわじわと圧迫した。
そのような巨大な表現の舞台に、自分の拙い、思いつきの延長線上にあるような作品を並べるなど、想像しただけで胃痛がしそうだった。
何より、大衆の目に晒され、品評される可能性を考えるだけで、一刻も早くその場から逃げ出したいという拒絶感が湧き起こる。
しかし、ソサイエティという緩やかな共同体の一員である以上、そこには拒むことのできない一種の義務のようなものが厳然と横たわっていた。
それに、高名なクリエイターのネームバリューありきで、今回の展覧会はかなりの来場者数を見込んでいるらしく、槇村などは物販用のTシャツやステッカーの制作、デザイン作業に追われ、目に見えて多忙を極めているようだった。
そんな状況の中で、自らの大破したロードバイクの再生のために、先輩の貴重な労力と時間を割かせていることに、七海は強い後ろめたさを抱いていた。
「槇村先輩……。あの、ロードバイクの修理、決して急がなくて大丈夫ですから。もし先輩の負担になるようでしたら、私、その辺で安いママチャリでも買って乗りますので」
七海が申し訳なさそうに提案すると、槇村は作業の手を止めずに、快活な声を響かせた。
「いやいや、何を言ってんすか! 僕にとってはどっちの作業も純粋に楽しいからやってるだけですよ。それに、展覧会が成功すれば物販でそれなりに稼げますからね。へっへっへ……」
彼はいつものように卑屈を装った笑い声を漏らしたが、横顔に刻まれた陰影には、隠しきれない疲労の影が滲んでいるように見えた。
周囲の人間がそれほどの熱量を持って動いている以上、そして多くの人々の視線に晒される場を与えられた以上、七海としても、自然と作品制作に向かう背筋を伸ばさざるを得なかった。
ただの気まぐれや、その場の思いつきで塗り潰したような画面では、到底あの空間には耐えられない。そのような焦燥が、静かに彼女の内で頭をもたげ始める。
混迷した七海は、作業の手を休めた戸川にそっと言葉を投げかけた。
「もっと、こう、抽象の霧に隠れていないような……観る人に一目で伝わる、明確で確固たるテーマを据えて描くべきだと思うんですが……」
すると、戸川は少し意外そうな顔をした後、事もなげに言った。
「それなら、結局のところ、自分が本当に好きなものを描くしかないんじゃないの?」
好きなもの――。
そのあまりにも素朴で本質的な問いかけに、七海は自らの内面を索漠と見つめ、思考を巡らせた。
たとえば、あのロードバイク。
硬質なフレームを軋ませながら、風を切って街を疾走する瞬間の高揚。
あるいは、最近その深い魅力を知った、薄暗い喫茶店の硬いテーブルで啜る、本物のコーヒーの深く複雑な薫香。
そして、先日あの事故現場の和菓子屋で出会った、実直な夫婦から手渡された、素朴で濃厚な芋羊羹の、舌の上でほどけていく官能的な甘み。
ふと、彼女は気づく。
かつては灰色で無色透明に思えた自分の世界に、いつの間にか、色鮮やかな「好きなもの」がその領土を確実に広げていたことに。
では、逆に嫌いなものは何だろうか。
雨の日は、やはり好きになれなかった。フードデリバリーのアルバイトを過酷な労働へと変貌させ、肉体を芯まで冷やすからだ。
人混みも、自らの領域を侵食されるような煩わしさがあるため、避けるべき対象だった。
映画はどうだろうか。
好き、と断言するにはまだ躊躇いがあるが、この資材置き場の片隅で、東海が退屈しのぎに流し放しにしているモノクロームの古い映画の断片に、気づけば何度も視線を吸い寄せられ、魅入っていた自分を思い出す。
好きなもの。嫌いなもの。そして、好きか嫌いかさえ判然としない、曖昧な輪郭を持ったものたち。
それらが複雑に混ざり合い、彼女の精神の内壁に、豊かで混沌としたグラデーションを描き出していく。
コーヒーの薫香、羊羹の甘美、肌を掠める風の温度、雨の湿った匂い、メデュウムのざらついた粒子、油性インクの鼻を突く芳香。
そして、クラゲ……。
七海は、自身の思考の冷たい深海へと、深く、深く沈降していった。それはまるで、波ひとつない漆黒の夜の海を、音もなく浮遊するクラゲの頼りない揺らめきに似ていた。
それらはすべて、一連の「記憶」という名の断片なのだという結論に、彼女は至る。
人間は、微々たる記憶の地層を少しずつ積み重ね、そして同時に、砂時計の砂が零れ落ちるようにそれを忘却し、失いながら、かろうじて現在の生を繋ぎ止めている。
記憶と記憶が互いに重なり合い、噛み合い、連動することによって、自らの思考という巨大な機構が回り始め、感情という名の熱量が駆動する。
この一連のシステムは、一体何に似ているのだろうか。
ふと、七海は思考の底で目を開けた。
資材置き場の薄暗がりの一角に、静かに鎮座するブリジストンのレイダック。白と紫のグラデーションに彩られ、無数の戦傷のような擦り傷を纏ったそのフレームに、槇村がどこからか調達してきた、鈍い輝きを放つシルバーの新しいフロントフォークが接合されている。
それは、ギア――歯車だ。
スプロケットの鋭利な歯が、金属のチェーンによって緊密に連結され、異なる直径の噛み合いが生み出すギヤ比によって、人間の不確実な踏力を、冷徹で確実な駆動力へと変換していく、あの無機質で完璧な機構。
社会も、人間関係も、あるいはこの世界のすべての理を解剖していけば、案外、この単純で、それゆえに無限に複雑な物理学的構造に帰着するのではないか。
そんな、唐突で壮大な哲学の萌芽が、彼女の脳裏を鮮やかにかすめた。
「どう? 何か、新しいインスピレーションでも湧いてきた?」
少しだけ心配そうな響きを孕んだ戸川の声が、彼女の耳膜を揺り動かし、現実に引き戻した。
七海は静かに、思考の冷たい深海から、温かい現実の表層へと浮上した。
瞬きをひとつして、世界の輪郭を確かめるように周囲を見渡すと、彼女はただ、ぽつりと呟いた。
「……なんだか、お腹が空きましたね」
あまりにも即物的なその言葉に、戸川は脱力したように苦笑を漏らし、作業の手を止めた槇村と東海は、互いに顔を見合わせて、可笑しそうに肩をすくめるのだった。




