38.手負いの獣
事故から一週間が経過していた。
七海は再び、まだ馴染まぬ路線の複雑な乗り継ぎに翻弄されながら、あのうらぶれた総合病院の門をくぐった。額に刻まれた傷口から、役目を終えた糸を抜き取るためである。
皮膚の緊張が不意に緩み、肉の奥に喰い込んでいた異物が、かすかな摩擦を伴って引き抜かれていく――その感触は、自らの肉体に他者が分け入ってくるような、なんとも言えぬ不気味さを孕んでいた。しかし、処置そのものは拍子抜けするほどあっけなく、事務的に終了した。
手渡された小さな手鏡に映る己の顔は、どこか遠い他人のもののようだった。「十二針、綺麗に縫ってありますから」という医師の言葉も、記号の羅列として鼓膜を滑り落ちていく。七海はそのやり取りのすべてを、魂の抜けた器のように、ただやり過ごすことしかできなかった。若い看護師が「最近のレーザー治療は進歩していますから、美容外科に行けば跡形もなく消せますよ」と、親切のつもりらしい余計な助言を添えてくれたが、それも乾いた風のように耳を通り抜けた。
病院の重い自動ドアを出ると、ぎらつく陽光の下、敷地内のタクシー乗り場へと足を向けた。
だが、そこにある長椅子は、所在なげに時間を潰す高齢者たちで埋め尽くされ、その脇には車椅子の影もいくつか混じっている。その澱んだ空気の中で順番を待つことが、どうしようもなく億劫に感じられた。七海は小さく息を吐き出し、駅に向かって歩き出すことを選んだ。
街道沿いを、ただ南へ向かって歩く。
天を仰げば、皮肉なほどの快晴だった。雲ひとつない青が広がっているというのに、七海の胸の奥底には、鉛のように重く、底のない虚無感が沈殿している。
見慣れぬ街の景色が、焦点の合わない視界を頼りなく流れていく。
青色の看板を掲げた百円ストア、洗練された野菜が並ぶ八百屋、色褪せた赤色灯を載せた角の交番。
そこにあるのは、自分とは無関係に営まれる、他者たちの確かな生活の手触りだった。
容赦なく降り注ぐ威勢のよい日差しが、じわじわと肌を焼き、項に汗が滲む。七海は歩みを止めぬまま、窮屈な長袖のシャツを脱ぎ、白いTシャツ一枚になった。
世界は、彼女の与り知らぬところで、もう完全に夏へと移行していたのだ。
大学の午前中の講義をまたしても不意にしてしまったという事実が、歩調をわずかに乱す。単位だけは確実に確保しておけと、戸川からあれほど釘を刺されていたのだ。午後からの講義に滑り込むためには、このまま炎天の下をのろのろと歩いていては到底間に合わない。
焦燥に駆られた瞬間、背後から低く滑らかな駆動音が聞こえた。振り返ると、黒光りするタクシーの車体が近づいてくる。フロントガラスの奥で、「空車」の二文字が赤い燐光を放っていた。
七海は、救いを求めるように片手を挙げた。
こちらの意志を汲み取ったタクシーが滑らかに軌道を修正し、ハザードランプの点滅がアスファルトを橙色に染める。
しかし、その安堵は一瞬にして打ち砕かれた。
タクシーのすぐ後ろに迫っていた路線バスが、まるで空間そのものに激怒したかのように、街の空気を引き裂く凶暴なクラクションを鳴り響かせたのだ。
暴力的な音圧に、七海の肩がびくりと竦む。
バスの威嚇に急かされるように、タクシーは停車を断念した。苛立ちをタイヤの摩擦音に変え、再び速度を上げて走り去っていく。片側一車線の狭い道路で、後続を遮ってまで客を拾うリスクを避けたのだろう。
七海の横を、巨大なバスの車体が通り過ぎていく。
窓の向こうから、乗客たちの無数の視線が、高みから彼女を見下ろしていた。
そこに含まれるのは、ルールを乱した者への咎めか、あるいは炎天下に取り残された哀れな迷い子を見るような、冷淡な同情か。
耐え難い惨めさと居心地の悪さが胸を突き上げ、七海は逃げるように俯き、ただひたすら足を動かした。
――美大のキャンパスに辿り着いたときには、校舎のコンクリート壁は夕暮れの昏いオレンジ色に深く染め上げられていた。
心身は疲れ果て、もう、すべてのことがどうでもよくなっていた。
それなのに、なぜだろうか。乾ききった心が、どうしても何か確かなものを求めていた。足は無意識のうちに、あのソサイエティの住人たちがたむろする、薄暗い資材置き場へと向かっていた。
建て付けの悪い、いつもの引き戸を引く。木枠が擦れる不快な音が静寂を破った。
開かれた視界の先、床に横たわっていたのは――。
まるで、冷徹な手によってバラバラに解剖され、内臓を晒したかのような、あのブリジストンのレイダックだった。
「あ、七海さん。お疲れっす!」
そこには、袖を無造作に捲り上げ、両手を真っ黒な機械油で汚した槇村がいた。手にした工具をカチャリと鳴らし、人懐っこい笑みを浮かべている。
「よかったな。それ、直るらしいぞ」
プラスチックの荷箱を裏返して腰掛け、呆れたような、しかしどこか満足げな目でその作業を眺めていた東海が、低い声で言った。
「本当ですか……!?」
七海の口から、掠れた声が漏れる。
「直るっすよ! これ、修理費用を相手の保険屋に全額請求できるんす。ウチの実家が自転車屋やってるんで、適当な見積書をでっち上げて、金を引っ張ってきますから」
そんな詐欺まがいの裏技が、本当に許されるのだろうか。犯罪の片棒を担ぐような、得体の知れない不安が七海の胸をかすめる。だが、
「まあ、現にこうして、槇村の工数という神聖な労働時間が発生しているわけだからな。正当な対価の請求だよ」
東海は、七海の胸中の揺らぎを完璧に見透かしたかのように、淡々と言い添えた。
「……でも、そこまでしていただいて。なんだか、申し訳ないです」
「全然、気にしなくていいっすよ! むしろ、こっちとしてはいい小遣い稼ぎになるんで!」
先輩である槇村は、白い歯を覗かせてニカッと笑った。その屈託のなさが、七海の強張った心を少しだけ緩める。
「ただ、まあ……完全に元通り、とはいかないっすね」
槇村の視線が、再び鉄の骨組みへと戻る。その手つきは、重傷を負った患者の予後を診断する凄腕の外科医のようでもあった。
「フロントフォークが完全に折れてるんで、これは別パーツに交換になります。だから、ここだけ色が変わっちゃう。それに、ブレーキレバーも、あちゃー、このブラケットも完全に割れてるなぁ……」
「また……走れますか?」
七海は、祈るような心地で問いかけた。
「走れるっす! フレーム自体に致命的なシワが寄ってたら廃車だったんすけど、それはない。まだまだ、現役で走れます」
頼もしすぎるその言葉が、七海の胸の奥に、ほんの微かな温もりを灯した。
事故の直後、歪んだ金属の塊と化した愛車を見たときに感じたのは、他ならぬ「死」の気配だった。生物としての寿命を迎えた肉体のような、圧倒的な拒絶。
しかし、今。
ホイールを奪われ、チェーンを外され、フロントフォークすら失くして、ただの虚ろな鉄パイプの集合体となったレイダックは、再び命を吹き込まれようとしている。
事故の凄まじさを物語るように、随所の白い塗装は無惨に剥げ落ち、かつて七海を魅了したあの美しいグラデーションの佇まいは、もうどこにもない。
しかし、と七海は思った。
この傷だらけの姿には、かつての洗練された美しさとは異なる、何か手負いの獣が持つような、獰猛で固有の美が宿っている気がした。
七海は無意識のうちに、額に貼られた保護テープの端に、そっと指先で触れた。
その微小な動きを、馬渕東海は見逃さなかった。
「まだ痛むのか?」
「いえ……それほどは」
「……まあ、そのうちに、きれいさっぱり消えるだろ。簡単に消せる手術もあるらしいしな」
「そうっすよ。今の時代、女の子はみんな整形とか、普通にやってますからね!」
槇村が工具を動かしながら、気楽に言葉を重ねる。
「おい、みんな、というのは明らかに語弊があるだろ」
東海が呆れたように溜息をついた。
そうか。いつか、この傷も消えてしまうのか――。
七海は思考を巡らせる。だが、その結末にしがみつこうとする安堵感は、どこにもなかった。
むしろ、自らの肉体に深く刻まれたこの刻印が綺麗に抹消されてしまうことへの、寂寥に似た拒絶反応だった。
再び、床のレイダックへと視線を落とす。
この鉄の獣には、二度と消えない不格好な傷が、いくつも刻まれている。
不思議な感覚だった。
最初はどこか他人行儀で、借り物のようだったこのロードバイクが、傷を共有した今、真に自らの半身――相棒になったような気がしたのだ。
一度は鉄屑同然の死体になりながらも、槇村の油にまみれた手という具現化された力を借り、保険制度という精緻なシステムをハックする大人の知恵を借り、そして何より、「もう一度、コレと共に風を切りたい」という七海自身の飢餓感に似た欲望があれば、この獣は再び立ち上がり、アスファルトを蹴って走り出すのだ。
そうであるならば、この傷だらけの機体は、どんな高級な新車よりも逞しく、そして今の自分に最高に似合う相棒ではないかと思えた。
胸を突く衝動に急かされ、七海は口を開いた。
「槇村先輩。私も、何か手伝えること、ありますか?」
その言葉が資材置き場の空気に響いた瞬間、槇村と東海の動きがピタリと止まった。二人は狐につままれたような、奇妙にキョトンとした顔を見合わせ、それから同時に、七海の顔を凝視した。




