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クラゲが還る水星の岸辺に  作者: ヤマザキゴウ


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37/40

37.グラデーション

 翌日、必要性すら判然としない幾度かの採血が行われ、次いで極めて記号的で事務的な書類が機械的に読み交わされた後、七海はあっけなく病院という機構から放り出された。「放り出された」という表現がこれほど腑に落ちる瞬間もない。それは情緒というものを徹底的に濾過した、効率のシステムによる流れ作業そのものであった。


 病院の自動ドアを出て初めて、七海は自分が都市の境界線、その酷く不便な郊外に置き去りにされたことを地図アプリの画面によって知った。


 選択肢を奪われた彼女は、通りかかったタクシーを拾い最寄りの駅へと車を走らせてもらう。

 路線図を確認し電車に乗った。

 膝の上に抱えた巨大なフードデリバリー用の四角いバッグが、車内で奇異な存在感を放ち、周囲から白い目を向けられるのではないかと危惧したが、世界は驚くほど平穏だった。


 平日の昼下がり、黄色の車両にはそれなりの密度の人間が揺られていたが、誰一人として七海に視線を留める者はいない。

 誰もが彼女を、風景の切れ端、あるいは透明な不可視の存在として扱い、通り過ぎていく。それは地方都市の持つ粘着質な相互監視とは一線を画す、東京という巨大な磁場が有する「無関心」という名の洗練された慈悲であり、心遣いでもあった。七海はその冷徹な静けさに、深く安堵していた。


 幾つもの路線を無機質に乗り継ぎ、這うようにして自らのアパートへと駆け込む。

 あの凄惨な事故の瞬間から、彼女の肉体は常に他者の管理下に置かれていた。何よりも先に、自らの皮膚を覆う不浄な記憶を洗い流したかった。

 乾いた汗が薄いティーシャツの裏側で凝固し、不快な粘着質となって背中に張り付いている。重い髪の毛は、まるで行き場を失って浜辺に打ち上げられた海藻のように、ベシャリと頭皮にへばりついていた。


 七海は、部屋に入るなり衣服のすべてを乱暴に脱ぎ捨て、一編の肉体へと戻った。


 ふと、鏡に映る額の分厚いガーゼが目に入る。

 そういえば、縫合した傷口をそのままお湯に晒してよいものだろうか。

 退院時に若い看護師から何らかの、微細な注意事項を告げられたような記憶の残滓はあったが、今の七海にとってはどうでもいいことだった。彼女は躊躇なく、ベリッと音を立ててその粘着テープを剥ぎ取った。


 狭隘なユニットバスに籠り、熱いシャワーの栓を限界まで捻る。

 叩きつけるような湯の粒子が皮膚を打った瞬間、硬直していた神経が微かに弛緩し、すべてが原初へとリセットされていくような圧倒的な爽快感が彼女を包み込んだ。

 シャンプーのプラスチック製ポンプを、呪詛を吐くように何度も、何度も手のひらに押し付ける。頭皮をかきむしるようにして、猛烈な勢いで髪を洗い始めた。大量の白い泡が、彼女の思考を覆い尽くしていく。


 それは、自覚なき宗教的な儀式に酷似していた。


 交通事故という不条理な不運、そして――脳裏の底に沈殿している、あの幼き同級生の死という遠い、遠い地層の記憶。それらすべての不吉な陰影を、この現世から洗い流そうとする、切実な厄払いであり、禊ぎのようでもあった。


 人工的な香料の漂うボディソープで、己の四肢を隅々まで削るように洗い、あとはただひたすらに、熱い湯の奔流を浴び続けた。


 しばらくして、世界を満たしていた水音が止まった。


 七海は、湿気で白く曇った備え付けの鏡を手で拭い、その前に立った。


 濡れて額に張り付いた前髪を、指先で静かに押し上げる。

 そこには、赤紫色の皮膚を跨ぐようにして、漆黒の医療用縫合糸が斜めに、規則正しく編み込まれていた。


 恐る恐る、人差し指の腹を這わせてみる。


 皮膚の柔らかさとは明らかに異なる、硬質で、冷徹なナイロンの感触が指先に伝わる。


 不思議と、痛みは消失していた。


 自分のものではない異物が、この固有の肉体に深く食い込んでいるという倒錯。しかし、その痛々しい、グロテスクとも言える黒い線は、何故か七海にとって、過酷な世界を生き抜いた証――新しく付与された、固有のアイデンティティのようにも感じられるのだった。


 何かに急かされるようにしてユニットバスを飛び出すと、水分を含んだ髪を乾かすことすら微睡ましく、新しい下着を引き寄せ、履き古したハーフパンツに脚を通した。薄手のパーカーの袖に腕を滑り込ませ、すぐさまアパートの扉を開ける。


 今日は、平凡な平日であった。

 それはつまり、彼女が今日出席すべき授業を放棄し、確実にある一定の単位を喪失したことを意味している。


 しかし、教科書や画材、あるいは美大生としての矜持が詰め込まれた重いバッグは部屋に置いたままだ。手元には、液晶画面の光るスマホだけ。

 彼女はただ、吸い寄せられるように学び舎の方角へと歩き出した。


 その道程は、普段の数倍の遅延を伴って、七海の身体に重くのしかかった。


 あの、ロードバイクさえあれば……


 思考がその欠落に触れるたび、内臓がせり上がるようなもどかしさが募る。文明の利器を奪われた人間の歩みは、これほどまでに鈍重で、無防備なものなのか。


 足早に、アスファルトを蹴るようにして大学への距離を縮めていく。


 目指す場所は、教授たちの講義が行われる清潔な教室ではない。

 あの、社会の底流で生きるはぐれ者たちが集うソサイエティの溜まり場――半ば見捨てられた資材置き場であった。


 校門を潜る頃には、初夏の訪れを告げる容赦のない威勢の良い日差しと、時折吹き抜ける柔らかな風によって、七海の濡れていた髪はすっかり乾ききっていた。


 キャンパスのあちこちで、未来の芸術を騙り、賑やかなお喋りに興じている同世代の生徒たち。七海はその華やかな群衆に一瞥もくれず、ただ一直線にその薄暗い空間を目指した。


 ガラガラと、建付けが悪く乾いた音を立てる木製の引き戸を開け放つ。


「お? おめでとう。もう体は大丈夫なのか?」


 そこにいたのは、やはりというか、期待通りの静けさを纏った馬渕東海であった。彼は破れたソファに深く腰掛け、古びた文庫本のページを繰っていたが、七海の姿を認めると、何事もなかったかのように平然と片手を上げて見せた。


 そのあまりにも日常的な、危機感の欠如した出迎えに、七海は僅かに眉をひそめ、不満を露わにする。


「事故に遭って、今さっき退院してきたばかりの人に対して、『おめでとう』なんて言葉はないんじゃないですか?」


 しかし、東海は本から視線を上げ、その酷く冷徹で、大人の色を帯びた瞳で七海を見つめ返した。


「過失割合……ジューゼロなんだろ? だったら、お前にはすっごい大金が転がり込んでくるぞ」


「え? ……そうなんですか?」


 先ほどまでの不機嫌は霧散し、途端に世俗的な興味に目を輝かせてしまう己の現金さを、七海はとりあえず思考の棚の奥へと押しやった。


「ああ。慰謝料に始まって、通院手当、それにアルバイトを休んだ分の休業手当。諸々合わせれば、お前の想像を超える額が支払われるはずだ」


「それって、具体的にはどのくらいになるんですか?」


「んー。昔の職場の同僚が同じような事故に遭った時の話だが、一括で五十万円近くが口座に振り込まれたらしいぞ」


「ご、五十万……ですか?!」


 七海は、自身の生活水準からは到底乖離したその金額に、網膜を大きく見開いた。


「ああ。ただし、それには条件がある。毎日毎日、飽きずに通院して、その実績日数ごとに金額が加算されていくシステムだからな」


「毎日ですか……。なんだか、面倒な話ですね」


 やはり、この世にそれほど都合の良い果実など実っているわけがない、と七海が落胆の溜息を漏らそうとすると、東海は微かに口角を上げ、歪な社会の裏面を語り始めた。


「いやいや、そうじゃない。商店街とかにもあるだろ? 妙に薄暗くて小さな整骨院。看板に仰々しく『交通事故対応・各種保険取扱』とか謳っているような場所が」


「あ……。確かに、言われてみれば、見たことがあるような気がします」


 彼女の脳裏に、通学路の片隅に佇む、緑色の看板を出した冴えない治療院の光景が、確かな現実味を帯びて蘇る。


「授業が終わった後、毎日のようにそこに一時間ほど通い、形だけの施術を受ければそれでいいんだよ」


 東海は、まるで世界の裏コードを教えるかのように淡々と告げた。


「でも、その整骨院に行くためのお金は、どうなるんですか?」


「だから、こっちは最初から最後まで一円も財布から出す必要はない。すべて、向こうの加害者側の保険会社にダイレクトに請求が行く仕組みだ」


「なんか……それは、制度の隙間を突いているようで、悪いことをしている気分になりますね」


「気にするな。それはそれで、患者が来れば来るほど整骨院側も合法的に儲かるんだよ。そういう相互扶助という名の、これがこの社会の、完成された歪な仕組みだ」


 東海は断言した。

 七海は、自分がまた一つ、大人の世界の奇妙で、どこか不条理な歯車の一部を学んでしまったような、複雑な感慨に囚われていた。


 しかし、その世俗的な会話の最中、彼女の胸の奥で、最も重く、最も鋭い棘が痛烈な存在感を主張し始めた。本当に確かめなければならない本題が、そこにあった。


「あ、あのぅ。……私の、あのロードバイクは、今どこにあるんですか?」


 内に秘めた焦燥が、声の震えとなって漏れ出す。

 東海は、読んでいた本をゆっくりと閉じ、ソファから立ち上がった。


「……ああ。槇村が昨日、警察から引き取ってきてな。……見るか?」


 彼の先導によって連れ出されたのは、鬱蒼とした雑草の生い茂る、古い校舎の裏手であった。


 赤錆びたトタンの屋根が架かる、打ち捨てられた駐輪場。その湿った影の中に、それは置かれていた。


「……コレ、って……」


 言葉が、喉の奥で硬固な塊となった。

 間違いなく、それは七海の貧しい生活を支え、都市の風を共に切り裂いてきた、彼女の半身とも言えるブリジストンのレイダックだった。


 しかし、かつて美しかった前輪のアルミリムは、まるでプレスマシンに押し潰されたかのように醜くひしゃげ、フロントフォークは片方が無残にへし折れている。


 そこにあるのは、冷徹で、動かしようのない、明らかな「死」の佇まいだった。


 もう二度と、この相棒がアスファルトの上を滑走することはない。

 その冷酷な直感が、七海の胸を鋭く穿った。


 白から鮮やかな紫へと移ろう、かつて彼女が誇らしく思っていたグラデーションの美しいフレームは、古びたコンクリートの壁に力なく立て掛けられ、傾きかけた夕暮れの、爛れたような茜色の光を浴びながら、永遠の緘黙な眠りについていた。

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