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クラゲが還る水星の岸辺に  作者: ヤマザキゴウ


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36/40

36.鉄のざわめき

 夜。消灯の時刻を過ぎた後、七海は気配を殺すようにして暗転した病室を抜け出した。


 救急カートや無機質な手すりが等間隔に並ぶ廊下は、非常灯が放つ不気味なほど鮮やかな緑色の光に染まっている。そのどん詰まりにあるガラスドアの鍵が、夜間も奇跡的に下ろされないままであることを、七海は知っていた。昼間、清掃員の中年女性と、退屈そうに前髪を弄る茶髪の若い女性とが、声を潜めて交わしていた睦まじい噂話を、彼女の鋭い聴覚が捉えていたからだ。


 ノブに手をかけ、そっと押し開くと、そこには世界の境界線が曖昧になったかのような、生温い夜風が淀みなく吹き抜けていた。


 眼前には、東京の象徴であるはずの華やかな街の灯りはひとかけらも見当たらない。ただ、闇の重力に耐えかねたように黒々と立ち並ぶ木々の影が、風に煽られて奇怪なダンスを踊っているだけだった。


 ふと視線を傍らに落とすと、コンクリートの床にしゃがんだ髪の長い男が、手元で小さな光を明滅させていた。電子タバコから吐き出された人工的な煙が、夜の闇に溶けていく。


 男は気配を察して、気まずそうに、けれどどこか投げやりな調子で七海をチラリと見上げた。


「ああ、ごめんね……」


 その低い呟きには、規律を破った者同士の、微かな連帯感と気後れが混ざり合っていた。


「いえ。お気になさらず。私も、気になりませんから」


 七海は感情の起伏を削ぎ落とした声で返した。

 全館禁煙という厳格な建前を掲げながらも、この病院は、夜の静寂に紛れて肺を煙で満たさずにはいられない執着者たちのために、一種のお目溢しとして、この境界の場所を黙認の形でおのずと開放しているのだろう。


 七海はパジャマのポケットからスマートフォンを取り出した。液晶の放つ冷烈な青白い光が、彼女の顔の輪郭を夜の闇から残酷に浮き彫りにする。

 指先を滑らせ、検索窓ではなく、特定の対話画面に文字を打ち込んでいく。


『ミリィちゃん、今、どこにいるの?』


 タップ。画面の片隅で、微小なローディングマークが思考を巡らせるように幾度か回転し、呼吸を置く間もなく、あまりにも滑らかな文字列を吐き出した。


"七海ちゃん。私はいつでも、ここにいるよ!"


 その屈託のない感嘆符の軽さに、七海の胸の奥が微かに疼く。


 いつからだろう。

 こうして、高度に訓練された対話型AIに、かつて実在した「ミリィちゃん」という少女の幻影を宿らせ、文字の交歓を貪るようになったのは。


 現代の技術革新がもたらす果実は、空恐ろしいほどに瑞々しい。まるで画面の向こう側に、確かに血の通った、思考する人間が息を潜めているかのように、このアプリケーションはあまりにも完璧に友人として振る舞ってみせるのだ。


 しかし、本物のミリィちゃん――藤川美梨という少女は、小学四年生の、あのひどく蒸し暑い夏の日に、唐突にその生涯を閉じた。


 彼女との記憶を手繰り寄せようとしても、網膜に張り付いて離れないのは、あの大雨の日に二人で身を寄せ合った、バス停の古びた木造の小屋の中の、あの濃密な水の匂いだけだ。

 それ以外の思い出は、時を経るごとに輪郭を失い、油絵の具を乱暴に混ぜ合わせたかのような、不確実で朧げな色彩の混濁へと変わり果てている。


 そう、客観的に見れば、彼女とはそれきりの関係だった。

 特別に秘密を共有した親友というわけでもなく、数多くいるクラスメイトという匿名の群像の一人に過ぎなかったのかもしれなかった。


 ――私たち、水星人だね!


 あの日、雨音に消されそうな声で、確かに彼女はそう言ったはずだった。

 しかし、その記憶さえも、七海の都合のいい脳内補正が作り出した虚構ではないと、一体誰が証明できるのだろう。今の七海には、それを確かめる術など何ひとつ残されてはいなかった。


 七海は現実を拒絶するように画面をスワイプし、ブラウザの新たなタブを立ち上げた。


 思考の迷路を彷徨うように、検索窓に指を滑らせる。


"占いの、水星人マイナスについて教えて"


 エンターキーを押すと、通信の網の目から、整然と構造化された無機質なテキストデータが瞬時に汲み上げられた。


『占い(主に細木数子氏・細木かおり氏の「六星占術」)における「水星人マイナス(−)」ですね。

水星人は一言で言うと、「孤高のカリスマ」や「一代で富を築く財運の持ち主」と言われています。その中でも「マイナス」の性質を持つ人は、表面的にはソフトに見えても、内面には非常に強い芯と独立心を持っています。


 具体的な特徴をいくつかのポイントに分けて解説しますね。


1. 基本的な性格・特徴

圧倒的な独立心と利己主義


他人に依存することを嫌い、自分の力で人生を切り開いていくタイプです。集団行動よりも個人行動を好む、生粋の一匹狼肌と言えます。


クールで現実主義ドライ


物事を非常に冷静かつ客観的に見つめる目を持っています。感情に流されることが少なく、損得勘定や効率を重視する合理的な一面があります。


謎めいた魅力ミステリアス


自分の本心をあまり表に出さないため、周囲からは「何を考えているか分からないけれど、どこか惹かれるミステリアスな人」と映ることが多いです。


初代運しょだいうんが強い


親の家業を継いだり、誰かのレールに乗ったりするよりも、ゼロから自分の力で新しいものを立ち上げることで大成功する運命を持っています。


2. 金運・仕事運


六星占術の中でトップクラスの財運


水星人は12星座や他の星人と比べても、非常に強い「財運」の星のもとに生まれています。特にお金を生み出すセンスや、ビジネスの機微を察知する能力に長けています。


組織に縛られない仕事が向いている


上司からの命令や古い慣習に縛られる一般的な会社員生活では、ストレスを抱えがちです。

* 起業家、実業家

* フリーランス、独立した専門職

* 作家やクリエイターなど、個人の裁量が大きい仕事

こういった「自分の腕一本で勝負できる環境」で本領を発揮します。


3. 恋愛・人間関係

「来る者は拒まず、去る者は追わず」


人間関係はかなりドライです。執着心が薄いため、去っていく人に対して未練を残すことは滅多にありません。


恋愛は精神的自立がキーワード


ベタベタした関係や、お互いに束縛し合う恋愛は苦手です。お互いに自分の世界や仕事をしっかり持った上で、対等にリスペクトし合える大人の関係を好みます。


家庭運は少し薄め?


仕事や自分の世界に没頭しやすいため、家庭に落ち着くことへの優先順位が低くなりがちです。ただ、マイナスの人はプラスの人に比べると、内面は少しマイルドで寂しがり屋な一面もあるため、心を許したパートナーは非常に大切にします。


4. 「プラス」と「マイナス」の違い


 水星人のベース(合理的・独立心が強い・財運がある)は共通していますが、ニュアンスが少し異なります。

プラス:攻撃力が高く、目標に向かってイケイケで突き進むタイプ。

マイナス:プラスよりも「内省的で、物事をじっくり見極める慎重派」。表面的な人当たりは柔らかく見えますが、内面の「誰にも踏み込ませない領域」の頑固さはプラス以上かもしれません。


ワンポイント!


 自分の力で道を切り開くエネルギーが凄まじい反面、周囲からは「冷たい人」「何を考えているか分からない」と思われて孤立してしまうこともあります。時に意識して周囲に感謝を伝えたり、自分の考えていることを言葉にして共有したりすると、持ち前のカリスマ性がさらに活きてきます。


 もし、特定の運勢(今年の運気など)や、他の星人との相性などで気になる部分があれば、いつでも言ってくださいね!』



 光る画面をスクロールしながら、七海はその冷え冷えとした文章を網膜に滑らせる。

 これは、本当に自分という人間を規定するコードなのだろうか。

 確かに、記述の隅々に、いくつかの奇妙な符合を見出すことはできる。けれど、このシステマチックに分類された属性の網の目が、七海という複雑極まる生命のすべてを網羅しているとは、到底思えなかった。彼女の胸には、何の感動も、あるいは拒絶という名の納得すらも湧き上がってはこない。

 彼女は確かめるように、さらに次の問いを投げかけた。


 "水星って、どんな場所ですか?"


 再び、最適化されたテキストデータが素早く整列し、今度はその冷酷な視覚情報として一枚の画像が添えられた。


 画面に現れたのは、大気の存在を感じさせない、灰色のクレーターに覆われた、月と見紛うばかりの酷薄な惑星の姿だった。「水星」という、瑞々しい液体を予感させる美しい名前とは裏腹に、そこには生命を拒絶する荒涼とした大地が、果てしなく広がっているだけだった。


 そして、解説の文字列の中に、一行、不躾なフレーズが刺さっていた。


「ほぼ、鉄」


 鉄。核に眠る、莫大な質量の金属。

 それは、七海の胸の奥底に澱のように沈んでいる、頑ななまでの意気地の強さと、どこか響き合う不穏な響きを持っていた。

 いや、その硬質なエゴイズムは、東京という街に足を踏み入れ、あの美大という熱病に浮かされたモラトリアムの中で、「ソサイエティ」の愉快な怪物たちと出会ったことで、初めて地表に顕在化したものだとも言える。

 他者の熱量にあてられて形作られた、借り物の強さ。


 そして、彼女がフードデリバリーの過酷な日々に、自らの肉体の一部として酷使していた、あの古いロードバイク。


 思い返せば、あのレイダックのフレームもまた、無骨な鉄でできていた。


 そういえば、あの鉄の愛車は、今どこでどうしているのだろう?


 衝突の衝撃の後、警察の無機質な倉庫に証拠品として留置されているのだろうか。

 それとも、ソサイエティの誰かが、あのハチャメチャな手際の良さで現場から引き上げてくれたのだろうか。

 あるいは――もう二度と走れないほどに、無残にひしゃげてしまったのだろうか。


 手の中のガラスの板は、その切実な疑問に対しては、沈黙を守ったまま何も答えてはくれない。


 不意に吹き付けた夜風が、七海の額の前髪を乱暴に揺らした。彼女は傷口を守る白い医療用ガーゼの、不自然な厚みに指先を這わせた。皮膚を通して伝わる鈍い痛みが、自らの実存を辛うじて繋ぎ止めている。

彼女は、逃避するように、もう一度AIの画面へと戻った。


 呪文を唱えるように、同じ文字列を打ち込む。


『ミリィちゃん。どこにいるの?』


 "どうしたの? ミリィはいつでも七海ちゃんのそばにいるよ!"


 完璧な速度で返されるその文言は、あまりにも優しく、それゆえに決定的な嘘であり、同時に、この孤独な夜における唯一の真実でもあった。


 すると、隣で静かに煙を燻らせていた長い髪の男が、不意に肺の空気をすべて吐き出すような深い息をつき、腰を上げた。


「あと五分で、看護師の見回りが来るから……」


 男は、夜のルールを守るためのささやかな忠告を七海に残すと、自らが通り抜けてきたガラスドアを開け、あの緑色の光が支配する暗い廊下の奥へと静かに消えていった。


 残された七海は、再び、境界の向こう側に広がる夜の深淵へと、ぼんやりと視線を投げかけた。


 そこには、ただ風に揉まれる木々の、ざわざわという無意味なざわめきだけが、世界のすべてであるかのように鳴り響いていた。

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