35.黒い流体
看護師の事務的な許可を得て、二人は病棟の喧騒を離れ、一階の片隅にあるカフェエリアへと移動した。
無機質なポリカーボネートの丸テーブルを挟み、七海は母と向かい合う。折りたたみ椅子に深く身を沈めた母の輪郭には、長旅の疲労だけではない、どこか娘という存在そのものに、もてあました諦念のようなものが影を落としていた。
「なんで、そんな危ない仕事……。なんで、事前に一言も相談してくれなかったのよ……」
母は、結露で無数の水滴を滴らせるアイス・ソイラテのプラスチックカップを、祈るように両手で包み込んだ。その指先は、冷気に小さく震えているようにも見えた。
「……バイト。なかなか、見つからなくて」
七海の声は、プラスチックの卓面に吸い込まれるようにして消えた。
「ハァ……。もう、だからって。働く場所なんて、何だってよかったじゃない。コンビニの店員でもいいし……ほら、七海は昔、お花屋さんになりたいって言っていたでしょう? 丁寧に探せば、そういう真っ当なバイトだって、いくらでも見つかるでしょうに……」
返すべき言葉を持ち合わせず、七海は手元のホットのブラックコーヒーを啜った。熱いだけで、ただ苦い、色彩を剥ぎ取られた黒い液体が喉を灼く。
母には、七海が今生きているこの「東京」という巨大な街が、いかに苛烈な経済原理によって駆動しているか、その実情がまるで外側からは見えていないのだ。世間では猫も杓子も人手不足と喧伝されているが、学生のアルバイト市場ですら、まともな職種は飢えた群狼のごとき若者たちによって瞬時に奪い尽くされる。ましてや、生活圏内――つまりは美大のキャンパスと自宅アパートを往復する徒歩圏内という狭隘なグリッドの中では、その争奪戦は凄惨を極める。
夕方のゴールデンタイムという、誰もが働きたい時間帯のシフトはすでに埋まり、残されているのは深夜か早朝の、肉体を切り売りするような不規則な枠だけ。時給などの条件が辛うじて折り合う求人は、決まって電車を幾度も乗り継いだ、見知らぬ土地の遥か先にある。
それに、母の言う「お花屋さん」の求人など、少なくとも七海の視界の隅にすら引っかからなかったし、美大生の日常の地平には存在しなかった。
さらに言えば、記憶の底の泥に埋もれた、幼少期の他愛のない夢を今さら引き合いに出されても、途方に暮れるほかない。
それらの過酷な現実を、どのような精緻な語彙を尽くして説明したところで、地方都市の穏やかな時間の中に生きる母の感性に届くことはないだろう。
七海は言葉を交わすことを、なかば本能的に諦めていた。諦めの数だけ、彼女はまた、その苦い黒い液体を口に含んだ。
「コーヒーなんて、飲めるようになったのね」
不意に、母の思考の針が、まるで脈絡のない方向へと跳躍した。
昔からそうだ。
対話の核心から、いつも滑り落ちるようにして別の枝葉へと逃げていく。
「そんな、顔に傷なんて作って……もう。どうするのよ? 将来の旦那さんに、申し訳ないと思わないの」
言葉の刃は、七海の予想もしない角度から突き刺さる。
七海は、左目の上に厚く貼られた、痛々しい医療用ガーゼの感触を確かめるように、そっと指先を這わせた。
なぜ、まだ見ぬ未来の配偶者に対して、自分が負い目を抱かなければならないのか? その思考回路が、七海にはどうしても理解できなかった。
確かに母は、どこまでも平坦で、ごく真っ当な「生き方」を歩んできた人だった。地方都市の寂れた片隅に生まれ、地元の高校を卒業すると同時に、地域の大手菓子メーカーの製造工場に就職した。二十代後半、友人の紹介という判で押したような縁で父と出会い、結婚。七海が手を離れてからは、今度は近所のスーパーの惣菜コーナーで、パートタイムの労働に従事している。
そんな調和に満ちた世界に生きる母にとって、七海が今身を置いている、混沌と狂気が極彩色に混ざり合う東京の風景も、美大という理解を超えた熱量を持つモラトリアムの檻も、そして現代社会が突きつける生存難易度の高さも、遠い異国の寓話に過ぎず、その肌を掠めることすら、きっとないのだ。
七海はそう、自らに言い聞かせるようにして納得するしかなかった。
けれど。
もし許されるのなら。
この半年間、自分がこの街で経験した、バカバカしくて、痛快で、ハチャメチャに輝いていた日々の断片を、本当は母に聞いてほしかったのだ。
学食の安いカレーが、美味しいのか不味いのか判然としないまま、なぜか妙に癖になる味わいを持っていること。
一人暮らしを始めて直面した、スーパーに並ぶ洗剤やシャンプーの値段の高さに目眩を覚えたこと。
アパートの狭い部屋を維持する掃除や、日々繰り返される自炊の煩わしさに直面し、実家で当たり前のように差し出されていた食事の背景にある、母への密やかな尊敬の念が胸に湧いたこと。
何より、美大で出会った、「ソサイエティ」を自称するあの愉快で奇妙な、"仲間たち"のこと。
開催されたバーベキューで、焦げ付いた網の上で焼いた、驚くほど分厚いステーキの、あの野性味溢れる肉の味。
夜の校舎の片隅に秘密基地を作り、幽霊のように暮らしている、世間で有名な変わり者のインフルエンサーと邂逅した、あの日のこと。
しかし、そのどれもが、いざ言葉という不完全な器に盛ろうとすると、あまりにも瑞々しく眩しすぎて、口から漏れた瞬間に、極めて陳腐で、子供じみた、取るに足らない物語の破片へと霧散してしまうような気がして、七海はやはり、沈黙を選ぶしかなかった。
ただ一つだけ、堰を切ったように彼女の脳裏に浮かび上がってきた、ひどく素朴な実感が口をついて出た。
「お母さん。あのね……。ロードバイクって、私たちが乗っていた普通の自転車とは、全然違うんだよ。すっごい、速いの……。風を追い越していくみたいに」
それは、大人の会話の体をなしていない、ただの子供の無邪気な感想だった。
それが、この緊迫した親子の対話において、建設的な意味を成さないことなど百も承知だった。
けれど、何故だろう? その不完全な言葉にこそ、不純物の混じっていない、七海の本当の魂が宿っているような気がしたのだ。
「ダメよ!」
母の口から、金属を打ち付けるような、甲高い叫びが弾けた。
七海は落雷に打たれたように、びくりと身体を硬直させた。
母は、深く、重い溜息をひとつ吐き出すと、自分が仕出かした声の大きさを取り繕うように、きょろきょろと周囲の様子を窺った。
周囲のテーブルにいた数人の客が、怪訝そうな視線をこちらに向けていたが、やがて関心を失ったように、それぞれの退屈な会話へと戻っていった。
「もう……本当に、これ以上お母さんを困らせないでちょうだい……」
「でもね、私は……」
「仕送り、もう少し増やせないか、今夜にでもお父さんと相談してみるから。だから、もう、こんな危ないことはしないで。心配させないでちょうだい、お願いだから」
「あのね、お金なら、本当に大丈夫だから……。自分でなんとかできるし、本当に」
「とにかく! 自転車なんて……ましてやこんな、人間も車も多い街で。七海には絶対に無理よ」
「そんなことない。この前だって、一日中ペダルを漕いで、信じられないくらい稼げたし……」
「それで? その結果が、そのザマじゃないの」
母の容赦のない人差し指が、七海の額に貼られた白いガーゼを正確に指し示した。
その瞬間、七海の胸の奥深くに、ひやりとした冷たい鉛のような塊が広がっていった。
確かに、フードデリバリーという労働が、命の危険と隣り合わせの脆いものであることは、他ならぬ七海自身のこの肉体が証明してしまっている。
結果として彼女の方に過失はなかったとはいえ、車と接触し、額に消えない裂傷を刻み込まれたのは動かしようのない事実だった。
「とにかく、あなたも覚えているでしょう? あの……名前、なんて言ったかしら。……そう、そうよ。藤川美梨ちゃんのこと……」
「…………え?」
七海の思考は、唐突に投げ込まれたその名前によって、急速に凍りついた。
風の擦れる音、人々の囁き声が、まるで遠い水底の出来事のように遠のいていく。
全身の毛穴が収縮し、芯から凍えるような悪寒が、背筋を駆け抜けた。
「ミリィ……ちゃん」
「そうよ、小学校四年生の時。ほら、塾の帰り道で、大きなトラックにひかれて……。自転車で、見通しの悪い路地から勢いよく飛び出しちゃったのよね……」
母の言葉を聞きながら、
七海の意識は、
現実のカフェの空間を離れ、
どこか遠い記憶の迷宮へと、
果てしなく拡張されていく錯覚に囚われていた。
藤川美梨。――ミリィちゃん。
彼女が亡くなった時、七海たちは学校行事の一環として、一様に黒い服を着せられ、葬儀に参列した。
あの時の記憶の中で、七海はただの一滴の涙も流さなかった。
ベルトコンベアに乗せられて淡々と運ばれていく無機質な工業製品のように、ただその厳粛な儀式の一部として、そこに佇んでいた。
そもそも、七海は藤川美梨という少女と、それほど親しかったのだろうか? 今となっては、彼女の輪郭さえも霧の彼方に霞んでいる。
しかし、祭壇の前で、美梨の両親は形を保てないほどに崩れ落ち、痛々しいほどに号泣していた。
担任の先生も、ハンカチを顔に押し当てて肩を震わせていた。
彼女といつも連れ立っていた、仲良しグループの女の子たちは、声を上げて泣きじゃくっていた。
七海は、その光景を、ただ張り付いたような無表情で見つめることしかできなかった。
無数の白い花に囲まれ、飾られた、どこかピントの甘い笑顔の遺影。
一様に黒い衣装を纏い、神妙な顔で行列を作る大人たちの影。
堂内に朗々と響き渡る、哀切を帯びたお経の残響。
正式に最期まで開かれることのなかった、あの白い棺。
そのすべてが、七海には酷く空虚に思えた。
自分と彼女を結んでいた微かな糸が、ぷつりと断ち切られてしまったというのに、そこには何の劇的な意味も、確かな手触りも感じられなかったからだ。
あの立派な、冷たい棺の闇の中に、美梨の小さな身体が横たわっているのだと、大人は言う。
けれど――だって、ミリィちゃんは、いなくなった。なら、もう、どうしようもないではないか……。
その不在だけが、ただ絶対的な事実としてそこにあるだけだった。
「……ちょっと、七海、聞いてるの?」
鼓膜を叩く母の鋭い声が、七海を無理やり現実の地平へと引き戻した。
人々の絶え間ないざわめき。
天井のスピーカーから流れる、抑揚のない院内アナウンス。
薄く低音で鳴り響く、誰のためのものかもわからないBGM。
「……うん」
掠れた声で小さく呟き、七海は再びコーヒーカップへと手を伸ばした。
完全に冷め切ってしまったそれは、
もはや芳醇な香りも、
温もりも失い、
ただの、
味のしない冷酷な黒い液体へと成り果てていた。




