34.傷
七海の正午の食卓は、あまりにも無機質で、それでいて暴力的なまでに現実的な彩りに満ちていた。
急患として運び込まれた彼女に、病院という巨大な機構が用意する「管理された食事」の余地はなく、槇村が売店で調達してきたカップラーメンと苺ジャムのパン、そして湯気を立てるブラックコーヒーが、その渇いた空腹を埋めるための代償となった。
プラスチックの容器から立ち上がる安価な油の匂いと、合成甘味料の効いたジャムの執拗なまでの甘み。それらを熱いコーヒーの苦味で流し込む時、七海はようやく、自分が死の淵からこの「低俗で愛おしい現世」へと繋ぎ止められたことを確信した。
食後の余韻を打ち消すように、二人の警察官が病室を訪れた。
事情聴取。ドラマや映画で消費されるその光景の当事者になったというのに、七海を支配していたのは、不思議なほどの静謐であった。
まるで他人事のような冷静さで、彼女は淀みなく言葉を紡いでいく。
若い女性警察官が、どこか労わるような声音で告げた言葉が、事件の輪郭を鮮明にする。
「事故の直後、後続車の方が救護に当たってくださったの。その方がドライブレコーダーの映像も提供してくれてね」
その真実によれば、七海に過失の入る余地は微塵もなかった。
銀色のトラックは、まるでその場の思いつきを衝動的に実行するかのように、合図灯も出さず、不条理な軌道で歩道側へとハンドルを切った。
七海の肉体は、トラックの鋼鉄の側面にブチ当たり、縁石を跳躍台として宙を舞った。
そして、沿道の個人商店のガラスを粉砕し、その内部へと突き刺さったのだという。
しかし、彼女の意識の地層に、その凄惨な飛翔の記憶は刻まれていなかった。ただ、色彩の欠けた夢と、海月の揺蕩いがあるばかりだ。
また、背負っていた七海の身体には不釣り合いな大きさのデリバリーバッグが、クッションとなり落下の衝撃を和らげたのではないか、という推察を聞かされ、七海ははじめて道具に対して感謝の念を覚えた。
加害者であるドライバーは、その場で論理を失った弁明を絶叫し、狼狽の極みにあったという。
「今日中に運送会社の責任者が伺うかもしれません。あるいは、弁護士から連絡が……」
警察官が残した事務的な言葉は、七海にとって、ただただ辟易とするような「大人の事情」という名のノイズでしかなかった。
警察官が去った後、七海は再び精密検査の迷宮へと送られた。左手に走る微かな痺れを訴えたためだ。
再びあの巨大な円筒形の機械に呑み込まれたが、導き出された結論は、拍子抜けするほどシンプルな「異常なし」であった。
何のための待機時間だったのか。カルテに躍る、医師の達筆すぎて解読不能な文字群を眺めながら、七海はこの複雑すぎる医療システムの深淵について考えることを放棄した。
病室に戻り、額の縫合部を覆うガーゼが取り替えられている最中、戸川が再び姿を見せた。
「うわぁ、派手にいっちゃったね……。なんだか、マンガに出てくる海賊みたいだよ」
戸川が、七海の額の痛々しい傷痕を見つめ、声を落とす。作業中の看護師も「そうよね、女の子なのに、かわいそうに」と、同情の言葉を投げかけた。
だが、当の七海は、手鏡の中の自分をじっと凝視し、どこか晴れやかな、誇らしげな微笑を浮かべた。
「……これ、ちょっと、カッコいいと思いません?」
悲劇のヒロインであることを拒絶するような、その無邪気なまでの肯定。
その場にいた戸川と看護師は、虚を突かれたように顔を見合わせ、やがて噴き出すように笑った。
「七海ちゃん。着替えとタオル、ここに置いておくね。いつまで入院することになるか、まだ分からないし」
戸川がベッドの脇に置いた紙袋を見つめ、七海はふと、現実的な懸念を口にした。
「ありがとうございます。……あの、私、ずっと入院しなきゃいけないんですか? あと、お金とか……」
看護師が、優しく、だが断固とした口調で答える。
「念のため、あと一日は経過観察ね。脳の異変は、忘れた頃にやってくることがあるから。……お金の心配は、しなくていいのよ」
「え?」
戸川が七海の傷を覗き込むようにして、東海から聞いたという「大人の世界のルール」を伝授した。
「それはね、相手の保険から全額支払われるから。七海ちゃんは一円も出す必要はないの。……って、東海さんが断言してた」
「東海さんがそう言うなら、間違いないですね」
「何、その絶対的な信頼感……。まあ、あの人は社会人経験が無駄に長いから、そういう実務的なことには、やけに詳しいんだよね」
七海は、自分の知らない世界の仕組みを一つ拾い上げたような心地になり、少しだけ賢くなった気がした。
十五時。
看護師から夕食の予定を告げられた直後、病室に二人の男が現れた。
加害者のドライバーと、その雇い主である運送会社の社長と名乗る人物だ。
社長は、百貨店の上質な包み紙に包まれた菓子折りを恭しく掲げ、流麗で難解な謝罪の弁を、機械的なほど完璧に紡ぎ出していく。一方、加害者の男は、あろうことか病室の床に膝をつき、土下座という大袈裟な儀式を披露した。
「本当に、申し訳ございませんでした……!」
床に額を擦り付けるその姿を、七海は狐につままれたような面持ちで眺めていた。
ナースステーションからは、この異様な光景が丸見えのはずだが、看護師たちは日常茶飯事であるかのように、目もくれず業務に没頭している。
大人の世界では、これが「普通」の謝罪なのだろうか……?
と、そんな不安が脳裏を掠めたが、目の前に置かれた高級そうな菓子折りの威圧感に、七海の胸中には、ある種の寛大な慈悲の心が芽生えてしまった。
彼らが去った後、七海はベッドの上でスマホを手に取り、ショート動画の脈絡のない奔流に身を任せて時間を潰していた。
しかし、その静謐を破ったのは、今この瞬間、もっとも聞きたくなかった、しかしもっとも聞き慣れた甲高い声であった。
「七海! もう……どうなってるのよ! どれだけ心配したと思ってるの、ああ、もう……!」
めいっぱい「よそ行き」の虚飾を纏った母が、憤怒と焦燥、そしてどこか芝居がかった過剰な情愛を撒き散らしながら、病室へと雪崩れ込んできた。
病院の、あの無機質な白に塗り潰された静寂は、その一声で完膚なきまでに破壊された。




