33.生還の儀式
次に七海が意識の淵から引き揚げられたのは、寄せては返す人々のざわめきと、網膜を執拗に穿つ暴力的なまでの白光によってであった。
「……あ! 聞こえますか? 自分の名前、言えますか?!」
鼓膜を震わせる切迫した女性の声。
肩を叩かれる振動が、痺れた神経を伝って鈍く脳へ届く。
視界を占めるのは、無機質で平坦な白に塗り潰された天井だ。
そこに、意味を持たない光の粒子が乱舞している。
「頭部裂傷あり。活動性出血、依然として継続中!
ガーゼ、もっと持ってきて!」
「JCS、の三……」
飛び交う記号的な医療用語が、冷徹な弾丸となって空間を飛び交う。
七海は混濁した意識の中で、緩やかに状況を咀嚼していった。
ああ、ここは――病院なのだ、と。
白衣を纏った男が、表情を読み取らせない仮面のような顔で近づき、ペンライトの鋭い光を躊躇なく彼女の瞳孔へと投げ入れる。
逃れようと顔を背けたくなったが、身体は重い鉛を流し込まれたかのようにベッドに張り付いて離れない。
指先ひとつ動かすことすら、途方もない重労働に感じられた。
うるさいなあ、静かにしてほしい……。
そんな極めて卑近な不満すら、麻痺した唇は形にすることを拒んだ。
汗によって肌に張り付いたティーシャツの、不快な湿り気と粘り。
その生理的な嫌悪感に耐えかね、七海は逃避するように再び重い瞼を閉じた。
次に目覚めた時、
世界は濃紺の静寂に包まれていた。
薄暗い、広々とした空間。
自分の腕からは、透明な液体を運ぶ細い管が、異物として体内へ侵入している。
指先を締め付ける小さな機械の感触。
口元を覆う酸素マスクの、プラスチック特有の乾いた匂い。
いつの間にか着替えさせられた患者衣の胸元からも、心臓の鼓動を電気信号へと変換する導線が、幾本も這い出していた。
上半身には、まだあの事故の瞬間の、乾ききらない汗のベタつきが微かに残っている。
枕元で、規則正しいリズムを刻む電子音と、微かな光の明滅。
それが自らの生命の鼓動を監視する「メトロノーム」であることを、七海の朧げな知識は理解していた。
――生きてる……。
どこか現実味を欠いたその実感が、まるで銀幕の向こう側の出来事のように思えた。
映画やドラマで幾度となく消費されてきた、ありふれた光景。
まさか自分の人生という舞台に、これほどまで直截的な惨劇が演じられるとは夢にも思わなかった。
あるいは、これもまた、
あの、クラゲたちが揺蕩う夢の延長線上にあるのではないか――。
そんな現実逃避めいた思考が脳裏を掠めるが、機械が告げる非情なほど正確なリズムが、彼女の耳朶に確かな現世の重みを打ち付けていた。
首を僅かに巡らせると、ガラス越しに光るナースステーションの中に、二人の看護師の影が見えた。
その一人がこちらを向き、七海の視線に気づくと、弾かれたように駆け寄ってくる。
今の自分には、彼女が投げかけるであろう労いや質問に応じるだけの、精神的な余力が残っていない。
会話という行為そのものが、今の七海には億劫で、耐え難いものに感じられた。
彼女は再び目を閉じ、
闇へと沈み込んだ。
間もなく、泥のような睡魔が訪れ、彼女の意識を深い場所へと連れ去っていった。
――翌朝。
思いがけず、透明感のある晴れやかな目覚めが訪れた。
しかし、そこから始まったのは、個としての存在を解体され、ただの「検体」として扱われるような、目まぐるしいまでの検査の連鎖であった。
大型の精密機械の中へと放り込まれ、無機質な磁気音に晒される。
病院内を移動する際も、ストレッチャーに横たわったまま、何も知らない来院者たちの好奇と憐憫が混ざり合った視線を浴びる。
その、公衆の面前で晒し者になるかのような屈辱的な儀式に、七海は心底うんざりしていた。
傍らの看護師が、宥めるように、あるいは事務的に話しかけてくるが、それらの言葉は意味を成さぬノイズとして脳の表面を滑り落ちていく。
真の意味で、彼女の意識が明晰さと現実感を取り戻したのは、夕刻が近づいた頃だった。
諸々の検査結果に、致命的な異常は見られなかった。
額の端、裂傷を縫合した箇所には、分厚いガーゼが貼られ、鈍い脈動を伝えてくる。
そして、何よりも強く、七海を「生」のリアリティへと引き戻したのは、腹の底から湧き上がってくる、あまりにも野蛮で、あまりにも切実な空腹の衝動であった。
一般病棟の個室に移され、最初に訪れた面会人は、予感していた通り、
あの、ソサイエティの面々であった。
「本当に心配したんだからね!」
戸川が、折れそうなほど細い七海の手を、体温を分かつように強く握りしめる。
「百合の花を必死に探したんすけどね……どこにも売ってないんすよ、これが」
と、槇村が場違いなおどけ顔で零した。
「そんな不吉なボケ、この状況で本気でやる奴があるか!」
すかさず、東海が鋭い口調で、しかしどこか安堵を含んだ声で叱責する。
その、いつものように噛み合わない、それでいて温かい不協和音。
七海は、自分がいたはずの、あの騒々しくも愛おしい日常の端を、再び掴み取れたような気がした。
胸の奥から込み上げるのは、理屈を超えた、どうしようもないほどの歓喜であった。
だからこそ、彼女は偽らざる本心を、子供のような無邪気さで告白する。
「皆さん……すみませんでした。あの、私……早くシャワーを浴びて、温かいご飯が食べたいです」
それは、あまりにも直截的で、わがままな願いであったかもしれない。
しかし、ひとしきり談笑に花を咲かせていると、彼らの放つ生気があまりにも鮮烈すぎたのだろう。看護師が扉を開け、賑やかすぎる一団に対して、穏やかだが断固とした注意を与えた。
その注意さえも、七海には日常への輝かしい祝福のように感じられた。




