32.消失
フードデリバリーという労働は、群衆が抱える生理的かつ慣習的な新陳代謝のサイクルに、その身を深く挺している。都市の胃袋が収縮と拡張を繰り返すその合間、昼と夜の境界線において、奔流のようなオーダーは不意に途絶え、凪の時間が訪れる。
七海は、跨線橋の無機質なコンクリートの脇から、線路沿いに伸びる静謐な遊歩道へと滑り込んだ。愛車ブリジストン・レイダックを、長年使い古された茶色のベンチに立て掛ける。その所作には、身体の一部を切り離すような、あるいは預けるような、奇妙な儀礼性が漂っていた。
視界の端を、ランニングに精を出す中年男性や、生活の重みを荷台に乗せた主婦たちが通り過ぎていく。彼らは一様に、路傍の石でも眺めるかのように、七海という存在を網膜の隅に追いやっては消えていった。
七海は、残り少なくなったペットボトルを傾けた。喉を滑り落ちるのは、外気に曝され、ほぼ体温と同化したぬるい液体だ。不快なはずのその温かさが、かえって自分の輪郭を曖昧にしていく。
七海も、ベンチに腰掛けた。
見上げれば、夏の予兆を孕んだ空は、傾きかけた陽光を拒むように、どこまでも冷徹な青を湛えていた。
頬を撫でる、湿り気を帯びた温い風。
ベンチの背もたれに身を委ねる背中の熱。
遠く、カラスの声。
背後を通り過ぎる電車の、暴力的なまでの轟音。
夏が、すぐそこまで来ている。
先程啜ったコーヒーの苦味が、微かな記憶として舌に残っている。
……疲れた。
意味を成さない言葉の断片が、意識の表層に浮かんでは、実体のない泡となって消えていく。それはまるで、海中を当てもなく揺蕩うクラゲのようであった。
いつしか、七海は抗いがたい静かな睡魔の領土へと足を踏み入れていた。
意識の浅瀬で、彼女は色彩を奪われた夢を見た。
そこは、世界の終わりを予感させるような、荒涼とした浜辺だった。
鉛色の海が、感情を欠いた律動で波打っている。
その波打ち際に、一人の少女が立っていた。
寂しそうな、あまりにも小さな背中。
「ああ、ミリィちゃん」
声を掛けようとしたが、言葉は声帯を震わせることなく霧散した。自分はこの風景において、観測者ですらない「不在の存在」であることに気づく。
ミリィがゆっくりと振り返る。
その唇が、何らかの真実を紡ごうと形作られた、その瞬間。
世界は、万華鏡のように反転した。
景色は、いつか激しい雨を凌いだバス停の、朽ちかけた木造の小屋へと変貌していた。
まだ幼い日のミリィがそこにいる。
雨に打たれた前髪から、透明な雫が頬を伝い落ちる。
「私も、七海ちゃんも、水星人なんだね!」
その無垢な宣言だけが、鼓膜を直接揺らした。
再び、景色が断裂する。
濃密な闇。
何もない、絶対的な空無。
どれほど視線を彷徨わせても、ミリィの姿はどこにもない。
七海が、混迷の中で背後を振り返った。
そこには、琥珀色の光に濁る、巨大な水槽が鎮座していた。
無数の、
半透明の、
そして圧倒的な群れを成したクラゲたちが、まるで重力を拒絶した「逆さまの雨」のように、上方を目指してゆらゆらと昇っていく。
彼らは一体、どの高みへ向かおうとしているのか。
「……はっ?!」
弾かれたように身体が跳ね、七海は現世へと引き戻された。
急速に焦点が合う周囲の風景。
地面には、手元から滑り落ちた空のペットボトルが、コロリと乾いた音を立てて転がった。
視界の先を、親子連れの子供が持つ真っ赤な風船が、夕風に煽られて不規則に揺れていた。
七海は、抜け殻のようなペットボトルを拾い上げる。
立ち上がり、愛車のレイダックのハンドルを握りしめ、歩き出す。
西の空は、いつの間にか爛れたようなオレンジ色に染まり、街の境界線を焼き尽くそうとしていた。
跨線橋の脇へと戻り、トップチューブに跨ったまま、デリバリーアプリを起動する。
スマホをホルダーに固定しようとしたその刹那、デバイスが心臓の鼓動のように震え、新たなオーダーの到来を告げた。
確認すれば、少し離れた弁当屋がピックアップ先だ。
まだ覚醒しきらない鈍い神経を、冷徹なプロ意識で叩き起こし、ペダルを漕ぎ出す。
画面上の地図は、直進こそが最短であると冷たく指示していた。
しかし、七海はこの街の血管を熟知している。
この先、大通りを渡るための信号は、あまりにも遠い。
彼女は迷うことなくギアを落とし、毛細血管のような路地へと車体を滑り込ませた。
慎重に、かつ流麗にペダルを回す。
人影の絶えた裏路地。
やがて、バス通りという大動脈へと躍り出た。
進路を北へ。
歩道には、帰路を急ぐ群衆が溢れていた。
刹那的な享楽に耽る若者も、人生の重荷に背を丸める老人も、喧騒も、静寂も。
七海は、彼らから透明な膜一枚隔てた別世界を、風を切り裂きながら駆けていく。
フレームに取り付けられたダブルレバーに手を伸ばし、一段、ギアを上げる。
足元で、ディレイラーが精緻な機械音を奏で、チェーンがカチャリと噛み合った。
ペダルに掛かる負荷が増大する。
それに比例して、視界を流れる景色が加速していく。
夕陽を反射するビルの窓、街角のカーブミラー、手元のデバイス――。全てが茜色の残像となって、彼女の視界を乱反射させた。
七海は、ただ一点、前方の消失点だけを見つめる。
もたつく自転車の老人を、無慈悲なまでの速度差で抜き去る。
路地から鼻先を突き出した軽自動車。
背後の気配を僅かな感覚で読み取り、車線の中央へと大胆にラインを変え、己の存在を質量として主張する。運転席の若者が驚愕に目を見開いてブレーキを踏むのを、七海は一顧だにせず通り過ぎた。
胸の奥に、冷たく澄んだ高揚感が湧き上がる。
しかし、
その瞬間であった。
視界の右前方から、鈍色の光沢を放つ銀色のトラックが迫りくる。
合図灯という対話の手段を放棄し、鋭角な軌道で左折を開始する巨大な金属塊。
その冷徹な車体が、七海の肉体のすぐ側まで肉薄した。
反射的なフルブレーキ。
だが、物理的な圧倒的質量は、逃げ場を失った七海の右肩へと激突した。
転倒の恐怖を抑え込み、ひび割れた世界を繋ぎ止めるようにハンドルを凝視する。
――刹那。
歩道の縁石に激突した前タイヤが、見るに堪えない形にひしゃげる。
レイダックと共に、七海の身体は中空へと放り出された。
重力からの、解放。
奇妙なほどの静寂を伴う、浮遊感。
そこで、七海の意識は消失した。




