31.本物の香り
七海の今日という日は、ただの一言、「盛況」という言葉の器には収まりきらないほどの熱量を孕んでいた。
スマートフォンの液晶は、ひっきりなしに舞い込むオーダーの報せを、無機質な点滅とともに告げ続けている。中天に到った太陽は、初夏の瑞々しさを奪い去るような苛烈さでアスファルトを焼き、そこから立ち昇る陽炎が視界を微かに歪ませていた。七海は、滲む汗が皮膚を滑り落ちる不快感さえも駆動への推進力に変え、重いペダルをひたすら回し続けた。
フードデリバリーという労働に身を投じて以来、未だ陽のい高いこの時刻にして、本日の収益は過去最高額を塗り替えようとしていた。
喧騒の激しいバス通りを幾度となく往復するうち、彼女の脳内には都市の毛細血管のような地図が組み上がっていく。駅前のチェーン店から、郊外に聳える巨大なモノリスのごときマンション群へ。その反復こそが最も効率的な血流であることを看破した彼女の、いわば「駅前待機」という戦略は見事に的中していた。
再び駅前へ戻り、ガードレールの無機質な金属に愛車のロードバイクを立て掛ける。
ペットボトルの水を喉に流し込むと、温もった水が乾いた体内に染み渡っていくのがわかった。その刹那、ポケットの中でスマートフォンが、冷徹な電子の震えでLINEの着信を告げた。
画面に浮かんだのは、戸川の名だった。
『夏に長野県で合宿と展示会をやることになったよー。旅費は自分たち持ちになっちゃうけど、七海ちゃんもどう?』
それは、彼女が身を置く「ソサイエティ」という、一種の特権的な、あるいは閉鎖的な共同体の招きであった。
「……長野、か……」
独り言が、乾いた空気に溶けて消える。
七海にとって、その土地は地図上の記号に過ぎず、縁もゆかりも、あるいは情動を揺さぶる記憶も存在しない。そして何より、「自腹」という二文字が、貧乏学生という現実に生きる彼女の胸に、澱のような重みを突きつけてくる。
しかし、思考を転回させる。
この猛暑の中、アスファルトを蹂躙し続けるこのデリバリーの稼ぎをもってすれば、その旅費という名の通行税を支払うことは不可能ではない。
美大生としての業だろうか、画材という底なしの欲望、日々の生活への寄る辺ない不安。それらは常に彼女を苛んでいたが、ふと、いつか馬渕東海が嘯いていた言葉が蘇る。
——ソサイエティに集う有象無象の誰かしらに「たかり」さえすれば、飢え死にすることはない。
その皮肉に満ちた、しかし奇妙に現実味を帯びた言葉が、今の彼女の心を不意に軽くさせた。
返信の文面を、脳内のキャンバスに描こうとした瞬間。
またしても、現実への引き戻しを告げるオーダーの明滅。
彼女は「誘い」を思考の奥底へと棚上げし、反射的にタップすることで配達の受諾を確約した。
確認した店名は、彼女の記憶の索引にはない見慣れぬものだった。
駅から少し離れた、喧騒の射程外。
瞬時にその位置を把握できた自分に、この街の地理を侵食しつつある自覚が芽生え、微かな苦笑が漏れる。
彼女は、ブリヂストン・レイダックのハンドルを握り直し、駅前のロータリーという混沌から鮮やかに脱け出した。
コインランドリーが放つ洗剤の香りと湿り気の脇を抜け、人影の絶えた路地へと潜り込む。
そこは、時間が凝固したような、古びたコンクリートと錆びたシャッターが続く静謐な空間だった。
その突き当たり、鬱蒼とした緑に浸食され、蔦の絡まりと名もなき立木に守られるようにして、その煉瓦造りの店は佇んでいた。
色褪せた水色の看板に記された名は『喫茶エコー』。
スマホをホルダーから抜き取り、再確認する。間違いはない。
七海は近くのフェンスに愛車を立て掛け、重厚なチェーンロックを施すと、異界への入り口を思わせるドアを押し開いた。
頭上で、カラカラと、乾いたドアベルの音が静寂を破る。
「いらっしゃいませ」
出迎えたのは、銀嶺のごとき白髭を蓄え、理知的な静謐を纏った老紳士のマスターだった。
「あ、あの。すみません。私、フードデリバリーです」
店内の、琥珀色の空気が持つ重圧に気圧され、彼女の声は僅かに上擦った。
「ああ……早いんだね。ごめんね、少し、こちらにもおかけになって、待ってもらえるかな?」
促されるまま、彼女はカウンターの端の席に身を寄せた。
「はい。お邪魔します……」
背中から下ろしたデリバリーバッグを、まるで壊れ物を扱うように両手で抱える。
その瞬間、七海の全身を、暴力的なまでに芳醇な、焦がした種実のようなコーヒーの香気が包み込んだ。
何十年という歳月を吸い込んできたであろう木製の椅子に腰を下ろし、彼女は思わず店内を睥睨する。
壁には巨大な大時計が、心臓の鼓動のように精緻な時を刻んでいる。
飾り気こそないが、隅々まで美学に貫かれた整理整頓。その静謐の中で、唯一の諧謔のように、木彫りのミミズクが隅の方で泰然と鎮座していた。
客は、いない。
この密室には、七海とマスターの二人だけが、異質な時間軸を共有している。
カウンターの奥では、コーヒーサイフォンの琥珀色の水面が、ポコポコと生命の鼓動のように泡立っていた。
その光景が、かつて見たクラゲの水槽の記憶を、鮮烈なフラッシュバックとして彼女の脳裏に焼き付けた。
「若い女性も、やってるんですねぇ」
「え? は、はい?」
「あ、失礼。うちもフードデリバリーという文明の利器を使い始めて、まだ日が浅いものでね」
「ああ、そうなんですね。私も日が浅くて、まだどんな方たちが走っているのか、よく知らないんです」
言葉を交わすうちに、硬直していた彼女の肩から、少しずつ力が抜けていく。
すると。
「これ、サービスです。お待たせしてしまうから……」
店主は、繊細な意匠の施されたソーサーに載った一杯のコーヒーを、恭しく差し出した。
「い、いえ。そんな、お構いなく……」
「いえいえ。これも一種の営業活動ですよ。もし、うちのコーヒーが君の口に合ったら、今度は客として、ゆっくり飲みに来てください」
「……そうなんですね。それでは、お言葉に甘えまして、いただきます」
正直に言えば、彼女にとってコーヒーは日常の必需品でもなければ、嗜好品ですらなかった。せいぜい、インスタントの粉を溶かしたものか、コンビニの甘ったるいコーヒー牛乳で喉を潤す程度。
しかし、この空間を支配する圧倒的な香気が、彼女の深層心理にある好奇心を、静かに、しかし力強く揺さぶっていた。
カップの華奢な取っ手を指先で掴み、持ち上げる。
口元に運ぶと、蒸気とともに立ち昇る香りは、もはや芳香という名の魔術だった。
琥珀色の水面をフーフーと優しく吹き、慎重に一口。
七海は、目を見開いた。
「あ……、美味しい……」
それは、彼女がそれまで抱いていた「コーヒー」という概念の境界線を、鮮やかに踏み越えていった。
苦味はある。だが、それは拒絶すべき不快なものではなく、深く、重厚な思索を誘うような苦味だった。
僅かな渋みと、果実のような酸味。そして、ローストされたナッツを思わせる香ばしさが重なり合い、微かな甘みが全体を優しく調和させている。
嚥下した後に残るのは、鼻腔を吹き抜ける豊潤な風。それは味覚が「甘味」と錯覚しそうなほどに濃密な、幸福の余韻だった。
瞬く間に、七海はこの「本物」が湛える世界観の虜になった。
この店主の営業センスは、なるほど、一級品と言わざるを得なかった。
ふと視線を向ければ、店主はカウンターの中で、端正に重ねられた食パンの耳を、流麗な手つきで切り落としていた。
整然と並ぶバター、新鮮な野菜、厚切りのハム。
これから彼女が運ぶ「商品」が、一つの芸術作品のように形作られていく。
彼女はもう一口、コーヒーを啜った。
僅かに温度が下がったそれは、先程とは異なるハーブのような清涼な表情を見せ、彼女を驚かせた。
思わず、心の底から言葉が溢れた。
「これ、本当に……美味しいです」
感謝の念を伝えると、店主は、
「よかった……」
と、少しばかりぶっきらぼうに、しかし隠しきれない慈しみを含んだ声で応じ、再び淡々とパンにバターを塗り始めた。
なんだか、途方もなく得をしたような気分だった。
本物のコーヒーという、これまで自分とは無縁だった美意識の断片に触れられたこと。
それは、摩耗していく労働の日々の中で、彼女が確かに手に入れた、ささやかな、しかし確かな「成長」の証なのかもしれない。
あのサンドイッチも、きっと言葉を失うほどに美味しいに違いない。
七海は、いつかこの店を「客」として訪れる未来の自分を空想し、その楽しみを胸の奥に大切に仕舞い込んだ。




