30.使命
清冽なまでに青の深い、雲ひとつない日曜日だった。
七海は、背に負った巨大なデリバリーバッグの重みを肩に馴染ませると、もはや相棒と呼べるブリヂストンのレイダックを、駐輪スペースから慎重に引き出した。
細身のフレーム。その白と紫のグラデーションが、直射日光を浴びて鮮やかな光を撥ね返す。
左のポケットからスマートフォンを取り出し、ハンドル中央の専用ホルダーへ滑り込ませる。カチリ、という硬質な音が静謐な朝の空気に微かな波紋を広げた。その一連の動作は、もはや儀式めいた流麗さを帯びている。
彼女は、騒音の激しい幹線道路を避け、一本裏手の住宅街へと舵を切った。
なだらかな坂道を、まるで重力から解放されたかのように、滑るような速度で下っていく。
続く登り坂。
七海は速度を緩めない。
勢いを殺さず、慣性と自身の筋力が生み出す律動に身を委ねるように、一気に頂を目指す。ギアを落とすという妥協は、今の彼女にはない。
フェンスの向こう側では、少年たちが野球大会に昂じていた。
乾いた金属音、保護者たちの泥臭い声援。それらは一つの完結した「家族という営み」の風景として、彼女の視界の端を通り過ぎていく。七海は、その幸福な停滞を置き去りにし、雑多な熱気を孕んだ繁華街へと加速した。
いつものコンビニの駐車場に滑り込む。
熱を帯びたウィンドブレーカーを脱ぎ捨て、デリバリーバッグの底へ無造作に押し込んだ。季節はすでに初夏の領分を侵食しており、肌にはじんわりと塩分を含んだ汗が滲んでいる。
ダウンチューブのボトルケージからペットボトルを引き抜き、体温に近い温い水を一口、喉に流し込む。Tシャツの裾を指先で摘まみ、パタパタと小刻みに煽って、こもった熱を逃がした。
その時だった。
ボサボサの頭髪を隠そうともしない男が、コンビニの自動ドアから吐き出されるように現れ、七海の姿を執拗に一瞥した。
七海は意識を向けず、ただスマートフォンの液晶画面に視線を埋没させる。知己ではない。何が、それほどまでに彼女を射抜こうとするのか。関わりを拒絶する意志を、硬い沈黙に込めて示した。
しかし、男はその沈黙の膜を無遠慮に破った。
「あ、……あのぅ……今日って。オーダーどうですか? もう、何件かこなせた感じですか?」
「……はい?」
不本意ながらも、彼女は眉間に険を立てて視線を上げた。
男の視線は泳ぎ、卑屈な笑みを浮かべながら、七海の胸元を――あるいはそこに刻まれたロゴを――掠めるように見た気がした。
生理的な嫌悪感が、胃の底からせり上がってくる。これが、巷で言うところのナンパという無聊な行為なのだろうか。
「あ! 俺も、たまにデリバリーやってるんすよ」
男は、共通の属性を盾にするように言った。同業者。その言葉は、連帯感というよりは、土足で踏み込まれたような不快さを伴って響く。
「そうですか……」
七海の返答は、石のように冷たく、ぶっきらぼうだった。
それでも男は、彼女の拒絶を読み取ろうとはしなかった。
「この界隈、配送員同士で情報交換も盛んなんですよ。あの、SNSとか、やってますか?」
地方都市からこの街へ流れてきた七海とて、それほど世間知らずではない。この卑屈な誘いの本質が、単なる「連絡先の徴収」にあることは火を見るより明らかだった。
だが、その時。
「あの! ……オーダー入ったので。私、もういきます……」
七海は、スマートフォンの画面をまるで魔を祓う印籠のように突きつけた。
液晶には、間違いなく新たな注文を告げる通知が、冷徹な光を放って躍っていた。
七海は、ハンドルに掛けたヘルメットを揺らしたまま、レイダックに跨り、男の追従を振り切るようにして颯爽と漕ぎ出す。
振り返ることはない。
男がどのような表情を浮かべていようと、彼女の知ったことではなかった。
彼女は再び、都市を切り裂く一筋の風へと回帰した。
線路沿いに蝟集する飲食店の連なり。
ピックアップ先とされるカレー屋の座標は、地図上の赤い点と完全に重なっていた。
しかし、周囲を見渡せど、視界に入るのは煤けたホルモン焼きの店、古びた不動産屋、そして脂ぎったケバブの店ばかりだった。
『tar Bird curry』
その、鳥の羽ばたきを連想させる軽やかな店名とは裏腹に、実体が見当たらない。
もしや、同じ番地に複数の店舗がひしめき合う、あの厄介な都市特有の迷宮なのだろうか?
途方に暮れかけたその時、鼻腔の奥を、濃厚かつ鋭利なスパイスの香りがくすぐった。
ロードバイクを電柱に預け、ケバブ屋の脇に口を開けた、闇のような隙間を覗き込む。
そこには、人ひとり通るのがやっとの通路の奥に、小さな木製の小窓があった。
張り紙には、『デリバリー受け渡し口 tar Bird curry』という簡素な文字。
七海は恐る恐る、そのガラス窓を指の背でコンコン、と叩いた。
刹那、勢いよく窓が開かれ、七海は思わず一歩後退る。
「ナンバン? バンゴウオシエテ」
現れたのは、浅黒い肌に意志の強そうな瞳を宿した、外国人の店員だった。
七海は慌ててスマートフォンの画面を差し出した。
「いちいちはち、にーさんごー! です!」
腹の底から声を出し、明瞭なイントネーションで告げる。
「ハイ。イチイチハチ、ニーサンゴーね。コレ二つ。キヲツケテネ!」
店員は、スパイスの芳香を閉じ込めたビニール袋を二つ、手際よく差し出してきた。
「あ、はい……ありがとうございます」
受け取った袋の温かさが、手のひらに伝わる。
案外、コミュニケーションが円滑だったことに、彼女は奇妙な拍子抜けを覚えた。
バッグの空隙に商品を収める。カレールゥが傾き、その琥珀色の液体が溢れ出さぬよう、先ほど脱いだウィンドブレーカーで周囲を厳重に包み込み、固定した。
そして、再びレイダックという鉄の愛馬に跨る。
日曜日の街は、午後の陽光を浴びて、その密度を増していた。
行楽地を目指すであろう浮き足立った家族連れ、視線を絡ませ合う恋人たち、何かに疲れ果てたような、虚ろな眼差しをした若者。
七海は、彼らを背景のノイズとして処理し、慎重かつ冷徹に繁華街を進む。
こうした時、彼女は決まって、この世界から、あるいは流れる時間軸から、己だけが隔絶されたような不思議な感覚に陥る。
幸福を享受する者。
不幸せの影を背負う者。
それらは彼女の身勝手な観測に過ぎないが、流転する群衆と、フードデリバリーという無機質な労働に従事する自分との間には、目に見えない強固な境界線が引かれているように思えた。
食事を運ぶという、人間にとって最も根源的な営みの中心を担いながら、当の自分は、この上なく孤独な観測者でしかない。
だが、案ずることはない。
このロードバイクという乗り物は、もとより一人で跨るための道具なのだ。
ならば、孤独であることは、その設計思想に忠実であるという証左に他ならない。
いつも通り、簡潔な論理的帰結に辿り着いた頃、彼女はバス通りを抜け、広大な国道へと躍り出た。
ギアをトップへ。
ペダルを踏み込む力が、チェーンを介して地面を蹴る。
スマートフォンのナビが示すお届け先のマンション名。記憶の断片が繋がり、地図を確認する必要さえないことを確信した。以前、訪れたことのある場所だ。
ふと前方、右ウィンカーを明滅させ、発進の機を窺うタクシーが視界を遮った。
しかし、七海の判断は速かった。
サイドミラーに自分の存在が鮮明に映り込む角度まで、心臓の鼓動を昂ぶらせ、一気に加速する。
発進しようとしたタクシーが、キッ! と短い悲鳴のような音を立て、車体を激しく揺らして停車した。
七海は意に介さず、その鉄塊の脇を、一陣の突風となって抜き去る。
背中を、一筋の汗が冷たく伝った。
それが初夏の気温のせいなのか、あるいは、目的を遂行せんとする自分の魂が、いつしか獰猛な変貌を遂げてしまったせいなのかは、わからない。
ただ、課せられた使命に従い、彼女は無心でペダルを回し続けた。




