第99話「いつも通りに、いる、というジンの声と、届いてる、というルルの声と、気づいた、というシアの声と、道の途中の集落の朝」
朝が、来た。
集落の朝は——静かだった。
でも——
昨日と、違った。
何かが——また、変わっていた。
昨日は、古い道とただ共にいた夜だった。
今日は——
共にいた時間の重さが、また、少し、別の向きを、持っていた。
それだけで、十分だった。
―――
ジンが、目を覚ました。
すぐに——地面の方角に、手を、向けた。
地面を——通して、聞いた。
何かが——あった。
昨日とは——また、違った。
重さが——違った。
昨日は——「古い道に時間が届き始めた」という感触だった。
でも今日は——
「届き始めた時間が、昨日より、少し、重くなっている」という感触だった。
「……積み重なってる」とジンが、小さく、言った。「昨日より——重い。昨日いた分が——積み重なってる。消えてない。昨日いた時間が——消えずに、今日の分と重なってる。そういう感触だ。動いてない。向いてもいない。でも——重くなってる。そういう感触だ」
地面の奥から——返事は、なかった。
外が静かになってきてる。そういう見え方だ。もうすぐかもしれない。でも——わからない。ただ——変わってきてる。そういう見え方だ」
昨日いた時間の分だけ——何かが、積み重なったまま、あった。
――休みの後、ルルが、目を覚ました。
すぐに——鼻を、向けた。
後ろ——台地の方角。穏やかな、温かいにおい。アルトが、台地から、こっちを見ている。
横——空き地の方角。速い道が繋がったまま、速く、揺れ続けていた。
そして——
斜め前の、集落の端の方角。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——した」とルルが言った。「昨日と——また、違う。古い道から——昨日より、濃いにおいが、してる。届いてる。ジンがいた時間が——届いてる。昨日より——届いてる量が、違う。昨日より——重い。積み重なってる。積み重なってるから——濃くなってる。でも、まだ気づいてない。気づいてないけど——届いてる量が、違う。そういうにおいだ。続けてれば——もうすぐだと思う。そういうにおいだ」
ジンが——少し、間を置いた。
「……濃くなってきてる、か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「積み重なってきてる。昨日いた分が——消えずに、積み重なってる。積み重なってるから——においが、濃くなってきてる。でも、まだ気づいてない。気づく前の——積み重なり方だ。もうすぐ——閾値に届く。そういうにおいだ」
「閾値——か」とジンが、低く、言った。
「……うん」とルルが言った。「ある量まで積み重なったら——一度に、気づく。ゆっくりじゃない。一度に——気づく。だから——まだ何もないように見えても、積み重なってる。積み重なってるから——もうすぐだ。そういうにおいだ」
―――
カインが、写しを、広げた。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『古い道に時間が届き続けると、ある日、突然に気づく。ゆっくり気づくのではない。長い時間が積み重なって、ある閾値を超えた瞬間——一度に気づく。気づいた後は早い。気づいてから動き始めるまで、間がない。だから聞き手は、気づきが来た瞬間に備えていなければならない。ただしそれは、焦ることではない。ただ、いつも通りにいること。いつも通りにいる中で——気づきは、来る』とあります」
全員が——カインを、見た。
「……続きには——こうあります」とカインが言った。「『古い道が気づいた瞬間の、聞き手の在り方が全てを決める。その瞬間だけ特別に何かをしようとしてはならない。これまでと同じように——ただ、そこにいる。ただそこにいる聞き手に向かって、古い道は一度に全てを開く。開いたものを、ただ受け取る。それが、古い道の最後の仕事だ』とあります」
しばらく——誰も、何も、言わなかった。
「いつも通りに——いる、か」とジンが、低く、繰り返した。「気づいた瞬間に——何かしようとしない。今まで通りに——ただ、いる」
「……そうです」とカインが言った。「気づきは突然に来ます。その瞬間だけ力を入れようとすると——いつも通りでなくなる。いつも通りでなくなると、気づいた古い道は戸惑う。戸惑うと——また、閉じてしまう。だから、気づいた瞬間も——今まで通りに、ただ、いる。そういう記録です」
「気づいたあとも——今まで通り、か」とノアが、静かに、言った。
「……そうです」とカインが言った。「今まで通りにいることが——古い道への最後の言葉になる。言葉でも、力でも、速さでもない。ただ、そこに、いつも通りに、いる。それが、全てです」
―――
セレクが、静かに、口を、開いた。
「……教会の記録に——こうあります」とセレクが言った。「『古い道が気づく瞬間を、聞き手が待ち構えてはならない。待ち構えるとは——気づきを予期して、構えることだ。構えることは、いつも通りでなくなることに他ならない。古い道は長い時間をかけてそこにあった。その長い時間の中で、いつも通りにあり続けてきた。聞き手がいつも通りにいることで——古い道は、同じものを見る。同じものを見て——初めて、開く』とあります」
「待ち構えない——か」とジンが言った。
「……そうです」とセレクが言った。「待ち構えることは——気づきを急かすことです。古い道は急かされると、閉じます。太い道は重さで急かすことができました。速い道は速さで応えることができました。古い道は——急かすことが、最も禁じられています。ただ、いつも通りにいる。それだけが、許されていることです」
「……わかった」とジンが、低く、言った。「いつも通りに——いる。それだけだ」
「……はい」とセレクが言った。「ただ——一つだけ、覚えておくことがあります」
「一つ——か」とジンが言った。
「……気づきは、突然、来ます」とセレクが言った。「突然来た時——驚かない。驚くと、いつも通りでなくなる。突然来ても——いつも通りに、受け取る。驚かずに、受け取る。それだけです」
―――
一行は——集落の端の、石積みの前に、向かった。
石積みは——静かに、あった。
昨日と——同じように、あった。
でも——
何かが、少しだけ、違った。
シアが、空間を、静かに、探った。
「……変わってきた」とシアが言った。「昨日——形のないまま、ただあった。今日は——まだ形がない。でも、昨日より、質が、違う。静かな——密度が、違う。ぎゅっと——なってきてる。昨日より、ぎゅっと。形になる前の——ぎゅっと。そういう見え方だ」
「ぎゅっと——なってきてる,か」とジンが言った。
「……うん」とシアが言った。「密度が——上がってきてる。積み重なってきてるから——密度が上がってきてる。形になる前の——最後の段階に見える。形になる直前は——一番密度が高くなる。そういう見え方だ。もうすぐかもしれない。そういう見え方だ」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——した。石積みから——においが、した。昨日より——確かに、濃い。積み重なってる。ジンが昨日いた時間が——消えずに、今日の前にある。消えずに——重なってる。密度が——上がってきてる。もうすぐ——閾値だ。そういうにおいだ。でも、まだ気づいてない。気づく前の——最後の積み重なりの段階だ。そういうにおいだ」
―――
ジンが——二つの石積みの間の地面に、手を、当てた。
「……ある」とジンが、小さく、言った。「昨日より——重い。積み重なってる。消えてない。昨日いた分が——全部、ここにある。それだけだ。今日も——ここにいる。ただ——ここにいる」
ノアが——隣に、来た。
地面に——手を、当てた。
「……ここにいる」とノアが、静かに、言った。「昨日と——同じように、いる」
「……頼む」とジンが言った。「何もしなくていい。昨日と——同じように、いてくれ」
「……わかった」とノアが言った。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——した。二人が——石積みの前にいる。昨日と同じ——においだ。同じにおいがして、同じ場所にいる。積み重なってきてる。昨日より——重い。でも、同じにおいだ。そういうにおいだ。古い道には——同じにおいが、届いてる。昨日と同じにおいが——また来た、ってことが、届いてる。そういうにおいだ」
「また来た——ってことが、届いてる、か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「また来た。同じにおいで——また来た。それが——積み重なってる。同じにおいが——また来たことが、届いてる。そういうにおいだ」
―――
昼が——来た。
ジンは——石積みの前の地面に、手を当てたまま、いた。
石積みは——静かに、あった。
何も——来なかった。
何も——動かなかった。
ただ——あった。
昨日と——同じように、あった。
カインが——少し離れた場所から、写しを、手に取った。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『古い道に時間が届く過程で、聞き手が最も迷いやすい瞬間がある。それは——何も変わらないように見える時だ。何も変わらないように見えても、時間は届いている。届いていても——見えない。見えなくても——届いている。聞き手は見えない届きを信じて、いつも通りにいなければならない。見えないから届いていないのではない。見えなくても——届いている。それが、古い道の性質だ』とあります」
「見えなくても——届いてる、か」とジンが、石積みを、見た。
「……そうです」とカインが言った。「変わらないように見えます。でも——届いています。届いているから、昨日より密度が高くなっています。シアさんが感じた変化は——見えない届きの証拠です。見えないからといって、焦らない。やり方を変えない。ただ——いる。そういう記録です」
エリナが——手帳に、静かに、何かを、書いた。
書いてから——手帳を、閉じた。
それから——石積みの前の地面に、静かに、座った。
ジンの——隣に。
「……私も——ここにいます」とエリナが、小さく、言った。「昨日は——見ていました。今日は——ここにいます」
ジンが——少し、エリナを、見た。
「……頼む」とジンが、静かに、言った。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——した。エリナが——来た。三人になった。においが——また、少し、重くなった。三人がいる——においが、した。積み重なってきてる。三人分——積み重なってきてる。そういうにおいだ」
―――
五本目の糸が——穏やかに、揺れた。
ルルが、息を、止めた。
「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——揺れてる。古い道のにおいを——感じてる。積み重なってきてるにおいを——感じてる。自分のことを——また、思い出してる。祠の中で——ただ、いた。誰かが来るまで——ただ、いた。来るかどうかも——わからなかった。でも、ただ——いた。今日のジンたちと——同じだ、って揺れ方だ。同じにおいがする、って揺れ方だ。静かな——揺れ方だ。でも——温かい。もうすぐかもしれない、って——応援してる揺れ方だ」
「アルト——」とノアが、空に向かって、小さく、言った。「見てるか。同じだ。お前が祠でやってたことと——同じことを、やってる。ただ——いる。それだけだ」
五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。
―――
午後が——来た。
ジンは——まだ、地面に手を当てたまま、いた。
ノアが——まだ、隣に、いた。
エリナが——まだ、隣に、いた。
石積みは——静かに、あった。
シアが——少し離れた場所から、石積みを、静かに、見ていた。
「……また、変わってきた」とシアが言った。「さっきより——また、密度が、上がってきた。ぎゅっと——なってきてる。ぎゅっと、なってきてる。形になる直前——という感じがする。形になる直前は、一番——静かになる。静かで、密度が高い。そういう状態に——近づいてきてる。そういう見え方だ」
「一番——静かになる、か」とジンが言った。
「……うん」とシアが言った。「形になる直前——全部が内側に集まる。内側に集まるから——外が静かになる。外が静かになってきてる。そういう見え方だ。もうすぐかもしれない。でも——わからない。ただ——変わってきてる。そういう見え方だ」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——静かになってきた。濃くなってきてた——においが、静かになってきた。密度が上がって——内側に集まってる。そういうにおいだ。においが静かになることが——気づきの直前のにおいだ。静かで、重い。すごく——静かで、重い。そういうにおいだ。でも——焦らない。いつも通りに——ただ、いる。そういうにおいだ」
「においが——静かになってきた、か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「静かになってきた。でも——重い。静かで、重い。内側に集まってきてる。集まってきてるから——静かになってきてる。そういうにおいだ。もうすぐかもしれない。でも——いつも通りにいる。そういうにおいだ」
―――
カインが——写しを、静かに、手に取った。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『気づきの直前、古い道は一度だけ、完全に静かになる。音も、動きも、においも——全て、内側に引っ込む。その静けさは一瞬だ。一瞬の後——気づきが来る。聞き手はその静けさの中でも、いつも通りにいなければならない。静けさに驚いてはならない。静けさの後に来るものを待ち構えてはならない。ただ——いつも通りに、いる。その静けさの中でも、いつも通りにいる聞き手に向かって——気づきは、開く』とあります」
「静けさの中でも——いつも通りに、か」とジンが、低く、繰り返した。
「……そうです」とカインが言った。「静けさが来た時——何かが来ると察して、力を入れてしまうことがあります。でも、力を入れると——いつも通りでなくなる。いつも通りでなくなると、気づきは閉じる。静けさの中でも——いつも通りに、ただ、いる。それだけです」
「……わかった」とジンが言った。
―――
夕暮れが——近かった。
石積みが——静かになっていた。
シアが見ていた——密度が上がって内側に集まっていた。
ルルが感じていた——においが静かになっていた。
ジンが感じていた——重さが内側へ向かっていた。
それが——
さらに、静かになった。
完全に——静かになった。
ルルが、息を、止めた。
「……来る」とルルが、小さく、言った。「静かになった。完全に——静かになった。これだ。これが——気づきの直前だ。来る——もうすぐ、来る。いつも通りに——いる。いつも通りに——」
ジンが——何もしなかった。
地面に手を当てたまま——いた。
ノアが——隣に、いた。
エリナが——隣に、いた。
いつも通りに——
ただ、そこに、いた。
―――
一瞬だけ——
全て、止まった。
重さが——止まった。
においが——止まった.
糸が——止まった。
一瞬だけ——
全て、止まった。
その後——
動いた。
―――
シアが、息を、止めた。
「……動いた。形が——出てきた。石積みから——形が、出てきた。糸、じゃない。糸の前の——何かが、形になった。形になりながら——ジンの方を、向いてる。向いてる。二つとも——向いてる。ジンの方を——向いてる。気づいた。気づいた——気づいて、向いてきてる。そういう見え方だ。気づいた。古い道が——気づいた」
「気づいた——か」とジンが、静かに、言った。
「……うん」とシアが言った。「気づいた。一瞬で——気づいた。ゆっくりじゃなかった。一瞬で——一度に、気づいた。記録の通りだ。一瞬で——全部、気づいた。向いてきてる。ジンの方を——向いてきてる。そういう見え方だ」
ルルが、目を、細めた。
「……においが——動いた。全部——動いた。静かだったにおいが——一度に、動いた。気づいた——においだ。ジンがいる、ってことに——気づいたにおいだ。一瞬で——気づいた。ゆっくりじゃない。一瞬で——全部が動いた。気づいたにおいが——来てる。来てる。来てる」
「……ここにいる」とジンが、いつも通りに、静かに、言った。
―――
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、動いた。ジンが言ったから——また、動いた。ジンの声を——受け取った。受け取ってから——また、動いた。いつも通りの声を——受け取った。いつも通りだったから——怖くなかった。いつも通りの声だったから——怖くなかった。そういうにおいだ」
「怖くなかった——か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「いつも通りの声だったから——怖くなかった。気づいた時に、特別な何かが来たら——怖かったかもしれない。でも——いつも通りの声が来た。いつも通りだったから——怖くなかった。そういうにおいだ」
シアが、空間を、静かに、探った。
「……動いてる。形が——動いてる。さっきはジンの方を向いただけだった。今は——互いを、向いてる。二つが——互いを、向いてる。互いを向きながら——ジンの方にも向いてる。三つの方角を——同時に向いてる。そういう見え方だ。動いてる。気づいてから——動いてる。記録通りだ。気づいてから動き始めるまで——間がなかった。一瞬で——動き始めた。そういう見え方だ」
―――
カインが——急いで、写しを、広げた。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『古い道が気づいて動き始めた後、聞き手の最後の仕事がある。それは——気づいた道の動きに合わせて、時間で返すことだ。速い道は速さで返した。古い道は——時間で返す。時間で返すとは、これまで届けてきた時間の全てを、一度に届けることだ。一度に届けることで——古い道の二つは、互いを向き、繋がる』とあります」
「時間で——返す、か」とジンが言った。
「……そうです」とカインが言った。「これまでいた時間の全てを——一度に届ける。言葉じゃない。速さじゃない。重さじゃない。時間だけを——届ける。これまでここにいた時間が——全部、言葉になる。その言葉を——届ける。そういう記録です」
「これまでいた時間を——一度に届ける、か」とジンが、低く、言った。「昨日から——ここにいた。その時間を——全部、届ける」
「……そうです」とカインが言った。「ここにいた時間は——消えていません。届いていました。届いていた時間を——全部、一度に、返す。それが、古い道の最後の仕事です」
―――
ルルが、息を、止めた。
「……来る。また——来る。動いてる。向いてきてる。二つとも——向いてきてる。来る——」
ジンが——地面に手を当てたまま、静かに、目を閉じた。
昨日から——いた時間を、思った。
ただ、いた——その時間を。
何もしなかった——その時間を。
でも——消えなかった、その時間を。
「……ここにいた」とジンが、静かに、言った。「昨日から——ここにいた。何もしなかった。ただ——ここにいた。その時間を——全部、届ける。受け取ってくれ」
―――
一瞬だけ——
何かが、動いた。
ゆっくりでは——なかった。
でも——
速い道ほど、速くも、なかった。
古い道らしい——動き方だった。
確かな——重さで、動いた。
シアが、息を、止めた。
「……繋がった。二つが——互いを向いて、繋がった。一本に——なった。形がないまま——繋がった。糸の形になる前のまま——繋がった。それでも、繋がった。一本に——なった。そういう見え方だ。繋がった。古い道が——繋がった」
「繋がった——か」とジンが、静かに、言った。
「……うん」とシアが言った。「繋がった。ゆっくりでも、速くでも、なかった。古い道らしい——繋がり方だった。確かな重さで——繋がった。そういう見え方だ」
ルルが、目を、細めた。
「……においが——全部、動いた。一度に——全部、動いた。古い道が繋がった——においだ。太い道のにおいとも、速い道のにおいとも——また、違う。重くて——静かだ。すごく——重くて、静かだ。長い時間が——全部、一度に来た。そういうにおいだ」
「重くて——静か、か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「重い。でも——静か。太い道の時は、重くて、動いてた。速い道の時は、速くて、重かった。古い道は——重くて、静かだ。静かなのに——重い。長い時間が——静かに、全部、来た。そういうにおいだ」
―――
石積みから——何かが、来た。
来方が——静かだった。
静かで——
重かった。
シアが、息を、止めた。
「……声が——来た。静か。すごく——静かだ。でも——確かに来た。一本の道を通して——来た。二つから——一度に来た。繋がったから——一度に来た。声じゃない——かもしれない。声の前の——何かだ。でも——来た。確かに、来た。環境の見え方だ」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——来た。静か。すごく——静か。でも——重い。すごく——重い。長い時間のにおいが——全部、静かに来た。二つとも——来た。二つとも——同じにおいだ。同じ時間を——別々に、ただ、いた。同じにおいだ。静かなのに——全部ある。そういうにおいだ」
「全部——ある、か」とジンが、低く、言った。
「……うん」とルルが言った。「静かに来たのに——全部ある。長い時間のにおいが——全部、静かに来た。静かだからって——軽いわけじゃない。静かでも——全部ある。そういうにおいだ」
―――
ジンが——石積みを、見た。
「……来てくれた、か」とジンが、静かに、言った。「静かに——来てくれた。受け取った。全部——受け取った。長い時間——ただ、ここにあった。その時間を——全部、受け取った」
石積みが——一度だけ、静かに、揺れた。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——した。ジンが言ったのを——受け取った。受け取って——静かに揺れた。怖くなかった、ってにおいだ。ジンがいつも通りだったから——怖くなかった。突然、気づいた時も——いつも通りの声が、あった。いつも通りだったから——怖くなかった。そういうにおいだ。長い時間——ただ、ここにあった。でも——いつも通りの誰かが来てくれた。いつも通りに——来てくれたから、怖くなかった。そういうにおいだ」
「いつも通りに——来てくれたから、か」とジンが、低く、繰り返した。
「……うん」とルルが言った。「いつも通りだったから——怖くなかった。気づいた瞬間も、気づいた後も——いつも通りだった。いつも通りが——怖くなかった理由だ。そういうにおいだ」
―――
カインが——写しを、静かに、折り畳んだ。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『古い道が繋がった後、その道は繋がったまま静かに残り続ける。速い道が速いまま残ったように、古い道は——静かなまま残り続ける。静かなまま残り続けることで、古い道は周囲に静けさを届ける。静けさが届くことで——六つが一組として、初めて、全てを感じ合う』とあります」
「静かなまま——残り続けるか」とジンが、石積みを、見た。
「……そうです」とカインが言った。「太い道は重さで残ります。速い道は速さで残ります。古い道は——静かなまま残ります。三つの性質が——それぞれの形で残る。三つが揃って——六つが一組として、全部が繋がる。そういう記録です」
「三つが——揃った、か」とノアが、静かに、言った。
「……そうです」とカインが言った。「太い道が繋がった時の重さ、速い道が繋がった時の速さ、古い道が繋がった静けさ——三つが揃いました。三つが揃ったことで——六つの全部が、今、何かを感じているはずです。感じ合って——今夜、最後の仕事が、来るかもしれない。そういう記録です」
「最後の——仕事、か」とジンが言った。
「……そうです」とカインが言った。「六つが一組として繋がるには——三組の道が揃った後、最後に一つ、することがある。記録には——『三組が揃った時、六つは初めて全部で一つの場を感じる。その場で、聞き手は三つの道を同時に感じる。平らに——感じる。どれかに偏らずに、平らに。平らに感じた時——六つが、一度に、繋がる』とあります」
「平らに——感じる、か」とジンが、低く、言った。
「……そうです」とカインが言った。「太い道に偏ってもいけない。速い道に偏ってもいけない。古い道に偏ってもいけない。三つを——等しく、平らに、感じる。そういう記録です」
―――
五本目の糸が——大きく、穏やかに、揺れた。
ルルが、息を、止めた。
「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——大きく、揺れてる。古い道が繋がったのを——感じてる。重くて、静かな——においを、感じてる。自分のことを——思い出してる。自分の時は——重くて、速くはなかった。古い道と——似てる。静かで、重かった。同じだ、ってことを——感じてる。嬉しい——揺れ方だ。でも——もう一つある、って揺れ方だ。三つが揃ったことを——感じてる。三つが揃ったから——最後が来るかもしれない。その最後を——応援してる揺れ方だ」
「アルト——」とノアが、空に向かって、小さく、言った。「見てたか。古い道が——繋がった。いつも通りに——いた。いつも通りだったから——気づいてもらえた。三つが——揃った」
五本目の糸が——穏やかに、しかし、少し——新しい方角を向いた。
―――
エリナが、手帳を、開いた。
ペンを、走らせた。
今日のこと——朝、ルルが「古い道から昨日より濃いにおいがしてる、届いてる量が違う」と言ったこと、カインが「突然に気づく、気づいた後は早い、いつも通りにいること」という記録を読み上げたこと、セレクが「待ち構えてはならない、いつも通りにいる聞き手に向かって開く」という記録を示したこと、シアが「密度が上がってきてる、形になる直前に見える」と言ったこと、エリナ自身も石積みの前に座ったこと、ルルが「においが静かになってきた、気づきの直前だ」と言ったこと、完全な静けさが来た後に古い道が気づいたこと、シアが「一瞬で全部が気づいた」と言ったこと、ジンがいつも通りに「ここにいる」と言ったこと、ルルが「いつも通りだったから怖くなかった」と言ったこと、カインが「これまでいた時間の全てを一度に届ける」という記録を示したこと、ジンが「ここにいた、その時間を全部届ける」と言ったこと、古い道が繋がったこと、来方が静かで重かったこと、石積みが「いつも通りに来てくれたから怖くなかった」と揺れたこと、カインが「三組が揃った後、平らに感じることで六つが一度に繋がる」という記録を示したこと、アルトが三つが揃ったことに応援の揺れを見せたこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、古い道が繋がりました。私は今日、初めて石積みの前に座りました。書くのをやめて——ただ、いました。何もしませんでした。でも、今日一番よかったことは、それかもしれません。ジンがいつも通りにいて、古い道がいつも通りだったから気づいてもらえた、とルルが言いました。私もいつも通りにいました。記録者として書くのではなく、ただ、いつも通りに、そこにいました。今日を見ていて、いつも通りであることの強さ、というものを考えました。太い道には重さが要った。速い道には速さが要った。古い道には——いつも通りが要った。特別なことではなかった。でも、いつも通りであることは、特別なことより難しいかもしれない。特別にしたくなるから。気づきが来た瞬間に、何かしたくなるから。それをしなかったことが——繋がれた理由だった。私も今日、何もしませんでした。ただ、いました。それが、今日の私の仕事でした。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
集落は——静かだった。
でも——
何かが、そこに、あった。
太い道の重さと、速い道の速さと、古い道の静けさが——三つとも、そこに、あった。
穏やかに——そこに、あった。
石積みは——静かに、揺れ続けていた。
繋がったまま——静かに、揺れ続けていた。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
ジンは——石積みの間の地面に、もう一度、手を、当てた。
地面を——通して。
「……三つが——揃った。太い道が繋がった。速い道が繋がった。古い道が繋がった。三つとも——繋がった。でも——まだ、最後がある。六つが一組として繋がる——最後が、ある。平らに——感じる。三つを、平らに、感じる。それが——最後の仕事だ。ルルが——感じてくれる。シアが——見てくれる。明日——やる」
石積みは——答えなかった。
底に——何かが、そこに、あった。
三つの道が繋がった後の——何かが、あった。
静かで、重くて、速くて——三つとも、そこに、あった。
穏やかに——そこに、あった。
暖炉の火が——穏やかに、揺れた。
集落の外の風が——遠く、あった。
アルトが——見ていた。
一行の背を——押していた。
夜が——深くなった。
三つの道が揃った夜が。
穏やかに——深くなった。
―――
― 第99話・了 ―
次話予告:
翌朝、ルルが鼻先を向ける。「……においが——した。全部から——においが、した。太い道から——重いにおい。速い道から——速いにおい。古い道から——静かなにおい。三つとも——してる。三つとも、向いてきてる。全部が——同じ方向を向いてきてる。ジンの方を——全部が、向いてきてる。全部が——今日を、感じてる。そういうにおいだ」。カインが写しを開く。「記録には——『三組が揃った後、聞き手は六つが感じ合える場所の真ん中に立つ。重さでも速さでも時間でもなく、ただ——六つを平らに感じる。平らに感じるとは、どこにも偏らないことだ。偏らずに、六つを等しく受け取る。受け取り続けた時——六つが一度に、一つの大きなものとして、動き始める。動き始めた時、聞き手は何も言わなくていい。ただ、受け取る。受け取ることが——最後の仕事だ』とあります」。ジンが立ち上がる。「……平らに——感じる。偏らない。それだけだ」。五本目の糸が——穏やかに、大きく、全ての方角を、向く。




