第93話「注意が、動いた、というルルの声と、信じてくれた、というジンの声と、外の四つが先に揃う、というカインの声と、道の途中の集落の朝」
朝が、来た。
集落の朝は——静かだった。
でも——
昨日と、違った。
何かが——また、変わっていた。
昨日は、石がジンに気づいた夜だった。
今日は——
気づいた後の重さが、昨日とは少し、違う向きを、持っていた。
それだけで、十分だった。
―――
ジンが、目を覚ました。
すぐに——地面の方角に、手を、向けた。
地面を——通して、聞いた。
何かが——あった。
昨日とは——また、違った。
重さが——違った。
昨日は——「石がジンに気づいた」という感触だった。
でも今日は——
「気づいた重さが、外ではなく——少し、こちらを向いている」という感触だった。
「……向いてる」とジンが、小さく、言った。「昨日は——外の四つを向いてた。ずっと——外の四つを向いてた。でも今日は——少し、違う。少しだけ——こっちを向いてる。まだ、外の四つの方が重い。でも——少しだけ。こっちを——向いてる」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——何かが、そこに, あった。
石の重さが——昨日より、少しだけ、こちらを向いたまま、あった。
―――
ルルが、目を覚ました。
すぐに——鼻を、向けた。
後ろ——台地の方角。穏やかな、温かいにおい。アルトが、台地から、こっちを見ている。
前——集落の真ん中。石のある方角。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、変わった」とルルが言った。「昨日と——違う。石から——昨日と、違うにおいが、してる。気づいた後の——においだ。でも——まだ、信じてない。信じるには——もう少し、かかる。でも——においが、変わった。ジンのことを——感じてる。昨日よりも——はっきり、感じてる。そういうにおいだ」
ジンが——少し、間を置いた。
「……はっきり——感じてる、か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「昨日は、気づいただけだった。今日は——感じてる。ジンがそこにいる、ってことを——感じてる。感じてるから、においが変わった。でも——まだ、外の四つの方が、重い。四つを向いてる方が、まだ、多い。そういうにおいだ」
「外の四つの方が——まだ重い、か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「でも——変わってきてる。昨日より、変わってきてる。そういうにおいだ」
―――
カインが、写しを、広げた。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『五つで一組において、中心が聞き手を信じる前に、必ず一つだけ変化が起きる。それは——中心が、外の四つに向けていた注意を、少しだけ聞き手に向けること。外から聞き手へ、注意の向きが動く。その動きが——信じることへの入り口だ』」
全員が——カインを、見た。
「……続きには——こうあります」とカインが言った。「『注意の向きが動いた中心は、次に必ず一度だけ、聞き手を試す。試すとは——聞き手が自分の恐れに耐えられるかどうかを確かめることだ。恐れを見せても、逃げない者だと知ることで——中心は初めて、信じることができる』」
しばらく——誰も、何も、言わなかった。
「試す——か」とジンが、低く、繰り返した。「恐れを見せてくる、か」
「……そうです」とカインが言った。「意地悪で試すのではありません。中心にとって、これは——唯一の確かめ方です。四つが薄くなっていく恐れを、目の前の聞き手にぶつけてくる。それを受け止められるか——それだけを、見ています」
「受け止める——か」とノアが、静かに、言った。
「……そうです」とカインが言った。「逃げない。遠ざかろうとしない。ただ——受け止める。それが、信じてもらうための、唯一の方法です」
「受け止め方は——どうする」とジンが言った。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『恐れをぶつけられた聞き手は、何も言わなくてよい。ただ——そこに、いる。いることが、答えだ』」
ジンが——少し、目を、細めた。
「……ただ、いる、か」とジンが言った。「わかった」
―――
セレクが、静かに、口を、開いた。
「……教会の記録に——こうあります」とセレクが言った。「『五つで一組の中心が聞き手を試す際、その恐れの大きさは——中心が外の四つをどれほど深く知っているかに比例する。深く知るほど、失う恐れも深い。深い恐れをぶつけられた聞き手は、その深さに圧倒されることがある。しかし——圧倒されることは、失敗ではない。圧倒されながらも、そこにいることが——答えだ』」
「圧倒されながらも——いる、か」とジンが、石の方角を、見た。
「……そうです」とセレクが言った。「古い石です。長い時間、四つを知ってきた。その分——失う恐れも、深い。深い恐れを受け止めるには、覚悟がいります。でも——覚悟があると知るから、中心は信じられる。覚悟が、信頼の土台です」
「……わかった」とジンが、低く、言った。「受け止める」
―――
一行は——石の前に、向かった。
集落の真ん中へ——歩いた。
石が——あった。
昨日と同じ——古い、大きな石だった。
苔が——昨日と同じだけ、生えていた。
でも——
何かが、違った。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——した。石から——においが、した。昨日と——違う。昨日は、外の四つを向いてた。今日は——こっちを、少し、向いてる。向いてるから——においが、こっちに来てる。来てる。ジンの方に——来てる。そういうにおいだ」
「来てる——か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「来てる。でも——来ながら、まだ迷ってる。こっちに来ていいのか——迷ってる。そういうにおいだ」
ジンが——石の前に、来た。
地面に——手を、当てた。
「……ある」とジンが、小さく、言った。「昨日より——重さが、こっちを向いてる。向いてる。向きながら——迷ってる。でも、向いてる。向いてくれてる」
―――
しばらく——静かに、あった。
ジンが——地面に手を当てたまま、いた。
石が——石のまま、あった。
何も——起きなかった。
ただ——
何かが、少しずつ、動いていた。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——動いてる。石から——少しずつ、においが、こっちに来てる。少しずつ——でも, 確かに、来てる。石が——ジンの方に、向いてきてる。向いてきながら——まだ、迷ってる。でも、向いてきてる。そういうにおいだ」
シアが、空間を、静かに、探った。
「……見えてきた」とシアが言った。「石から——細い何かが、動いてる。昨日は、外の四つの方にだけ向いてた。今日は——少し、ジンの方にも向いてる。細い。ベース——動いてる。石が——ジンを、見てる。そういう見え方だ」
「見てる——か」とジンが、石を、見た。
「……うん」とシアが言った。「見てる。昨日は気づいただけだった。今日は——見てる。そういう見え方だ」
―――
昼が——来た。
ノアが——ジンの隣に、来た。
地面に——手を、当てた。
「……また——一緒に感じる」とノアが言った。「四つの時も、三つの時も——一緒だった。今日も——一緒に感じる」
「……頼む」とジンが言った。
カインも——反対の隣に、来た。
地面に——手を、当てた。
「……記録を読むだけじゃない」とカインが言った。「今日も——ここで聞く」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、変わった。三人が——石の前にいる。三人の重さが——石に届いてる。届いてるから——石の向きが、また、少し、変わった。外の四つの方だけじゃなく——三人の方を、もう少し、向いてきた。そういうにおいだ」
―――
午後が——来た。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、動いた。石から——においが、大きく、動いた。昨日は気づいただけだった。今日は——見てた。見てたら——ジンたちが逃げないことに、気づいた。気づいてから——においが、大きく、動いた。そういうにおいだ」
「気づいた——か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「逃げない、って——気づいた。昨日も逃げなかった。今日も逃げなかった。逃げないから——気づいた。そういうにおいだ。でも——次が来る。そういうにおいでもある」
「次——か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「試してくる。カインが言ってた通りだ。恐れを——見せてくる。そういうにおいだ。来る——もうすぐ、来る」
ジンが——少し、息を、吸った。
「……受け止める」とジンが、低く、言った。「ただ——いる」
―――
それは——
少し後に、来た。
地面から——重さが、来た。
昨日とも、今朝とも——違う、重さだった。
一度に——来た。
ジンが——地面に手を当てたまま、目を、細めた。
「……来た」とジンが、低く、言った。「重さが——来た。石の——恐れが、来た。四つが薄くなっていく——怖さが、一度に、来た。重い。すごく——重い。でも——ある。感じてる。ちゃんと——感じてる」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——した。石から——大きく、においが、来た。四つを失う怖さが——全部、来た。長い時間の怖さが——全部、来た。ジンに——ぶつけてきた。試してる。ちゃんと——試してる。そういうにおいだ」
「重い——か」とノアが、地面に手を当てたまま、言った。
「……うん」とジンが言った。「重い。でも——ここにいる。逃げない。感じてる。全部——感じてる」
ノアが——地面に手を当てたまま、頷いた。
「……一緒に——感じてる」とノアが、静かに、言った。「一人じゃない。ジンだけじゃない。一緒に——感じてる」
カインも——頷いた。
「……ここにいる」とカインが言った。「三人——ここにいる」
―――
時間が——経った。
重さが——続いていた。
ジンが——地面に手を当てたまま、いた。
ノアが——隣で、地面に手を当てたまま、いた。
カインが——もう一方で、地面に手を当てたまま、いた。
三人が——重さを、受け止めていた。
逃げなかった。
遠ざからなかった。
ただ——いた。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——変わってきた。石から——恐れのにおいが、少し、変わってきた。恐れのまま——でも、中に、違うものが、混ざってきた。ジンたちが逃げない、ってにおいが——混ざってきた。試してるのに——逃げない。試しても——逃げない、って気づいてきた。そういうにおいだ」
「気づいてきた——か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「まだ、信じてない。でも——逃げない、って、気づいてきた。気づいてきてるから——においが、変わってきてる。そういうにおいだ」
シアが、空間を、探った。
「……変わってきた」とシアが言った。「石から来てた——重い何かが、少し、変わってきた。さっきは一方的に来てた。今は——来ながら、こっちを見てる。来ながら——ジンたちを、見てる。そういう見え方だ。試しながら——見てる。見てるのが、変わった。そういう見え方だ」
―――
夕暮れが——近かった。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、大きく、変わった。石から——恐れのにおいが、引いてきた。全部なくなったわけじゃない。でも——引いてきた。代わりに——別のにおいが、来た。静かな——においだ。恐れとは、違う。試すとも、違う。静かな——においだ。そういうにおいだ」
「静かな——においか」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「石が——静かになってきた。恐れが、引いてきたから——静かになってきた。まだ、外の四つを向いてる。でも——静かに、向いてる。恐れながら向いてるんじゃなくて——静かに、向いてる。そういうにおいだ」
「恐れが——引いてきた、か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「全部じゃない。でも——引いてきた。ジンたちが逃げなかったから——引いてきた。受け止めてくれた、って——石が、感じてる。そういうにおいだ」
カインが——写しを、手に取った。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『恐れをぶつけて、それでも聞き手がそこにいた時——中心の恐れは初めて、少し、軽くなる。軽くなった分だけ、中心は聞き手の方を向ける。向けるようになることが——信じることの始まりだ』」
「信じることの——始まり、か」とジンが言った。
「……そうです」とカインが言った。「まだ、信じきってはいません。でも——始まった。今日は——それで、十分です。始まった。それが——今日のことです」
―――
夕暮れの中で——
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、動いた。石から——大きく、においが、動いた。外の四つを向きながら——でも、ジンの方にも、向いてきた。昨日より——ずっと、はっきり。今日の昼よりも——はっきり。向いてきた。ジンを——向いてきた。信じてはない。でも——向いてきた。向いてることが、信じることの始まりだ、ってにおいだ。そういうにおいだ」
「向いてきた——か」とジンが、石を、見た。
「……うん」とルルが言った。「向いてきた。ちゃんと——向いてきた。ジンを——見てる。信じてないけど——見てる。見てるから——信じることが、始まれる。そういうにおいだ」
シアが、空間を、探った。
「……変わった」とシアが言った。「石から——細い何かが、ジンの方に伸びてる。昨日も今朝もあった。でも——今は、違う。太くなってる。伸びながら——太くなってる。石が、ジンを、向いてるから——太くなってる。そういう見え方だ」
「太く——なってる、か」とジンが言った。
「……うん」とシアが言った。「細い。でも——昨日より太い。今朝より太い。太くなってる。そういう見え方だ」
―――
ジンが——立ち上がった。
石を——見た。
「……受け取った」とジンが、石に向かって、静かに、言った。「恐れ——受け取った。重かった。でも——ちゃんと、受け取った。逃げなかった。明日も——ここにいる。四つが薄くなっていくのが怖いのを——知ってる。知ってる。ここに——いる」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——した。石から——においが、した。ジンが言ったのを——感じた。感じてから——においが、少し、変わった。静かになった。恐れが——少し、静かになった。全部じゃない。でも——少し。受け取ってもらえた、ってにおいだ。開国、そういうにおいだ」
「受け取ってもらえた——か」とジンが、低く、繰り返した。
「……うん」とルルが言った。「石が——そう感じてる。まだ、信じてない。でも——受け取ってもらえた、って、感じてる。そういうにおいだ」
―――
五本目の糸が——穏やかに、揺れた。
ルルが、息を、止めた。
「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——揺れてる。石が恐れを見せたのを——感じてる。ジンが逃げなかったのを——感じてる。自分のことを——思い出してる。自分が、ノアに、名前を呼んでもらう前——ずっと、揺れてた。揺れながら——誰かがいるかどうか、わからなかった。でも——ジンたちがいた。石も——同じだ。恐れを見せた。でも——逃げなかった。そういうことを——思い出してる。嬉しい——揺れ方だ。でも——まだある、って揺れ方でもある。続きを——応援してる。そういう揺れ方だ」
「アルト——」とノアが、空に向かって、小さく、言った。「見てるか。石が——受け取ってもらえた、って感じてる。信じてはない。でも——受け取ってもらえた。最初の一歩——続けてる」
五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。
―――
エリナが、手帳を、開いた。
ペンを、走らせた。
今日のこと——朝、ルルが「石の向きが昨日と変わった、外の四つだけでなくジンの方も感じてる」と言ったこと、カインが「注意の向きが動いた後、中心は必ず一度だけ聞き手を試す、恐れをぶつけてくる」という記録を読み上げたこと、セレクが「圧倒されながらも、そこにいることが答えだ」という記録を示したこと、午後に石から大きな恐れの重さが一度に来たこと、ジンとノアとカインの三人が逃げずにそこにいたこと、長い時間をかけて恐れが少し引いてきたこと、石が静かになってきたこと、夕暮れにジンが「受け取った、逃げなかった、明日もここにいる」と石に向かって言ったこと、石から「受け取ってもらえた」というにおいがしたこと、アルトが自分の過去を思い出しながら揺れたこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、石はジンたちを試しました。恐れを——ぶつけてきました。私はそれを見ていて、試すこととは何だろう、と考えました。試す、というと意地悪に聞こえます。でも、カインの記録を聞いて、違う、と思いました。石にとって、これは唯一の確かめ方だったのです。自分の恐れを見て、それでも逃げないかどうか。逃げない人だけが、信じてもらえる。だから、試すことは——信じたいから、試す。信じたいから試す、ということが、恐れをぶつけてくることの中に、あった。私はそれを見ていて、信じることは、試すことの先にある、と思いました。試さずに信じることはできない。試されることが、信じてもらうための道だ。ジンは逃げなかった。受け止めた。だから今日、石は少しだけ、静かになった。信じることは、まだ来ていない。でも——静かになることが、始まっている。今日もそういう順番を聞きました。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
集落は——静かだった。
でも——
何かが、そこに、あった。
石が少し静かになった後の——静かな何かが。
穏やかに——そこに、あった。
石は——まだ、外の四つを向いていた。
でも——その向き方が、昨日より、少し、静かだった。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
ジンは——石の前の地面に、手を、当てた。
地面を——通して。
「……受け取った」とジンが、小さく、言った。「重かった。でも——受け取った。お前が——四つのことを感じてるのを、感じてる。怖いのを——感じてる。怖くて——試してきた。試してきたから——受け止めた。明日も——ここにいる。逃げない。ここに——いる」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——何かが、そこに、あった。
昨日の夜とも、器が光った夜とも——また、違う何かが、あった。
恐れを受け止めた後の——静かな何かが、あった。
穏やかに——そこに、あった。
暖炉の火が——穏やかに、揺れた。
台地の風が——遠く、あった。
アルトが——見ていた。
一行の背を——押していた。
夜が——深くなった。
石が少し静かになった後の——静かな夜が。
ゆっくりと——深くなった。
―――
― 第93話・了 ―
―――
次話予告:
翌朝、ルルが鼻先を向ける。「……においが——また、変わってきた。石から——昨日と、また、違うにおいが、する。静かなにおいが——続いてる。恐れは——まだある。でも、静かだ。昨日より——ずっと、静かだ。そして——注意が、動いた。外の四つじゃなく——ジンの方を、はっきり、向いてる。信じた、ってにおいじゃない。でも——向いてる。外から聞き手へ、注意が、動いた。そういうにおいだ」。カインが写しを開く。「記録には——『中心が聞き手の方へ注意を向けた後、外の四つへと繋がる道が初めて揺れ始める。外の四つが揺れ始めることが——十本の道のうち、外の四本が動き出す合図だ。外の四本が先に揃う。それが、五つで一組の最初の仕事だ』とあります」。ジンが石の前に、地面に手を当てたまま、四方を感じる。「……揺れてる。外の四つが——揺れてる。石を通して——揺れてる。外の四本が、動き始めてる。四本が先だ。四本が揃えば——残りが来る」。五本目の糸が——穏やかに、また、新しい方角を、向く。




