第9話「返事と、開かない話と、少しの雨」
手紙が届いたのは、翌々日の朝だった。
ギルドの伝令便は週に三度、周辺の街と街を結んでいる。通常なら往復に四日から五日かかる。それが二日で戻ってきた、ということをエリナが告げたのは、ジンが昨日と同じ席に座って昨日と同じスープを頼んだ直後のことだった。
「シア・ルーナさん宛に、返信がありました」
エリナが差し出した白い封筒には、几帳面な筆跡で宛名が書かれていた。
シアの、手が止まる。
ほんの一瞬のフリーズ。ジンはそれを見ていたが、何も言わなかった。
「……受け取る」
シアは封筒を受け取ると、テーブルの上に置いた。そのまま、開こうとはしない。
「開かないの?」とルルが聞いた。
「あとで」
「今じゃだめ?」
「あとで」
ルルはしばらくシアの横顔を見てから、「そっか」と言って自分のパンに戻った。
エリナがジンに目配せした。ジンは軽く首を振った。
―――
もう一つ、エリナには報告があった。
「セレク・ヴァインから、昨日、ギルドへの正式な照会がありました」
四人がカウンター内の小部屋に集まったのは、朝食のあとのことだった。エリナは手元の書類を開きながら、声を落として続けた。
「内容は『Fランク登録者、霧島ジンの活動履歴の開示請求』です。教会が王室を通じてギルド中央に働きかけた形で、ギルドとして正式に応じる義務が生じています」
「断れない?」とジンが聞いた。
「完全には、断れません。ただ——」エリナは少し間を置いた。「開示できる内容には、私の裁量で絞り込む余地があります。何を開示し、何を開示しないかを決めるのは、窓口担当の判断です」
「……それはエリナが問題にならないの」
「職務の範囲内です。問題になるかどうかは、私が決めます」
ジンはエリナを見た。
エリナは真っ直ぐジンを見返した。ぐらつかない目だった。
「……ありがとう」
「謝礼は不要です。仕事ですから」
「そっか」
シアが口を開いた。「開示請求に応じると、何がわかる」
「依頼の履歴と、登録時の測定記録です。測定不能という記録ですが、それだけでも教会にとっては証拠になりえます」
「証拠……具体的には」
「規格外の力の存在を、公式文書で証明できる。つまり——動くための口実になります」
「まだ動いてなかったの?」とジンが思ったより素直な顔で言った。
「今までは観察でした。これは、次の段階です」
ルルがジンの袖を引いた。
「どうなるの」
「わかんない」
「こわい?」
「んー……」ジンは少し考えた。「エリナとシアが困ることになるなら、それは嫌だ」
ルルは「うん」と言って、袖を離した。
―――
昼過ぎから、雨が降り始めた。
ラングレイの石畳が濡れると、街の色が変わる。灰色だった路地が、黒っぽく落ち着いた色になる。ジンはそれをギルドの窓から見ていた。特に何かを考えていたわけではない。ただ見ていた。
「封印の点の話をしてもいいか」
シアが後ろで言った。封筒はまだ、上着のポケットに入ったままだった。
「いいよ」
「廃教会の台座に刻まれていた配置図——昨夜、改めて見直した。エリナが書き写した羊皮紙と、私の記憶を照らし合わせて」
「何かわかった?」
シアはテーブルに一枚の紙を置いた。手書きの簡略地図だった。ラングレイを中心に、いくつかの点が記されている。
「石板があった地下水路が一点。廃教会が一点。残り三点のうち、一点は——おそらく、ラングレイの南西だ」
「南西」
「配置図の記号に方位と距離を示すものがあった。正確ではないが、大体の方角と範囲は読み取れる。ラングレイから南西に半日ほどの場所。森を抜けた先に、古い水源があるという記録をエリナが見つけた」
「水源?」
「農業用の古い灌漑の跡だ。百五十年ほど前に使われなくなっている。ただ——その場所に関する古い記録が、不自然に少ない」
エリナが続けた。「ギルドの管理台帳にも、その区画だけ記載が飛んでいます。誰かが意図的に情報を削ったのか、それとも最初から記録しなかったのか——」
「教会が管理してた?」
「可能性はあります。セレクが知っているなら、残り二点の場所も、教会は把握しているかもしれない」
「先に行った方がいい?」
「今日は雨だ」とシアが言った。「明日以降で考える。ただ——早い方がいい」
ジンは地図を見た。南西に書かれた点を、少しだけ見た。
「シア」
「何だ」
「手紙、読んだ方がいいよ」
沈黙。
シアは何も言わなかった。ジンも、それ以上は言わなかった。
―――
夕方、雨が少し弱まった頃、シアは宿に戻った。
部屋の窓を少し開ける。雨上がりの湿った空気が入ってきた。机の前に座って、封筒を取り出した。
宛名の筆跡を見た。几帳面で、どこか几帳面すぎる書き方。昔から変わらない。
封を開けた。
紙は一枚。短い文章だった。
久しぶりだ、シア。
写しを見た。碑文の解析ができる範囲でやってみる。
一つだけ今わかることを書く。
この碑文に使われている言語体系は、大陸成立以前の原始魔法言語だ。
ただし、純粋な原始魔法言語ではない。それに、もう一つの言語が混ざっている。
その言語は——俺が知っている限りでは、神語に近い。
神語というのは、理論上しか存在しないとされているやつだ。
術者が人間なら、神語を扱えた理由を、俺は説明できない。
それから——一つだけ、個人的なことを。
お前がパーティを出た理由は、俺にはまだわからない。
だが、こういう形で連絡が来たことを、俺は良かったと思っている。
返事は、気が向いたら。
カイン
シアはその手紙を、最後まで読んだ。
それから、もう一度読んだ。
窓の外で、雨がまた少し強くなった。石畳を叩く音が、静かな部屋に響いた。
シアは手紙を折り畳んだ。封筒に戻した。それを机の引き出しにしまった。
立ち上がって、窓の外を見た。
(神語)
それが何を意味するか。魔法使いとして、シアには直感があった。人間が神語を扱えるとすれば——それは、人間ではない何かの力を借りていたか、あるいは。
あるいは。
(——ザルヴァ)
その名前が、また頭の奥に浮かんだ。
シアは目を閉じた。一拍置いて、開いた。
部屋を出た。階段を下りた。食堂に行くと、ジンとルルがいた。ルルは夕食のスープをすでに半分以上飲んでいて、ジンはパンを千切りながらぼんやりと窓の雨を見ていた。
ジンがシアに気づいて、「座れば」と言った。
シアは向かいの席に座った。
「手紙、読んだ」
ジンが「そっか」と言った。それ以上は何も聞かなかった。
シアは給仕を呼んで、スープを頼んだ。
しばらく誰も何も言わなかった。ルルが「雨、好き」と言った。ジンが「そう」と言った。シアは答えなかった。
スープが来た。一口飲んだ。温かかった。
―――
翌朝、四人がギルドに集まった時、シアが口を開いた。
「カインの手紙に、一つ重要なことが書いてあった」
エリナが背筋を正した。ルルがジンの膝の上に座って、耳を傾けた。
「廃教会の碑文は、原始魔法言語と——神語が混ざっているそうだ」
沈黙。
「神語って」とジンが言った。「神様の言葉?」
「理論上のみ存在するとされている言語体系だ。魔法言語の源流、という位置づけで、現存する人間には使えない。少なくとも、理論上は」
「でも実際に使われてた」
「そう読める」
エリナが静かに言った。「術者、アル・ヴェリアは——神語を扱えた」
「……そういうことになる」
「大陸と同じ名前を持ち、神語を使える術者が、四百年以上前に封印を作った」エリナは言葉を選んだ。「それは、人間ではなかった可能性がある、ということですか」
「わからない。だが——教会がその封印を管理しようとしていた理由が、少しだけわかる気がする」
ジンが首を傾げた。「なんで?」
「神語は、神の領域だ。教会にとって、それを人間——あるいは人間に準じる何か——が扱えたという事実は、都合が悪い。自分たちの教義の根拠を揺るがしかねない」
「神様が全部管理してるって話が崩れる?」
「そうとも言える」
ルルが、スープの湯気を見つめながら、ぼんやりと呟いた。
「アル・ヴェリアって、神様じゃなかったのかな」
誰も、答えられなかった。
部屋の温度が一段階下がったような錯覚すらある。
ジンが静かにルルを覗き込んだ。「なんでそう思った?」
「なんとなく。においの感じが、なんか、神様のにおいじゃない気がして。もっと、別の……」
「神様のにおい、わかるの?」
「わかんない。でも、そんな感じがしたの」
シアはルルを見た。子供をあやすような目ではない。神聖な預言者か、あるいは未知の特異点を慎重に測定するような、緊迫した瞳。
「……その感覚、また教えてくれ。いつでも」
「うん」
重苦しい沈黙を引き裂くように、シアが言葉を継いだ。
「それと——もう一つ、カインが残した謎がある。手紙には書けなかった、碑文の写しの余白にだけ添えられた彼のメモだ」
シアが取り出したのは、カインの筆跡を慎重に写し取った一枚の紙。そこには、殴り書きのような、だが確固たる意志を持った一言が刻まれていた。
「『水と火の間』」
エリナが眉間に皺を寄せた。「水と火の間……」
「場所の記述だと思う。碑文の配置図と合わせて読むなら、残りの点のうち一つは水に近い場所、もう一つは火に関わる場所——という読み方が、できなくもない」
「水は、南西の水源と繋がりますか」
「可能性はある。だとすれば残り一点は——火に関わる場所」
ジンが「火山?」と言った。
シアが「ラングレイ周辺に火山はない」と答えた。
「火を使う場所、とかかな。鍛冶屋とか」
「……それは少し規模が違う気がするが」
「かまど?」
「もっと規模が違う」
エリナが手帳を開いた。「ラングレイの周辺で、火に関連する地名や記録がないか、調べてみます。古い地図と照らし合わせれば、何か出るかもしれない」
「頼む」
ジンが「とりあえず、南西の水源に行ってみる?」と言った。
「雨が止んでからだ」
「今日止まないかな」
「わからない」
「じゃあ今日は何する」
シアは少し考えた。
「……カインへの返事を書く」
それだけ言って、席を立った。
ジンは「そっか」と言った。それだけだった。
エリナがジンに小声で言った。「手紙、出すことにしたんですね」
「みたい」
「……良かったです」
「うん」
ルルがジンの耳に口を近づけて、小声で言った。「シア、泣いてた?」
ジンも小声で「泣いてないと思う」と答えた。
「顔が、ちょっとだけいつもと違った」
「そうかもしれない」
「いつもと違う顔の方が、好き」
「俺も」
ルルがにこっとした。
―――
夜、シアは便箋に向かった。
前回より少し時間がかかった。何を書くべきか、ということよりも、何を書いてもいいか、ということを考えていた。
最終的に書いたのは、こうだ。
カイン。
神語の件、助かった。
続きの解析を頼む。
それと——パーティを出た理由は、いつか話す。
かもしれない。
シア
短すぎると思ったが、それ以上は書けなかった。
封をして、机の端に置いた。
窓の外では、雨がまだ続いていた。でも、昨日より少しだけ、音が柔らかかった。
それで今夜は十分だ、とシアは思った。
——その感覚が、少し前まで自分には縁のないものだと思っていたことに、気づいた。気づいて、少しだけ気に食わなかった。
でも否定できなかった。
―――
— 第9話・了 —
次話予告:翌朝、雨は上がっていた。南西の水源へ向かう四人。だが、その場所に先に足を踏み入れていた人間がいた——白い法衣の影が、草の上に残っていた。
応援ありがとうございます!
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夜更かしのお供に、ぜひそちらも読みに来てください!




