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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第一章「辺境から始まる話」

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第10話「水の跡と、先回りされた朝」

 雨は夜のうちに上がっていた。


 ラングレイの石畳は朝の光を吸って、乾きかけの黒から灰色へ、灰色から白へと変わっていく。その変わり目の色を、ジンは宿の窓から眺めていた。別に何かを考えていたわけではない。ただ、眺めていた。


「起きてる」


 背後でルルの声がした。振り返ると、毛布を半分引きずったままルルが立っていた。


「起きてる」


「おなかすいた」


「わかった」


  ―――


 朝食のあと、四人はギルドに集まった。


 エリナが地図を広げた。昨日と同じ地図だが、南西の方角に新しく印がついている。昨夜、エリナが古い農業台帳と照らし合わせて書き加えたものだった。


「ラングレイから南西に、徒歩で三時間ほど。森を抜けた先に、旧ベイラ水源があります。百五十年前まで使われていた灌漑用の水源で、今は管理する者がいない」


「川?」とジンが聞いた。


「湧水です。岩盤から直接湧き出ている。昔は農業用水路に繋がっていたようですが、水路は埋まっています。今残っているのは、湧水池と石組みの囲いだけ」


「行けそう?」


「地形的には問題ありません。ただ——」エリナが少し間を置いた。「昨日もう一つ、調べていたことがあります」


「何」


「ギルドの記録で、その周辺に立ち入りの履歴がないかを確認しました。通常、無人地帯への入場は届け出不要です。ただ、教会関係者が動いた場合、王室経由で事後報告が入ることがある」


「入ってた?」


「——昨日付けで、一件」


 部屋の空気が、少しだけ変わった。


「教会、か」とシアが言った。


「名義はわかりません。ただ、申請の書式が特別教令部のものと一致します」


 ジンは地図を見た。南西の印を、少し見た。


「先に行かれた」


「可能性は高い」


「でも、行く」


「もちろんです」エリナは地図を折り畳んだ。「だから調べました」


  ―――


 森を抜けるのに二時間かかった。


 昨夜の雨で足元が柔らかく、踏み跡のない場所は滑りやすかった。ルルは平気な顔で先を歩いていたが、エリナが一度だけ足を取られてジンに支えてもらった。シアは無言で、ほとんど足音を立てずについてきた。


「においする?」とジンがルルに聞いた。


「うん。昨日より近い」ルルは鼻をひくひくさせた。「あと——別のにおいもする」


「別の?」


「人のにおい。最近、ここ通った人」


 シアが歩きながら言った。「セレクか、その配下か」


「わかんない。でも——今はいない。通っていったにおい」


「先に来て、戻った」


「たぶん」


 シアは足を止めずに言った。「何かを確認したんだろう。あるいは、何かを置いていったか」


「置いていった?」


「封印の点を、何らかの形で操作した可能性がある。——あるいは、私たちが来るのを待ってから動く気かもしれない」


 ジンは森の中を見た。木々の間から差し込む光が、湿った空気にぼんやりと散っている。人の気配はない。鳥の声だけがある。


「どっちだと思う?」


「わからない」とシアが言った。珍しく素直に。「だから、慎重に行く」


  ―――


 旧ベイラ水源は、森を出た先の小さな窪地にあった。


 岩盤が露出した地形の中央に、石組みで囲まれた水面がある。直径にして五メートルほどの円形。水は澄んでいて、底の石がはっきりと見えた。周囲の草はよく育っており、百五十年の放置の結果、石組みの半分は草に飲み込まれている。


 水面は静かだった。


 風が来ても、波一つ立たなかった。


「……静かすぎる」とエリナが言った。


「魔力が、安定してるんだと思う」とルルが答えた。「廃教会のところより、ずっと穏やか。眠ってる感じ」


「眠ってる、か」


「うん。でも——」ルルは石組みの縁に近づいた。「ここも封印の点だよ。においが、ちゃんとする」


 シアが水源の周囲をゆっくり歩いた。草をかき分けながら、石組みの外側を確認している。


「足跡がある」


 全員が見た。石組みの北側、湿った地面に、明確な靴底の跡が残っていた。複数ではない。一人分。サイズは大きめだった。


「いつ頃?」


「昨日の雨の後だ。雨上がりに来ている」エリナが屈んで跡を見た。「深さからすると、それほど重い荷物は持っていない。あるいは、もともと体重が軽い人物」


「セレクは?」とジンが聞いた。


「背が高い印象でしたから、足も大きいかもしれません。一致しないとは言えない」


 シアが石組みの北側で立ち止まった。


「——ここだ」


 草をかき分けた先、石組みの外壁に、何かが彫られていた。廃教会の壁に刻まれていたものと、同じ系統の文字。ただしこちらは量が少ない。五行か六行。


「ルル」


 ルルが近づいた。文字を見た。見るというより——例によって、吸い込まれるような目で、何かを受け取っている。


 しばらく経って、口を開いた。


「……水は、覚えてる」


「覚えてる?」


「流れた道のこと。通り過ぎたもののこと。ここに書いてあるのは、それ。水が、ぜんぶ覚えてるって」


「封印の言葉?」


「封印の、説明みたいなやつ。ここは水の記憶を使って封印を安定させてる。水が流れ続ける限り、封印は揺れない——って書いてある」


「水が止まったら?」とジンが聞いた。


 ルルは少し考えた。


「封印が、弱くなる」


 静寂。


 エリナが静かに言った。「——つまり、水源を干上がらせれば、封印の一点を無力化できる」


「そういうことになる」とシアが答えた。「セレクが来たとすれば、それを確認しに来た可能性が高い」


「確認だけ、かな」とジンが言った。


「まだ動いていないとすれば、確認だ。既に何か仕掛けていれば——別の話になる」


 ジンは水面を見た。静かな水面が、薄い空の色を映している。青、というより白に近い、初夏の空の色だった。


「どうする?」


「水源に何か細工が施されていないかを確認する。それから、廃教会の台座に刻まれていた配置図と照らし合わせる」シアは文字の近くに腰を下ろした。「エリナ、書き写せるか」


「もちろんです」エリナが羊皮紙を取り出した。


  ―――


 書き写しに一時間ほどかかった。


 その間、ジンは水源の周囲を歩いていた。別に何かを探していたわけではない。ただ、じっとしているのが苦手だった。ルルは石組みの縁に腰かけて、水面を覗いていた。


「ジン」


「何」


「この水、ずっとここにあったんだね」


「そうだね」


「百五十年、誰も使わなくても、湧き続けてたんだ」


「うん」


 ルルは足をぶらぶらさせた。石組みの端から、つま先が水面の直上まで届いている。


「えらいね」


「水が?」


「うん。忘れられてても、ちゃんとここにいる」


 ジンは少し考えた。


「そういう見方はしたことなかった」


「そう?」


「水が偉いとか、思わなかった」


「ジンは、そういうの考えなさそう」


「そう?」


「うん」ルルはにこっとした。「でも、ジンが偉くないわけじゃないよ」


「どういう意味」


「なんとなく」


 ジンは「なんとなくばっかりだな」と言った。ルルは「えへへ」と笑った。


  ―――


 シアが石組みの底に手を当てた。魔力を流す。何も変化しない。


 続けて、水面の中央に向かって、ほんの微量の魔力を送り込んだ。


 波紋が広がった。


 普通の波紋ではなかった。水面から薄く光が滲み出て、一瞬だけ、石組みの縁に沿って文字のようなものが浮かんだ。廃教会の壁で見た——魔力を流した時に現れる、隠された文字と同じ種類のもの。


「——ある」シアの声がわずかに強くなった。「ここにも、隠された文字がある」


「読める?」とエリナが聞いた。


「私には難しい。ルル」


 ルルが石組みの縁から降りた。水面に近づいて、光の文字を見た。


 シアが魔力を保ちながら、ルルが受け取るのを待った。


「……ここに書いてあるのは」ルルがゆっくり言った。「『五つの眠りは、一つを知ることで目覚める』」


「一つを知ることで」


「うん。あと——」ルルは目を細めた。「『水は道を知っている。道を問え』」


 シアが魔力を止めた。光が消えた。水面が元の静けさに戻った。


「道を問う、というのは」エリナが言った。


「わからない。ただ——」シアは少し考えた。「廃教会の台座には配置図があった。水は道を知っている、という言葉が封印の情報として書かれているなら——この水源が、残りの点への道標になっている可能性がある」


「水が示す方向に、次の点がある?」


「……あくまで推測だが」


「でも」とジンが言った。「道を問え、って書いてあるんなら、聞いてみたらいいんじゃない?」


 シアが「どうやって」と言った。


「わかんない。でも書いてあるんだから、聞き方があるんじゃない?」


「その聞き方が書いてあるから困っている」


「そっか」


 ルルが「ジンが聞いてみたら」と言った。


「俺が?」


「うん。ジン、重さを知る者じゃん」


「それと水に聞くのに関係ある?」


「わかんない。でも、においがする。ジンがここに触ったら、何かが変わる感じ」


 シアが目を細めた。ジンを見た。


「……試してみるか」


「良いの?」


「ルルの感覚は、今まで外れたことがない」


 ジンは水源の縁に近づいた。石組みに手を当てた。何も考えずに。


 変化はすぐに起きた。


 水面が、ほんの少しだけ——揺れた。風もないのに。光もなかった。ただ、水が一方向に、かすかに流れるような動きをした。北東の方向へ。


 それだけだった。


「北東」とシアが言った。


「廃教会も北東にあります」とエリナが言った。


「廃教会とは別の何かか、あるいは廃教会を経由した先か」


「どっちかな」とジンが言った。


「わからない。だが——手がかりが一つ増えた」


 ジンは石組みから手を離した。水面が、また静かになった。


  ―――


 帰り道、森の入口でエリナが立ち止まった。


「一つ、確認させてください」


 三人が振り返った。


「セレクが水源を確認しに来たとして——今日、私たちがここに来たことも、おそらく伝わります。教会は私たちの動きを把握しようとしている。そうなると、次に私たちが動く前に、先手を打ってくる可能性がある」


「先手、というのは」とシアが言った。


「ギルドへの干渉が次の段階に進む、ということです。今は活動履歴の開示請求でしたが、次は——ジンさんへの直接的な接触の要請か、あるいは、ギルドの管理下からジンさんを外すよう求めてくるか」


「管理下から外す、って何」とジンが聞いた。


「教会が独自に、ジンさんを管理対象に指定する、ということです。それが通れば、ギルドのFランク登録は形式上残っても、実質的に教会の監視下に置かれることになる」


「そんなことできるの」


「王室経由なら——できます。私が抵抗できる範囲を超えます」


 誰も何も言わなかった。


 ジンは少し考えた。考えながら、森の入口の木を見た。葉が雨上がりの光を受けて、緑が濃くなっている。


「……でも、今はまだそうなってないんでしょ」


「今は、です」


「だったら、今のうちに残りの点を探す方がいいかな」


「そうなります」


「なら」ジンは森の方を向いた。「急ぎすぎず、でも止まらず、かな」


 シアが「珍しくまともなことを言う」と言った。


「ほめてる?」


「まあ、そうだ」


 ジンは「たまにはね」と言って歩き出した。ルルがその後ろについた。エリナとシアがそれを見て、同じ方向へ歩き始めた。


  ―――


 ラングレイに戻ったのは、昼過ぎだった。


 ギルドに入ると、エリナの後輩の受付担当が「エリナさん、伝言があります」と言った。


「誰から?」


「教会の方です。セレク・ヴァイン様から、明日の昼に再び面会を求めたいとのことです。場所は、ギルドの応接室で」


 エリナの表情は変わらなかった。


「……わかりました。対応します」


 後輩が引っ込んでから、エリナは小部屋に入った。四人が揃ったところで、静かに言った。


「明日、動きます」


「セレクと話す、ってこと?」とジンが聞いた。


「そうです。一対一で話す機会があるなら、使わない手はない。——ジンさんは、私の後ろにいてください。発言は最小限に」


「俺が?」


「あなたが余計なことを言うと、状況が予測不能になります」


「そっか」


「そっか、ではありません」


 シアが腕を組んだ。「私も同席する」


「構いません。ただ——シアさんは、セレクと個人的な因縁がある。それを利用される可能性がある」


「わかっている。だから、今回は後ろにいる」


 ルルが「ルルは?」と聞いた。


「ルルさんには——においを教えてほしいんです」とエリナが言った。「セレクが何を決めてきたか、前回のように感じ取れれば、対応を変えられる」


「できる」


「よかった。頼みます」


 エリナは手帳を開いた。今日確認したことを書き留めている。書きながら、一度だけ目を上げてジンを見た。


 ジンは何も言わなかった。ただ、「任せる」というような顔をしていた。言葉ではない。でもエリナには伝わった。


  ―――


 夜、シアは部屋でカインへの二通目の手紙を書いた。


 今日わかった事実を簡潔に文字に起こしていく。「水は道を知っている」という文言。ジンが石組みに触れた時の、あの異常な水の揺らぎ。北東という方位。


 ペンを握る指を少し止めた。迷ってから、もう一行加えた。


  水が揺れた方向に、封印の答えがある気がしている。


  だが、俺にはまだわからない。


  お前ならわかるか?


 地文に書かれた「俺」という文字を見て、シアの唇がかすかに緩んだ。

 少女でありながら、男だらけの勇者パーティで対等に肩を並べるために、カインたちの前で虚勢を張って使っていた一人称。その古い癖が、彼宛の手紙を書く時だけは今でも無意識に這い出てくる。


 丁寧に封をした。


 窓の外を見た。今夜は星が出ている。雨上がりの空は洗われていて、星がいつもより多く見えた。


(明日、セレクが何を言ってくるか)


 わからない。でも、エリナが対応する。


 シアは自分が、それをほとんど信頼していることに気づいた。最初の頃は、エリナのことをただの受付担当だと思っていた。今は違う。それがいつから変わったのか、明確には言えない。


 気づいたら、そうなっていた。


 それが少し、不思議だった。悪くはなかった。


  ―――


 同じ夜、別の場所で。


 セレク・ヴァインは宿の部屋に一人でいた。


 机の上に、今日書き写してきた文字の写しが広げられている。旧ベイラ水源の石組みに刻まれていた古代語。自分では解読できないが、教会の古文書庫に持ち込めば読める者がいる。


 問題は、持ち込む時間があるかどうかだ。


 セレクは写しを見た。見ながら、今日の水源での記憶を辿った。


 石組みに近づいた時——かすかに何かを感じた。魔力の揺らぎ。封印の点が、何かに反応したような。


 だが、自分が触れる前から、それはあった。


 (誰かが、先に来ていたのか)


 足跡を確認していないのは失敗だった。急いでいたからだ。今となっては、手がかりがない。


 セレクは写しを折り畳んだ。


 明日、ギルドでエリナ・フォルスと話す。彼女は賢い女だ。単純な圧力では動かない。だから、別の言い方をしなければならない。


 ——「選択肢を与える」という形で。


 それが今の段階での最善だと、セレクは判断していた。


 感情は、その判断に関与しなかった。


  ―――


 翌朝。


 ジンが一階に下りると、シアとエリナがすでにいた。二人とも何かを話していて、ジンが来ると少し止まった。


「何の話?」


「明日の確認です」とエリナが言った。


「今日じゃないの?」


「今日です。今日の昼、です」エリナが訂正した。「明日と言いそうになっていました。緊張しているのかもしれません」


「エリナが緊張するの、珍しい」


「珍しくありません。していないように見えるだけです」


「そうなんだ」


 シアが「お前はいつも通りでいろ」と言った。


「いつも通りって」


「余計なことを言わず、でも動じずにいろということだ」


「難しいな」


「お前には、それが一番自然だ」


 ジンはスープを一口飲んだ。


「……シア、不安?」


 シアが少し止まった。それからパンを千切った。


「不安、というより」少し間があった。「エリナが正面に立つのを、後ろから見ているのは、慣れていない」


「そっか」


「普段は自分が前に出る。だから」


「シアが前に出て、エリナが後ろにいる感じが、普通なんだ」


「……そうなっていたらしい。気づかないうちに」


 エリナがスープを飲みながら、少しだけ表情を和らげた。それに気づいたのはジンだけだった。


 二階から「ジン〜おなかすいた〜」という声がして、小さな足音が降りてきた。


 それで今日も、始まった。


  ―――


— 第10話・了 —


次話予告:正午、ギルドの応接室にセレク・ヴァインが現れた。エリナは静かに、しかし一歩も引かずに向き合う。セレクが口にした「選択肢」とは——そして、その言葉の裏を、ルルが鋭く嗅ぎ取る。



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