第8話「術者の名前と、届かない手紙」
『無詠唱の魔王』本日3話目の更新です!(朝8時、13時分もあります!)
休日の夕方のひとときに、ぜひお楽しみください。
鑑定士から呼び出しがあったのは、廃教会の探索から戻って三日後のことだった。
エリナが書き写してきた壁の文字——廃教会の石壁一面に刻まれていた、あの碑文。ラングレイで唯一の古代語鑑定士、レウス・ダーリンのもとに持ち込んだのが四日前。「少し時間をくれ」と言われ、待っていた。
ギルドの奥の小部屋。今日は四人全員が揃っている。
レウスは六十がらみの白髪の老人で、常に分厚い眼鏡をかけている。初めて会った時、ジンは「魔法使いより魔法使いっぽい」と思った。今日もその印象は変わらない。老人は手書きのメモをテーブルに広げ、眼鏡の奥の目を細めながら、全員を見回した。
「解読できたのは、全体の三割ほどです。残りは——正直、私の手に負えなかった」
エリナが先を促す。「わかった部分を教えてください」
「まず、石板と壁の碑文は同じ系統です。間違いない。ただ、石板は短い。あちらは『標識』のようなもの——誰かに気づかせるためだけに作られた。本文はすべて、壁の方にあります」
「本文」とシアが繰り返した。
「封印術の記録、と言えばいいでしょうか。何を封じたか、なぜ封じたか、どうすれば解けるか。そういった情報が書いてある。ただ——」レウスは少し間を置いた。「そのほとんどが、私には読めなかった」
沈黙。
「読めた部分は?」とジンが聞いた。
「二点。一つは、封印の術者の名前です」
全員の目が、老人に向いた。
「アル・ヴェリア」
レウスは、その古びた名前を慈しむように呟いた。
「それが、その術者の名前です。——おそらく人名ですが、この名前に心当たりのある方は?」
静寂が、小部屋を支配する。
ジンはエリナを見た。エリナはシアを見た。
シアが、掠れた声でその名をなぞった。
「……アル、ヴェリア」
銀髪の隙間からのぞく横顔が、まるで遠い過去の遺物でも見つめるように、かすかに強張っていた。
「知らない。だが——」シアは声を落とした。「アルヴェリアという名は、聞いたことがある」
「どこで」
「大陸の名前だ。アルヴェリア大陸——この世界の名。それと同じ読みだ」
誰も何も言わなかった。
「もう一点は?」とエリナが静かに聞いた。
「封印の目的です。一行だけ、はっきりと読み取れた文がありました」レウスはメモを指で押さえた。
「——『世界が自ら壊れるのを、少しだけ遅らせるために』」
また、沈黙。今度は少し長い。
ルルがジンの袖を引いた。ジンは特に何も言わなかった。ただ、石板の置かれたテーブルの端をぼんやりと見ていた。
「……世界が壊れる、とは」エリナが言葉を選んだ。「比喩的な表現でしょうか」
「それが私にも判断できない。ただ——」レウスは眼鏡を押し上げた。「この文章を書いた者は、冗談や誇張でこれを書いたわけではないと思う。文体が、そういう書き方ではない。淡々と事実を述べている筆致です」
「四百年以上前に書かれたものが、今も残っている理由がわかった気がします」とエリナが言った。「伝えたかったんだ、誰かに」
「重さを知る者へ、でしたね」
エリナが頷いた。
レウスは全員を見回してから、少し申し訳なさそうに言った。
「これ以上のことは、私には無理です。残りの七割を解読するには、大陸東部の専門機関か——あるいは、教会の古文書庫しかない」
その言葉が、室内に静かに落ちた。
―――
ギルドを出て、四人は街の中を歩いた。特に行き先を決めていたわけではなかった。ルルが「おなかすいた」と言ったので、屋台通りの方へ足が向いていた。
シアが、歩きながら口を開いた。
「アル・ヴェリア。大陸と同じ名を持つ術者が、四百年以上前に何かを封じた。『世界が壊れるのを遅らせるために』」
「でかい話だね」とジンが言った。
「でかすぎる」
「でも飯は食える」
「……お前の優先順位は本当に一貫している」
エリナが隣を歩きながら、手帳に何かを書き留めていた。歩きながらメモを取るのはエリナの癖で、ジンはそれを三日前に気づいていた。
「一つ確認させてください」エリナが手帳から顔を上げた。「封印の古文書庫が教会にある、という話——セレク・ヴァインはそれを知っている可能性があります」
「当然知っているだろう」とシアが言った。「特別教令部の人間なら、古文書庫へのアクセス権を持っているはずだ」
「つまり——私たちが廃教会で見たものを、教会はすでに知っている可能性がある?」
「可能性はある。私たちが廃教会に行ったことも、セレクに伝わっていたかもしれない」
ジンは少し考えた。
「だったら、向こうも動くかな」
「動かなかったら、むしろ怖い」
エリナがため息をついた。「どちらにしても怖い、という状況ですね」
ルルが立ち止まって振り返った。
「ジン」
「何」
「うしろ」
ジンが振り返った。エリナとシアも振り返った。
通りの人混みの中、白い法衣が見えた。
―――
セレク・ヴァインは、いつもの穏やかな笑顔で立っていた。従者を連れず、一人で。
「偶然ですね」
偶然ではない、とジンも思った。シアの目が細くなったのもわかった。エリナが一歩だけ、さりげなくジンの前に出た。
「何かご用ですか」エリナの声は平静だった。ギルド受付の声だ、とジンは思った。仕事の声。
「いいえ、少し立ち話ができればと思って。ほんの少しだけ」セレクの目は動かない。「ジンさん、昨日は廃教会に行かれたとか」
「そうですね」
「どうでしたか」
「古かった」
セレクが、微かに笑んだ。目ではなく、口元だけで。
「確かに。あそこは古い場所です。ラングレイよりずっと古い」
ジンは相手を見た。何かを探してというわけではない。ただ、見た。
「セレクさんも行ったことありますか、廃教会」
「何度か。ずいぶん昔に」セレクは一拍置いた。「あの場所のことは、教会もよく知っています。起点の祠——そう呼んでいた時代もあった」
シアの指先が、かすかに白くなった。ジンにはわかった。わかったが、何も言わなかった。
「ジンさん」セレクが続けた。「一つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは——封印を、解くつもりがありますか?」
通りの喧騒が、少し遠くなった気がした。
ジンは少し考えた。本当に考えた。
「わかんないです。まだ、何が封じられてるかよくわかってないから」
「わかったら?」
「その時また考えます」
セレクの笑顔が、一拍だけ止まった。それから戻った。
「そうですか」
男は会釈して、来た方向へ戻っていく。人混みの中に、白い法衣が溶けていく。
四人は無言でそれを見送った。
ルルが「こわかった」と言った。
「怖かった?」とジンが聞いた。
「さっきのにおい。前みたいな変な感じじゃなくて——今日は、もっと強かった。何かを決めてきた人のにおい」
シアが低い声で言った。
「……動いた、ということだ」
―――
屋台通りで焼き串と温かいスープを買い、四人は広場の端の石段に座った。
ルルはもう串を二本食べ終えていた。ジンは一本目の途中で、スープを飲みながらぼんやりしていた。エリナは手帳を膝に置いて、食べながらも何かを考えている様子だった。シアだけが食べ物に手をつけず、空を見ていた。
「シア」とジンが言った。
「何だ」
「食べないの?」
シアは視線を下ろして、スープに手を伸ばした。それだけだった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
エリナが口を開いた。
「セレクが動いたとすれば、次は何をしてくると思いますか」
「封印に干渉しようとするか、ジンさんを動けなくしようとするか——どちらかだと思います。前者なら、残りの点を先に押さえにくる。後者なら、ギルドか王国への働きかけがある」
「ギルドに、教会が干渉できますか」
「通常はできません。ただ——特別教令部は、通常の教会組織とは別です。直接王室と繋がっているという話もある。もしそのルートを使われると、私のレベルでは対処できない」
エリナの声は静かだったが、その言葉の重さをジンはちゃんと受け取った。
「エリナが困ることになる、ってこと?」
「可能性はあります。私はジンさんの登録を処理した受付担当ですから」
ジンはスープを一口飲んだ。それから焼き串を半分食べた。
「……ごめん」
「謝らなくていいです」エリナがきっぱりと言った。「私が選んでやっていることです」
「でも」
「でも、ない。——それより」エリナが手帳を開いた。「残り三つの封印の点を探す手段を考えましょう。廃教会の台座に刻まれていた配置図を、もう少し詳しく解析できれば、場所の見当がつくかもしれない」
シアがスープから顔を上げた。
「配置図には、点の位置だけではなく、距離を示すような記号もあった。ラングレイを中心に、それぞれ何らかの方位と距離で示されているなら——逆算できるかもしれない」
「計算できる?」
「理論上は。ただ、記号の意味を正確に読む必要がある。レウス老師に再度頼むか、あるいは——」シアは少し黙った。「別の方法がある」
「別の方法?」
シアが、少し迷うような顔をした。珍しい顔だ、とジンは思った。シアが迷うのを見るのは、初めてかもしれない。
「——手紙を、出せるかもしれない」
「誰に」
シアは答える前に一度、空を見た。
「勇者パーティにいた頃、一緒だった人間がいる。今は魔法研究の仕事をしているはずだ。古代語の解析に長けている——私よりも、ずっと」
エリナが静かに聞いた。「連絡できますか」
「……届くかどうかはわからない。居場所が変わっているかもしれないし、返事が来るかどうかも」
「送る価値はありますか」
シアは少し考えた。
「ある。と思う」
それだけ言って、またスープを飲んだ。それ以上は話さなかった。ジンも、それ以上は聞かなかった。
ルルが焼き串の三本目をじっと見つめながら言った。
「アル・ヴェリアって、どんな人だったのかな」
誰かが答えるかと思ったが、誰も答えなかった。
ジンがぽつりと言った。
「四百年以上前に、何かを守ろうとした人」
「守れたのかな」
「わからない。でも——石板は残ってた。手紙みたいに」
ルルが少し、首を傾げた。「手紙?」
「届かないかもしれなかったのに、書いた。届かなくてもいいから書いた、みたいな感じがする」
シアが横目でジンを見た。何も言わなかった。エリナも何も言わなかった。
ルルだけが「そっかあ」とのんびりした声で言い、四本目の焼き串に手を伸ばした。
届かなくても、いいから書いた。
その言葉の余韻が、夜の帳が下りるまで、シアの頭から離れなかった。
―――
しん、と静まり返った宿の一室。
月明かりが落ちる机の前で、シアは静かに便箋を取り出した。
送る相手の名前を、頭の中で確認する。勇者パーティを出てから、一度も連絡していなかった。向こうも同じはずだ。それが選んだことだったから。
だが——状況が変わった。
ペンを取って、書き始めた。簡潔に。必要なことだけを。古代語の解析の依頼、廃教会の碑文の写し、返事のための住所。個人的なことは何も書かなかった。今の自分にそんな言葉を書く資格があるか、わからなかったから。
書き終えて、封をした。
届くかどうかはわからない。返事が来るかどうかも。
でも——書いた。
シアは窓の外を見た。夜のラングレイは静かだった。街灯の光が石畳に落ちている。
(届かなくてもいいから書いた、か)
ジンの言葉が、頭の中で静かに反響した。あれは術者への言葉だったはずだが、なぜか今の自分のことのように聞こえた。
それが少し、気に食わなかった。
でも否定できなかった。
―――
翌朝、ジンが一階に下りると、シアがすでに食堂にいた。珍しいことに、珍しくない顔でパンを食べていた。
「早い」
「お前が遅い」
「ルルは?」
「まだ寝ている」
ジンは向かいの席に座った。給仕にスープとパンを頼む。
しばらく、特に何も話さなかった。
「手紙、出せそう?」
シアが少しだけ動きを止めた。それからまたパンを千切った。
「今朝、ギルドの伝令便に預けた」
「そっか」
「届かなくても怒るな」
「怒んないよ」
シアはパンを口に入れた。嚥み込んで、少し間を置いた。
「……届くといいが、な」
自分でもそう思っているとは言わなかったが、言ったのと同じだった。
ジンはスープをひと口飲んだ。
「うまい」
「今日も同じ感想か」
「うまいものはうまい」
シアは何も言わなかった。でも、口元がほんの少しだけ、動いた。
二階から「ジン〜、おなかすいた〜」という声がして、続いて小さな足音が階段を下りてきた。
それで今朝も、始まった。
―――
— 第8話・了 —
次話予告:シアの手紙が、思わぬ速さで届いた。返事の筆跡を見た瞬間、シアの表情が初めて大きく揺れた。——かつての仲間の名は、カイン・セルフォード。そして彼が書いてきた一文は、封印の謎だけではなく、シアの過去そのものに触れるものだった。
お読みいただきありがとうございました!
いよいよ本日ラストの4話目は、このあと【19時】に公開予定です。
一気に駆け抜けますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです!




