第7話「廃教会と、眠れない石」
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次は夕方の【16時】に3話目を公開します。
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エリナが地図の上にある一点を指したのは、セレク・ヴァインが広場を去って一時間ほどが経ったあとのことだった。
ギルドのカウンターに広げられた羊皮紙の地図。ラングレイの街と、その周辺の地形が描かれている。エリナの指が止まった場所は、街の北東、森の手前の小高い丘の上だった。
「ここに、廃教会があります」
エリナが静かに言った。
「ラングレイの建設以前から存在する、誰も管理していない場所です。建設年はわかっていません。百年前の地図にもすでに廃墟として載っていて、それ以上の記録がない」
「廃教会」とジンが繰り返した。
「石板の鑑定士が言っていました。『原始魔法言語に近似した記号が使われている』と。その記号の系統に近い碑文が、廃教会に残っているという話が、古い資料に一件だけある。私が調べた限りでは、それだけの情報です」
シアが地図を覗き込んだ。
「森の入口に近い。ラングレイからなら、歩いて半日か」
「そうなります」
「行く必要があるの?」とジンが聞いた。特に嫌がっている声ではなく、純粋に確認している声だった。
「……行かなくてもいい可能性もあります」とエリナは言った。「ただ——石板が封印の起点なら、その封印と同系統の碑文がある場所は、何かを知っている可能性がある。セレク・ヴァインがラングレイに来た理由がジンさんだけだとしても、石板の件を知っていた。石板と廃教会が繋がっているなら、教会もいずれそこへ向かうかもしれない」
エリナはジンを見た。
「先に行く意味がある、と私は思います」
ルルがジンの袖を引いた。
「行きたい」
「なんで」
「なんか、呼ばれてる気がする」
シアの目が細くなった。
「呼ばれてる、というのは」
「石板と同じ感じ。あのにおい。遠くから、うっすらしてる」
誰も何も言わなかった。ルルの言葉を否定する理由が、誰にもなかった。
「……わかった」とジンが言った。「明日、行こう」
「明日?」とエリナが聞いた。
「今日はもう昼過ぎてるから」
「それはそうですが……」
「それに腹が減った」
エリナはため息をついた。シアは何も言わなかったが、地図から視線を外した。その目が、ほんの一瞬だけ地図の外——北の方角へ向いたのを、ジンは見ていた。見ていたが、何も言わなかった。
―――
夜、シアは宿の部屋の机に向かって、紙に何かを書いていた。
勇者パーティにいた頃に使っていた暗号文字。今では自分しか読めない。
書いていたのは、記憶だった。
廃教会という言葉を聞いた瞬間、五年前のことが浮かんだ。当時、まだ勇者パーティに在籍していた頃——その名を、シアは一度だけ聞いたことがある。
「ラングレイ北東の廃教会は、『起点の祠』と呼ばれる場所だ」
あれは誰の言葉だったか。教会の上層部。名前は出なかった。ただ、声を潜めて語っていた。「封印が目覚める前に、管理を強化せねばならない」と。
当時のシアは、それを聞き流していた。自分には関係のない話だと思っていた。
だが今は——
(ザルヴァ)
あの名が、頭の奥で静かに反響する。
シアは紙を折り畳んで、上着のポケットに入れた。
ジンには、まだ言わない。言うべき時を、間違えたくなかった。
―――
翌朝、四人はラングレイの北門を出た。
空は薄曇り。遠くで鳥が鳴いた。街道を外れて草原を進むと、やがて森の縁に沿った踏み跡に変わる。地図通りに進めば、丘の上に出るはずだった。
「エリナも来たの?」とジンが聞いた。
「窓口の仕事は午後からです。それに——」エリナは少し言いよどんだ。「なんとなく、行くべきだと思いました」
「なんとなく」
「あなたに言われたくありません、その言葉は」
「そっか」
ルルが先を歩いていた。踏み跡もないような草の中を、迷わず進んでいく。
「ルル、道わかる?」
「においがする方に行けばいいから」
「においで道案内できるの、便利だな」
「えへへ」
シアが低い声で言った。「……あの子が言う『におい』が何なのか、私はまだわかっていない」
「魔法的な感知じゃないの?」
「そうじゃない。魔力の感知なら私にもできる。だがルルのそれは、術式を通していない。概念として、直接、世界を読んでいるような——」シアは言葉を切った。「言語化できない」
「むずかしいね」
「お前が言うな」
歩くこと一時間。
森の入口、小高い丘の上に佇むのは——時を忘れたような、廃教会。
石造りの建物はひどく古びており、かつて白かったはずの壁は苔と風雨に晒されて灰色になっている。尖った屋根の一部は崩れ落ち、内側の骨格が空に向かって剥き出しだ。扉だけは残っているが、蝶番が外れかかって斜めに傾く。
人の気配は、一切ない。踏みしめる草の音だけが、不気味なほど鮮明に響いた。
「古い」とジンが言った。
「当然だ」とシアが言った。「百年前に廃墟と書かれていた場所だぞ」
「もっと前からあったんだよね」
「石板と同系統なら、四百年以上前かもしれない。もしかしたらもっと前の可能性もある」
ルルが扉の前で立ち止まっていた。
「ルル?」
「……ここ。においがすごく強い」ルルの声は、いつもと少し違った。小さくて、どこか遠い声だった。
「さっきまで遠くからしてたやつが、ここから全部出てる」
「中に入れる?」
「入れる。でも——」ルルは少し考えた。「中に、何かが眠ってる」
「何か、っていうのは」
「わかんない。人じゃないし、魔獣でもない。もっと、ふるいもの」
シアが静かに杖を構えた。詠唱なし、一瞬で光球を展開する。
「行く」
「待って」とエリナが言った。「一応、確認させてください。中が安全かどうか——」
「安全ではないかもしれない」とシアが答えた。「だが、今行かなければ教会に先を越される。その方がもっと良くない」
エリナは短く息を吸い、頷いた。
「……わかりました。私も入ります」
―――
廃教会の内部は、外から想像するより広かった。
崩れた天井から薄い光が差し込む。床は石畳で、中央に向かって緩く傾斜している。正面に祭壇の台座が残っているが、その上には何もない。かつてここに置かれていたものは、何かによって綺麗に取り除かれていた。
「綺麗に消えてる」とジンが言った。
「誰かが持ち出したんでしょう」とエリナが答えた。「いつかはわからないけれど」
シアは壁を見ていた。
左側の壁、石の表面に、彫り込まれた文字がある。苔に埋もれかけているが、近づくと読み取れた。
「——これだ」
シアが指でなぞった。地下水路の石板で見た文字体系と同じ系統。だがこちらの方が量が多い。壁一面に、びっしりと。
「ルル」とシアが呼んだ。「読めるか」
ルルが近づいた。壁の前に立って、じっと見る。いや、見るというより——吸い込まれるような目で、文字を通して何かを受け取っている、という感じだった。
しばらく経って、ルルが口を開いた。
「……ここに書いてあるのは、『封印の名前』みたいなやつ」
「封印の名前」
「封印されてるものの名前じゃなくて——封印した人の名前。ここを作った人が、誰かに宛てて書いたやつ」
「誰に宛てた?」
ルルは少し考えた。
「『重さを知る者へ』って書いてある。あと——」
ルルの声がわずかに変わった。
「『忘れないでいてほしい。ここに眠るものは、滅びを望んでいない』」
誰も声を出さなかった。
ジンが「そっか」とだけ言った。
「そっかで終わるな」とシアが言った。強く言ったわけではなかった。
「でも、そっかだよ」ジンはもう一度言った。「滅びを望んでないなら、話は簡単だ。だったら俺が滅ぼさなくていいわけだから」
「単純すぎる」
「シンプルじゃない?」
「……お前の頭は本当に、余計なものが入っていないな」
「ほめてる?」
「わからない」
エリナが壁の文字を書き写し始めた。羊皮紙を取り出して、できる限りの量を。
「これを鑑定士に見せます。全部は解読できなくても、少しでも意味がわかれば——」
「エリナ、そっちも」
ジンが指差したのは、祭壇の台座の下だった。
台座の側面、ちょうど床に近い部分に、何かが彫り込まれている。小さな記号。地図のような、何かの配置図のような。
「……これは」エリナが腰を折って覗き込んだ。「座標みたいなものでしょうか。複数の点が、線で繋がっています」
シアが静かに言った。
「封印の構造だ」
「構造?」
「複数の点が繋がって、一つの封印を形成している。ここが一つの点なら、他にも点がある。石板があった地下水路も、その一つかもしれない」
エリナが書き写しを続けながら言った。
「つまり——封印は、一箇所にあるのではない」
「そうなる。複数の場所が繋がって、全体として何かを閉じ込めている」
ジンは台座の記号を見ていた。
「点がいくつある?」
「……四つ、かな」とエリナが数えた。「いや、待って。薄くて見えにくいですが——五つかもしれません」
「一つは石板のところ。一つはここ。あと三つ、どこかにある」
「ラングレイの中か、外かもわからない」
ルルが台座の前にしゃがんで、指先でそっと記号の線をなぞった。
「……ここが一番、においが強い」ルルは中央の点を指差した。「ここが、封印の中心かもしれない」
「ここが中心なら——閉じ込められているものは、ここの下にある?」
「かもしれない。でも、ルルにはわからない」
ジンが床を見た。石畳の下。その下に、何かがある。
「掘る?」
「待て」とシアが言った。「石板の言葉を思い出せ。『重さを知る者が来るまで、眠れ』——眠るように言われている。それを今、掘り返すのは」
「良くない?」
「急ぐ理由がない。今は情報を集めて、状況を理解してからにすべきだ」
ジンは少し考えた。珍しく、考えた。
「……そうだね」
「同意するのか」シアが少し驚いた顔をした。
「シアが急ぐなって言うなら、急ぐことはないかなと思って」
シアは黙った。
エリナが書き写しを終えて立ち上がった。
「帰りましょう。今日わかったことは十分すぎるくらいあります。それに——」エリナは廃教会の崩れた天井を一度見上げた。「長くいると、誰かに気づかれる可能性もある」
「セレクのこと?」
「そうとは限りません。でも、用心するに越したことはない」
―――
廃教会を後にして、草原を下りながら、ジンはルルに聞いた。
「さっき、壁に書いてあった言葉。『忘れないでいてほしい』って——誰が書いたの?」
「わかんない。でも」ルルは少し考えた。「すごく、遠い人の言葉。ずっとずっと昔に、誰かが、誰かのために書いた」
「悲しい感じがした?」
「悲しいじゃなくて、ね。もっと——」ルルは言葉を探した。「任せたい、って感じ。大事なものを、次の人に渡したいって感じ」
「次の人が、俺ってこと?」
「たぶん」
ジンはふと、空を仰いだ。ちょうど雲の切れ間から、柔らかな白い光が草の上に零れ落ちる。
「重いな」
「重い?」
「ほら、俺、重さを知る者って言われてるわけだし」
どこか他人事のように言うジンを見て、ルルがくすっと声を立てて笑った。
「でも、ジンが一番重いもの持てるから、いいんじゃない?」
「まあ、そうか」
シアが後ろから歩いてきて、二人の隣に並んだ。特に何も言わなかったが、ジンの顔をちらりと見た。
「……一つだけ言っておく」
「何」
「廃教会のことは、私も以前に聞いたことがあった。勇者パーティにいた頃、教会の上層部が『起点の祠』と呼んでいた」
ジンは特に表情を変えなかった。
「知ってたの?」
「場所を知っていたわけではない。ただ、名前だけ」シアは一拍置いた。「そして——教会がその場所を『管理すべき対象』として認識していたことも」
「だからセレクが来た?」
「わからない。だが、繋がっている可能性は高い」
エリナが羊皮紙を胸に抱えながら、静かに言った。
「教会が封印の存在を知っていて、管理しようとしているとすれば——その封印に近づいているジンさんを、観察する理由になります」
「消すためじゃなく?」
「まだ、消さないと決めているようでした。セレク・ヴァインは『まだ』と言った。それは、条件次第で変わりうるということだと思います」
誰も何も言わなかった。
ジンは少し考えた。
「……じゃあ、封印が全部解けたら、何が変わるのかを先に知りたいな。それがわかれば、教会が何を怖がってるかもわかるかもしれないし」
「その通りだ」とシアが言った。「だから、今日の書き写しを鑑定士に見せる。それが次の手だ」
「エリナ、頼める?」
「もちろんです」エリナが少し口元を緩めた。「それが私の仕事ですから」
ラングレイの北門が見えてきた頃、ルルが「おなかすいた」と言った。ジンも「俺も」と言った。シアは何も言わなかったが、足が二人と同じ方向へ向いていた。エリナがその横で、書き写した文字を見直しながら歩いていた。
廃教会に何かが眠っている。
封印は複数の点で繋がっている。
誰かが、遠い昔に、誰かに何かを託した。
わからないことはまだたくさんある。でも今日は昨日より、少しだけ多くのことがわかった。
それで今日は十分だ、とジンは思った。
―――
— 第7話・了 —
次話予告:鑑定士が壁の文字の一部を解読した。「これは封印の術者が残した意思だ——そして術者の名前が読める」。封印を作った者の正体が、少しだけ姿を現し始める。そしてセレク・ヴァインが、次の行動に出た。




