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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第一章「辺境から始まる話」

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第6話「穏やかな使者と、穏やかじゃない朝」

皆様、おはようございます!

本日お昼に更新予定だったのですが、少しでも早くお届けしたくて朝8時に前倒しで公開いたしました。


休日の朝のお供に、楽しんでいただければ幸いです!

翌朝、ジンが目を覚ますと、ルルの姿がなかった。


 ベッドの端に残る、小さなくぼみ。布団は半分ずり落ちたまま、ついさっきまでそこに誰かがいたことだけを主張していた。どこへ行ったのかという疑問が浮かぶより先に、腹が減ったという至極健康的な感覚がやってきた。


 着替えて一階に下りると、宿の食堂にルルがいた。テーブルの上に焼きたてのパンが並んでいて、ルルは両手でそれを抱えて頬張っていた。


「どこのパン」


「もらった」


「誰に」


「隣のテーブルのおじさん」


 隣のテーブルを見ると、中年の旅人が苦笑いしながらこちらに軽く手を振った。ジンも軽く頭を下げた。


「おい」


 シアが食堂の入口に立っていた。朝から白いローブを綺麗に着こなして、表情はいつも通り無愛想だ。


「使者が動いた」


「朝から?」


「朝から。ギルドに向かっている」


 ジンはパンをひとかけ口に入れた。


「俺に会いに来るってこと?」


「おそらく。昨夜、従者がギルドに問い合わせをしている。Fランク登録の新顔について、とのことだ」


「エリナが話した?」


「そこまではわからない。ただ——」シアは少し間を置いた。「エリナは頭が切れる。必要以上のことは言わないはずだ」


 ルルがパンの最後のひとかけをジンの口に押し込んだ。ジンはもぐもぐしながら、特に焦った様子もなく立ち上がった。


「じゃあ行くか」


「……それだけか、お前の反応は」


「どうすればいい?」


「逃げる、隠れる、警戒する。普通はそのどれかだ」


「逃げる理由がわかんない。まだ何もされてないから」


 シアはため息をついた。言い返す気力が追いつかない、という顔だった。

  ―――

 ギルドに着くと、エリナがカウンターの内側で背筋を伸ばして立っていた。普段より少しだけ表情が固い。それだけで、ジンには何かあったとわかった。


「おはよう」


「おはようございます」エリナは声を落とした。「セレク・ヴァイン様が、今朝ギルドを訪問されました」


「もう来た?」


「三十分ほど前に。あなたへの面会を希望しているとのことで、私は『本人に確認する』とお伝えして、一度お引き取りいただきました。今は街の広場でお待ちになっているようです」


 エリナがジンをまっすぐ見た。


「ジンさん、あなたが会わないという選択をするなら、私はそれを支持します。ギルドとして断ることもできます。ただ——」


「会う」


「……え?」


「断る理由がない。向こうが何を考えてるかも、会ってみないとわからないし」


 エリナはしばらくジンの顔を見た。


「……危機感を持ってください」


「持とうとはしてる」


「持てていません」


「前も言われた」


 シアが壁に背を預けながら口を開いた。


「私も同席する」


「シア——」


「止めるな」シアの声は静かだったが、有無を言わせない響きがあった。「セレク・ヴァインは教会の人間だ。それも、ただの教会ではない。私には確認したいことがある」


 エリナとジンは顔を見合わせた。


「ルルは?」とジンが聞いた。


 ルルはカウンターの端に座って、エリナの仕事道具をひとつひとつ手に取って眺めていた。


「ルルはここにいる」


 ルルが顔を上げた。


「やだ、行く」


「危ないかもしれない」


「ジンがいるから大丈夫」


 ジンは少し考えた。


「……まあ、来たいなら来れば」


「ジンさん」エリナが額に手を当てた。「一応、止める努力をしてください」


「ルルは止めても無駄だから」


「……それはそうなんですが」

  ―――

 街の広場は朝市の片付けが終わったばかりで、まばらに人が残っていた。噴水の縁に腰を下ろした男が一人、こちらに気づいて立ち上がる。


 白い法衣。胸元の金の紋章。四十を少し過ぎた、動かない目。


 セレク・ヴァインは、穏やかな微笑みを浮かべていた。


 その笑顔が、エリナの言っていた「あまり動かない目」と同居していることが、不思議と言えば不思議だった。目が笑っていない、という次元ではない。感情そのものが、別の場所にあるような、そういう笑顔だ。


「これはこれは。ご足労いただきありがとうございます」


 声は柔らかかった。聞き心地がよく、刺のない声。それがなぜか、ジンには少しだけ引っかかった。


「霧島ジンさんですね。私はセレク・ヴァイン。神聖教会の者です。少々、お話を聞かせていただけますか」


「何の話ですか」


「大した話ではありません」セレクは笑ったまま答えた。「ラングレイで少々、不思議な力をお持ちの方がいらっしゃると聞きまして。神の恩寵というものは時に予期せぬ形で現れる。そのようなお力の素性を確認し、必要であれば教会として適切なご支援を——」


「支援?」


「ええ。力の扱いを誤ると、ご本人のみならず周囲にも影響が出ることがあります。教会には、そういった方々をお導きする仕組みがございます」


 ジンはセレクを見た。


 特別なことは何も感じなかった。怖いとも、嫌だとも思わなかった。ただ、


「俺、別に困ってないです」


 そう言った。


 セレクの笑顔が、一瞬だけ止まった。


「それは、結構なことです」笑顔が戻った。「ですが、ご自身では気づいていない影響、というものもございます。地下水路の石板の件も、鑑定の結果が出たと伺いました。あれは——」


「あれは教会には関係ないはずですが」


 シアが口を開いた。


 セレクがシアを見た。初めて気づいたわけではない。最初から見ていた。ただ、今初めて正面から視線を向けた。


「……シア・ルーナ。これは驚いた」セレクの声は変わらなかった。「こんな辺境で、まさかあなたに会えるとは」


「奇遇ですね」シアの声は無感情だった。「私も同じ気持ちです」


 二人の間に、ジンには読めない何かが流れた。エリナが小さく息を飲んだのがわかった。


「石板は、ギルドが管理しています」シアが続けた。「教会が接触できる筋合いはない。封印の件も、専門家の鑑定を待っている段階です」


「そうですね」セレクはあっさりと頷いた。「私は接触を求めているわけではありません。ただ——」

 男は再びジンを見た。


「いずれ、この方のお力が明らかになった時、教会としてどう向き合うかを、事前に確認しておきたかった。それだけです」


「確認の結果は?」


「穏やかなお方だ、と」セレクは微笑んだ。「それで、今日のところは十分です」


 そう言って、セレクは優雅に、だがどこか機械的に、軽く会釈した。


「良い一日を」


 白い法衣の裾を翻し、男は広場を歩き出す。影のように従者が後に続いた。


 三人は無言で、その不気味なほど乱れのない背中を見送る。


 ルルだけが、セレクが見えなくなってからもしばらく、その方向を見ていた。


「ルル?」とジンが声をかけた。


「……においがした」


「どんな?」


 ルルは少し考えた。


「おだやかな、においじゃなかった。中に、ちがうものが入ってる感じ」


 シアが低い声で言った。


「……その感覚、信じる」

  ―――

 ギルドに戻ると、エリナが報告書の用紙を広げながら、珍しく言葉を探すような顔をしていた。


「……どうでしたか」


「話した。帰った」


「それだけですか」


「それだけ。何かされたわけじゃない」


 エリナはジンを見た。


「セレク・ヴァインが何もせずに帰る、というのは——正直、一番やりにくい展開です」


「なんで」


「何かしてきたなら、対処できる。でも何もしないまま観察されているというのは、向こうが時間を使っているということです。こちらの動きを見て、次の手を選んでいる」


 エリナは静かに、でも確かな力を込めて言った。


「ジンさん。あなたが大丈夫だと思っていても、周囲がそうとは限らない。私もそうですし——」エリナは一瞬、シアの方を見た。「シアさんも、そうだと思います」


 沈黙。


 シアは何も言わなかった。


 ジンはエリナを見て、シアを見て、それからルルを見た。ルルはカウンターの縁に座って、足をぶらぶらさせている。


「……わかった」


 ジンが言った。


「何がわかったんですか」


「俺だけの話じゃないってこと」


 エリナが少しだけ目を丸くした。


 ジンは続けた。


「俺は別に怖くないけど。でも俺が無頓着でいると、周りが困る。それは、良くない」


「……そういうことです」


「じゃあ、気をつける。どう気をつければいいかは、エリナとシアに聞く」


 シアが短く鼻を鳴らした。


「急に殊勝なことを言う」


「いつでも言えるよ。言い方がわかんないだけで」


 エリナがため息をついた。でも今日のそれは、困り果てたため息ではなく、少し違う種類のものだった。


「……では、まず当面の動きについて、三人で話しましょう。シアさん、よろしいですか」


「構わない」


「ルルちゃんは——」


「いる」


「はい、いてください」


 ルルがにこっとした。


 ジンはカウンター横の椅子に座った。エリナが地図を広げ始めた。シアが腕を組んで地図を覗き込む。

 外では朝市の残り香が風に乗っていた。


 特別なことは何もなかった。ただ、ここにいる全員が同じ方向を向いていた。


 それで今日は十分だ、とジンは思った。

  ―――

— 第6話・了 —


次話予告:エリナが地図の上にある一点を指した。「ここに、廃教会がある。ラングレイの建設以前から存在する、誰も管理していない場所です」——石板の封印、地下の何か、そして教会の影。すべての糸が、ひとつの場所へと向かい始める。


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