第5話「封印の起点と、教会の使者」
石板の鑑定結果が出たのは、翌々日の午前中だった。
ギルドの奥の小部屋——普段は鑑定士が依頼品を検分するために使っている部屋で、エリナが報告書を手に持ったまま、困ったような顔をしていた。
「鑑定士の見解です。『この石板は少なくとも四百年以上前のもの。使用されている文字体系はラングレイ地方に現存するどの古代語とも異なる。一部の記号は大陸成立以前の原始魔法言語に近似しており、現在これを解読できる者は大陸全土でも数名しかいないとされる』——以上です」
「ふーん」
ジンはテーブルの上の石板を眺めながら、何ともなさそうに返事をした。
「……『ふーん』で終わりですか」
「ルルが読めたから、たぶん大丈夫じゃない」
「それはそれで別の問題です」
シアが腕を組んで壁に寄りかかっていた。その目は石板から離れない。
「一つ確認したい」
「なに」
「ルル。昨日の石板の言葉——もう一度言えるか」
ルルはジンの膝の上に座って、焼き菓子をかじっていた。
「『目覚めは、ここより始まる』と、『重さを知る者が来るまで、眠れ』」
「それだけか」
「……もう一個あった気がするけど」ルルは菓子を頬張りながら首を傾げた。「忘れちゃった」
「忘れるな」
「おなかすいてたから」
シアがため息をついた。
「封印の起点、というのが鑑定士の言葉だったな」とシアがエリナに向いた。
「はい。『地下に何らかの封印が施された痕跡がある。この石板はその中核に相当するものと思われる』と」
「封印の対象が何かは」
「わかっていません。鑑定士も『これ以上は専門外』と」
シアは再び石板を見た。指先でなぞる。刻まれた文字を、ひとつひとつ確認するように。
「魔法理論上、封印術というのは常に『何かを押さえ込む』ために使われる。単に扉を閉じるためではなく、外に出てはいけないものを閉じ込めるために。そしてその封印の起点——つまり鍵に相当するものが、あの石板だ」
「じゃあ、開いちゃったってこと?」
ジンが聞いた。
「……おそらく」
「ルルが触ったから?」
「ルルが触った時点で、封印の鍵が動いた。完全に解けたかどうかはわからないが——何かが、変化した可能性がある」
ルルが焼き菓子の最後のひとかけらを口に入れながら、のんびりとした声で言った。
「でも、なんか悪いものじゃないと思う」
「なぜ」
「においが、おだやかだった。眠ってる人の、静かなにおい。怒ってる感じとか、こわい感じは、しなかった」
シアがルルを見た。子供を見る目ではなく、何か得体の知れないものを確かめるような目だった。
「……お前、本当に何なんだ」
「ルル」
「それ以上のことを聞いている」
「ルルもよくわかんない」
シアは首を振った。不満そうに、だが諦めたようにも見えた。
エリナが静かに口を開いた。
「一つ、報告しなければならないことがあります」
全員がエリナを見た。
「今朝、ラングレイに教会の使者が来ました」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
変わったのはシアだ、とジンは思った。表情はほとんど動いていない。それでも、壁に触れていた指先が、かすかに白くなった。
「……何の用で」
シアの声は静かだった。静かすぎた。
「表向きは『巡回訪問』とのことです。ラングレイには教会の支部がありますし、定期的な訪問自体は珍しくない。ただ——」エリナは一拍置いた。「今回の使者は、ただの巡回司祭ではありません。名はセレク・ヴァイン。教会の中でも特別教令部に属する人物で、本来は辺境への訪問などしない立場の方です」
「特別教令部」とジンが繰り返した。
「教会の中でも独立した部門です。表向きは『神の意思に反する存在の監視と排除』が任務とされています」
「……俺のこと?」
「可能性は、あります」
ジンはしばらく考えた。考えた、というより、ぼんやりとその言葉を聞いていた、という感じだった。
「危ないの?」
「相手が何をしに来たかによります。ただ——」エリナは言葉を選んだ。「ジンさんのことが、私の報告書以外の経路で外に漏れていたとしたら、それは誰かが意図的にそうしたということになります」
「誰が?」
「わかりません。ただ——うわさそのものは確かに広まっていました。ラングレイのギルドの外で、ジンさんを目撃した冒険者が何人もいる。コボルトの件も、水路の件も。問題は、それが単なる酒場の噂話として流れるのと、特別教令部のような組織の耳に届くのとでは、まったく話が違うということです。噂が自然に広まっただけなら、セレク・ヴァインほどの人間がわざわざ動く理由がない。誰かが、意図を持って情報を届けた可能性があります」
「ふーん」
「危機感を持ってください」
「持とうとはしてる」
「持てていません」
ルルが「お菓子もう一個食べたい」と言った。ジンが「あとで」と答えた。シアは石板をもう一度見た。
「——使者は今、どこにいる」
「宿屋に入りました。おそらく今日は動かないかと」
「顔を見たことがある?」
「遠くからですが。白い法衣に、胸元に金の紋章。年は四十前後。目が、あまり動かない人でした」
シアが壁から離れた。
「私は一度、宿屋の様子を見てくる」
「シア」とジンが言った。
「何だ」
「気をつけて」
シアが足を止めた。
振り返らなかった。
少しだけ間があって、「言われなくてもわかっている」とだけ言い、部屋を出て行った。
エリナがジンを見た。
「……シアさんと教会、何かあるんでしょうか」
「あると思う」
「知ってるんですか」
「知らない。でも、あると思う」
エリナはしばらくジンの顔を見た。
「ジンさんは、怖くないんですか」
「何が」
「教会の人間がここに来ること。あなたを探しているかもしれないこと」
ジンは少し考えた。本当に考えているのか、ただぼんやりしているのかよくわからない顔で。
「まあ、飯が食えなくなったら怖い。でも今のところ食えてるから」
「……それだけですか」
「困ったことが起きたら、その時考える」
エリナはため息をついた。返す言葉がなかった。
ルルがジンの服の袖を引いた。
「ジン、シアのこと、心配してる?」
「してる」
「顔に出てない」
「出し方がわかんない」
ルルは少し考えてから、「ふうん」と言った。それ以上は聞かなかった。
―――
セレク・ヴァインは、ラングレイで一番大きな宿屋の二階に部屋を取っていた。
窓から街を見下ろしながら、男は静かに茶を口に運ぶ。
四十を少し過ぎた顔立ち。特徴的なのは、その目だった。ぴくりとも動かない。怒りも、慈悲も、歓喜も——そのどれもが、そこには存在しなかった。感情の起伏が完全に脱落した瞳は、精巧に作られたガラス玉のようでもある。怒っているわけでも、穏やかなわけでもない。ただ、世界を無機質に観察している
——そういう目だ。
従者が報告書を持ってきた。
「——調査の結果です。例の男の目撃情報は十四件。コボルトの群れを一瞬で制圧、昨日は水路の調査依頼で地下に潜ったとのこと。地下から古代の石板を発見し、ギルドに提出しています」
「石板を」
「はい。鑑定士の手に渡っているようですが、詳細はまだ」
セレクは茶を置いた。
「石板の場所は」
「東区画の地下水路。ギルドの地図にない古い区画から」
「……そうか」
男は窓の外を見た。ラングレイの石畳の街並み。何も変わらない、平凡な辺境の街。
「神の御心は、正しい」
独り言のように、セレクは言った。
「あの男は、ここに来るように導かれた。封印が解けたのも、その男が来たためだ。つまり——目覚めは始まっている」
「いかがなさいますか」
「観察する。まだ急ぐ必要はない」セレクはまた茶を手に取った。「ザルヴァ様の御意思は、消すことではない。まだ、ね」
「では」
「『まだ』、だ」
従者が下がった。
セレクは静かに、もう一口、茶を飲んだ。
―――
夜、ジンは宿の部屋の窓から空を見ていた。
ルルはとっくに眠っている。ベッドの端に小さく丸まって、規則正しい息をしている。
ジンは外の星を見た。異世界の星空は、日本のそれより少し多い気がした。数えたことはない。
廊下から足音がして、扉の前で止まった。
「……起きているか」
シアの声だった。
「うん」
扉が少しだけ開いた。シアは入ってこなかった。廊下に立ったまま、暗がりの中でジンの方を見ていた。
「使者の件、調べてきた」
「どうだった」
「セレク・ヴァインは本物だ。特別教令部の中でも上位の人間。こんな辺境に来るような立場ではない」
「やっぱり俺が目的?」
「……おそらく。だが」シアはわずかに間を置いた。「動きが遅い。すでに情報を持っているはずなのに、今日は部屋から一歩も出ていない。急いでいない、ということは——すぐに手を出すつもりではない」
「観察?」
「そうだと思う。だとすれば、今夜は安全だ」
「ありがとう」
シアが少し黙った。
「……礼を言うことでもない。私には私の理由がある」
「教会と何かあったの」
沈黙。長くも短くもない、どちらとも取れる沈黙。
「……今は言わない」
「わかった」
「いつか話す。かもしれない」
「そっか」
また静かになった。ルルの寝息だけが聞こえる。
「シア」
「何だ」
「明日も一緒に依頼、受ける?」
シアが扉の向こうで息を吐く音がした。呆れているのか、笑っているのか、ジンにはわからなかった。
「……Fランクの白い紙の依頼に付き合う義務は、私にはない」
「そうだけど」
「だが——まあ」
短い間。
「飯がうまければ、考える」
そう言って、足音が遠ざかった。
ジンは窓の外の星をまた見た。
多い、とまた思った。数える気にはならなかった。
お腹は満たされている。シアは戻ってきた。ルルは寝ている。
それで今日は十分だ、と思った。
―――
— 第5話・了 —
次話予告:セレク・ヴァインがジンの前に現れた。穏やかな笑顔の使者は、「少しお話がしたい」と言った。その言葉の裏に何があるのか——そしてシアは、その男を知ってい
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