第89話「対の対、というカインの声と、二つの真ん中が、というシアの声と、四つとも、というルルの声と、道の途中の集落の朝」
朝が、来た。
集落の朝は——静かだった。
でも——
昨日と、違った。
何かが——また、変わっていた。
昨日は、三本が編まれた夜だった。
今日は——
編まれた道が、次の方角を、もう、向いていた。
それだけで、十分だった。
―――
ジンが、目を覚ました。
すぐに——地面の方角に、手を、向けた。
地面を——通して、聞いた。
何かが——あった。
昨日とは——また、違った。
重さが——違った。
昨日は——「三本が編まれて残った」という感触だった。
でも今日は——
「その編まれた重さが、前を向いて、動こうとしてる」という感触だった。
「……向いてる」とジンが、小さく、言った。「昨日届いた重さが——次の方角を、向いてる。三本が編まれたまま——次を、向いてる。昨日よりも——ずっと、はっきり、向いてる。向こうに——何かある。遠い。でも——向いてる。ちゃんと、向いてる」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——何かが、そこに、あった。
届いた後の重さが——前を、向いたまま、あった。
―――
ルルが、目を覚ました。
すぐに——鼻を、向けた。
後ろ——台地の方角。穏やかな、温かいにおい。アルトが、台地から、こっちを見ている。
前——遠い方角。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、来てる」とルルが言った。「次の——においだ。でも——今度は、また、違う。遠い。ずっと——遠い。でも、においはしてる。四つ——かもしれない。三つじゃない、四つのにおいが、する。四つとも、消えていくにおいが——する」
ジンが——少し、間を置いた。
「……四つ,か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「でも——一つが、ほとんど、ない。もうほとんど——ない。急がないといけない。そういうにおいだ」
「ほとんど——ない、か」とジンが、低く、言った。
「……うん」とルルが言った。「昨日の三つの時は——一つが薄くなってた。今日は——一つが、もうほとんど、ない。でも、ある。まだ——ある。でも、急がないといけない。そういうにおいだ」
ジンが——立ち上がった。
―――
カインが、写しを、広げた。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『三つを超えた数の声を届けた者は、数よりも先に、形を感じる。四つで一組は——二つと二つが、対になっている。対の対だ。二つ分の真ん中が——二つある』」
全員が——カインを、見た。
「……続きには——こうあります」とカインが言った。「『四つで一組において、道の本数は六本になる。どの二つの間にも道があるためだ。しかし六本は、二つずつ対になって動く。対の中の二本が揃い、それから対と対の間の道が揃う。順番がある。三つの時と——違う順番が、ある』」
しばらく——誰も、何も、言わなかった。
「六本が——二つずつ対になって動く、か」とジンが、低く、繰り返した。
「……そうです」とカインが言った。「三つの時は三本が同時に揃いました。四つの時は——まず、二つの中の道が揃う。それが、二組、揃う。その後で、二つの組の間の道が揃う。段階がある。一度に全部揃えようとしても——揃わない。段階を踏む必要がある」
「段階が——ある、か」とノアが、静かに、言った。
「……そうです」とカインが言った。「急ぐなら——まず、二つの対を、それぞれ先に感じる必要があります。四つを一度に感じようとせず——まず、二組の対をそれぞれ感じる。それが、四つで一組の最初の仕事です」
ジンが——遠くの方角を、見た。
「……二組の対を——それぞれ、先に感じる」とジンが言った。
「……そうです」とカインが言った。「それが——対の対の、入り口です」
―――
一行は——歩き始めた。
木のある方角が——後ろになった。
木が——遠くで、揺れていた。
ゆっくりと——見送るように、揺れていた。
ルルが、鼻先を、前の方角に向けたまま、息を、止めた。
「……においが——また、濃くなってきた。歩いてるから——近づいてる。四つとも——においがしてる。微かだけど。でも——一つが、とても薄い。歩きながら——感じてる。薄いのが、ある。急がないといけない。そういうにおいだ」
「急ぐ」とジンが、前を向いたまま、言った。
道が——続いていた。
―――
セレクが、静かに、口を、開いた。
「……教会の記録に——こうあります」とセレクが言った。「『四つで一組において、一つが消えかけている時、残りの三つも連動して薄くなっている。しかし四つの場合、消えかけているものを最初に探してはならない。まず、最も安定している対を見つけることだ。安定している対が、消えかけているものを支える基盤になる』」
「最も安定してる対を——まず、見つける」とジンが言った。
「……そうです」とセレクが言った。「消えかけているものを先に救おうとすると、基盤がないまま支えることになる。四つの中で最もしっかり残っている二つを先に確かめる。その二つを基盤にして——残りを受け取る。そういう順番です」
「安定してる方を——先に確かめる、か」とジンが、低く、繰り返した。
「……そうです」とセレクが言った。「消えかけているものを見つけてから焦ってしまうと——六本の道を全部、乱してしまいます。落ち着いて、安定している対を先に探す。それが大事です」
―――
夕暮れが——近かった。
道の先に——集落が、見えた。
小さな、集落だった。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——した。四つ——全部、ここだ。四つとも——ここにいる。でも——一つが、ほとんど、ない。集落の中に——三つのにおいがある。でも、一つは——集落の中でも、ずっと奥にいる。隅の方に——いる。ほとんど消えかけながら——でも、三つの方を、向いてる。そういうにおいだ」
「奥に——いる、か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「でも——まず、安定してる対を探す。三つの中に——しっかり残ってる二つが、いる。その二つが——対になってる。そういうにおいだ」
「どれが——安定してる対だ」とジンが言った。
「……二つ」とルルが言った。「集落の入り口の近くに——二つのにおいがある。隣り合ってる。この二つが——一番しっかりしてる。対になってる。そういうにおいだ」
ジンが——集落の入り口を、見た。
―――
集落の入り口に——二人が、いた。
年老いた、二人だった。
でも——昨日の集落の二人とは、違った。
この二人は——揃って、こちらを、見ていた。
並んで——立っていた。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——した。この二人から——消えていくにおいが、した。でも——安定してる。三つの時の二人よりも、ずっと安定してる。二人が——ずっと隣にいる。長い時間——隣にいる。その時間が——二人を支えてる。そういうにおいだ。来てくれた、ってにおいだ。待ってた、ってにおいだ。そういうにおいだ」
「長い時間——隣にいる、か」とジンが、二人を、見た。
二人が——頷いた。
揃って——頷いた。
同時に——同じ動きで。
口が——二人とも、動いた。
「……来てくれた——って、言ってる」とルルが言った。「二人とも——言ってる。早く——って、においだ。もう一つが——ほとんどない。早く——って、においだ。そういうにおいだ」
「もう一つは——どこだ」とジンが言った。
二人が——集落の奥を、指した。
揃って——指した。
―――
シアが、空間を、静かに、探った。
「……見えてきた」とシアが言った。「この二人の間に——糸が、ある。太い。昨日の木とは違う。最初からある糸だ。老人と子供の時と——同じ、最初からある糸だ。太い。安定してる。でも——その糸の先に、もう一本、糸がある。細い方だ。この二人の糸から——集落の奥へ向かって、糸が伸びてる。細くなってる。でも——まだ、ある。そういう見え方だ」
「この二人の糸から——奥へ、か」とジンが言った。
「……うん」とシアが言った。「この二人が——基盤になってる。この二人の糸が——奥の方を、支えてる。この二人がしっかりしてるから——奥のものが、まだ、ある。でも——奥の方が、ずっと細い。今にも——消えそうだ。そういう見え方だ」
「今にも——消えそう、か」とジンが、低く、言った。
「……うん」とシアが言った。「急いだ方がいい、と思う。そういう見え方だ」
―――
ジンが——集落の奥へ、向かった。
ルルが——隣に、来た。
二人が——後から、ついてきた。
少し——歩いた。
集落の一番奥に——古い、小屋が、あった。
崩れかけた、小屋だった。
でも——
ルルが、息を、止めた。
「……においが——した。この小屋から——消えていくにおいが、した。でも——人のにおいじゃない。昨日の木と——また、違う。もっと——小さい。もっと——古い。人でも、木でも——ない。小屋の中に——何かが、ある。消えかけてる。でも——まだ、ある。三つの方を——向いてる。向いたまま——消えかけてる。そういうにおいだ」
「小屋の中に——いる、か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「中の——奥の方。小さい。昨日の木より——ずっと、小さい。でも、ある。向いたまま——ある。そういうにおいだ」
ジンが——小屋の前に、立った。
中を——見た。
薄暗い、中だった。
でも——
奥の方に——何かが、あった。
小さな、石の台だった。
その上に——何かが、置かれていた。
ジンが——中に入った。
近づいた。
石の台の上に——古い、石の器が、あった。
小さな、石の器だった。
でも——
何かが——あった。
ジンが——器に、手を、近づけた。
触れずに——近づけた。
「……ある」とジンが、小さく、言った。「ここに——ある。器の中に——ある。小さい。でも——ある。消えかけてる。でも——向いてる。三つの方を——ずっと、向いてる。ここから動けない。動けないけど——向いてる。ずっと——向いてきた。そういう重さだ」
ルルが、鼻先を、器の方角に向けた。
「……においが——した。器の中から——においが、した。三つのにおいを——知ってる。ずっと知ってる。三つとも——知ってる。でも——三つのにおいが、だんだん、薄くなってきてる。薄くなってきてるから——消えかけてる。三つが遠くなってくると——一緒に、消えていく。そういうにおいだ」
「三つが遠くなってくると——一緒に消えていく、か」とジンが、低く、言った。
―――
カインが——小屋の前に、来た。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『四つで一組において、最も小さく古いものが消えかけている時、それは四つを繋いでいた最初の結び目であることが多い。最初の結び目が消えると——六本の道が全て、同時に解ける。最初の結び目に、まず、他の三つのにおいを届けることだ。三つがまだいると知れば——最初の結び目は、また、縮まるのを止める』」
「最初の結び目——か」とジンが、器を、見た。
「……そうです」とカインが言った。「この器が——最初の結び目です。四つを最初に繋いだもの。だから四つの中で最も古い。最も古いから——一番先に消えかけている。でも——最初の結び目だから、ここが消えると全部が消える。だから——まず、この器に、三つのにおいを届ける」
「三つのにおいを——届ける」とジンが言った。
ルルが——静かに、前に、出た。
「……わたしが——届ける」とルルが言った。「三つのにおいを——覚えてる。この集落に着いてから——覚えてた。入り口の二人と——集落の三つ目と。三つとも——覚えてる。届けられる。やってみる」
「頼む」とジンが、ルルを、見た。
―――
ルルが——器の前に、しゃがんだ。
鼻先を——器に、向けた。
息を——止めた。
「……届ける」とルルが、小さく、言った。
しばらく——静かだった。
ルルが——動かなかった。
全員が——息を、止めた。
ルルが——少し、目を、細めた。
「……においが——動いた。器から——においが、動いた。受け取った——みたいなにおいだ。三つのにおいを——受け取った。三つが——まだいる。ちゃんと、いる。そういうにおいだ。器が——感じてる。感じて——少し、重さが、変わった。消えかけてた重さが——少し、止まった。まだ、薄い。でも——止まった。そういうにおいだ」
「止まった——か」とジンが、低く、言った。
「……うん」とルルが言った。「止まった。三つのにおいが届いてから——止まった。でも——薄い。まだ、薄い。止まっただけで、まだ、薄い。もっと——届けないといけない。そういうにおいだ」
―――
ジンが——器の前に、しゃがんだ。
手を——器の隣の地面に、当てた。
「……聞こえてる」とジンが、器に向かって、静かに、言った。「三つは——いる。全部——いる。入り口の二人も——集落の三つ目も——全部、いる。お前が——ずっと繋いできた三つが、まだ、いる。消えてない。ちゃんと——いる。聞こえてるか」
器が——動かなかった。
でも——
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、動いた。器から——また、動いた.ジンの声が——届いた。三つがいる、って、ジンが言ってくれた。それが——届いた。ずっと繋いできた三つが——まだいる、って、知った。知ったから——動いた。そういうにおいだ」
「知った——か」とジンが、器を、見た。
器が——微かに、光った。
小さな——光だった。
一瞬だけ——光った。
消えた。
でも——あった。
「……光った」とシアが、息を、止めて、言った。「器が——光った。一瞬だけ光った。糸が——見えてる。この器に——糸が、ある。細い。でも——四本、ある。四方に——向いてる。四つに向かって——四本、あった。消えかけてた。でも——今、少し、太くなった。ジンの声が届いてから——少し、太くなった。そういう見え方だ」
「四本——あったか」とジンが言った。
「……うん」とシアが言った。「四本。この器が——中心にいる。四つに向かって——四本の糸が出てる。最初の結び目——だから、中心にいる。そういう見え方だ」
―――
二人が——小屋の前に、立った。
入り口の近くで——見ていた。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——した。二人から——安堵のにおいが、した。器が光ったのを——感じてる。まだある、って——感じてる。二人が——近づいてきてる。器の方に——近づいてきてる。二人が近づいてくると——においが、また、動く。そういうにおいだ」
「近づいてきてるか」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「二人が——器の方へ、近づいてきてる。二人のにおいが——器に、届いてきてる。器が——また、光ってる。二人が近づくたびに——光ってる。そういうにおいだ」
シアが、空間を、探った。
「……また、変わった」とシアが言った。「二人が近づいてきた。器の糸が——二人の方の糸だけ、太くなってる。二人が近くに来たから——太くなってる。二人の糸と、器の糸が——繋がってきてる。繋がりながら——太くなってる。そういう見え方だ」
―――
五本目の糸が——穏やかに、揺れた。
ルルが、息を、止めた。
「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——揺れてる。器が光ったのを——感じてる。自分のことを——思い出してる。自分も、光になる前、一度だけ光った。ノアが名前を呼んでくれた時のことを——思い出してる。小さな光だったけど——ちゃんと、あった。そういう揺れ方だ。嬉しい——揺れ方だ」
「アルト——」とノアが、小さく、言った。「見てるか。器が——光った。ちゃんと——光った」
五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。
―――
エリナが、手帳を、開いた。
ペンを、走らせた。
今日のこと——朝、ルルが「四つ、かもしれない。一つが、ほとんど、ない」と言ったこと、カインが「四つで一組は対の対だ、六本の道が二組の対になって動く」という記録を読み上げたこと、セレクが「最も安定している対を先に見つけることが大事だ」という記録を示したこと、入り口の二人が安定した対だとルルが感じ取ったこと、集落の奥の小屋に古い石の器があったこと、器が最初の結び目だとカインの記録が示したこと、ルルが三つのにおいを器に届けたこと、ジンが「三つは消えていない」と器に向かって言ったこと、器が一瞬だけ光ったこと、シアが器から四方に伸びる四本の糸を見たこと、二人が器に近づくにつれて糸が太くなったこと、アルトが嬉しそうに揺れたこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、器が光りました。小さな光でした。一瞬だけ、光りました。でも——ちゃんと、ありました。私はその時、ペンを止めませんでした。光りながら書きました。最初の結び目、とカインは言いました。四つを最初に繋いだもの。最も古いから、最も先に消えかけている。私は少し考えました。最初に繋いだものが、最初に消えていく。でも——最初に繋いだものが消えると、全部が解ける。最初の結び目は、最も古くて、最も大事なものだ。そういう順番があるのだと思いました。最初に繋いだから、最後まで繋いでいる。繋いでいるから、消えかけている。でも——消えていなかった。ジンが「三つは消えていない」と言ったら、器が光りました。知ることで、光る。知ることが、水だ。今日も、そういう順番を聞きました。届かなくても、あるものは、ある。あるものを、あると伝えれば、光る。私は、そう書いておきます。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
集落は——静かだった。
でも——
何かが、そこに、あった。
器が光った後の——静かな何かが。
穏やかに——そこに、あった。
器は——まだ、薄かった。
でも——止まっていた。
消えるのが——止まっていた。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
ジンは——器の隣の地面に、手を、当てた。
地面を——通して。
「……止まった」とジンが、小さく、言った。「消えるのが——止まった。まだ薄い。でも——止まった。三つのにおいが届いてから——止まった。明日も——ここにいる。段階がある。まず——二組の対を、それぞれ感じる。段階を踏む。急がない。でも——ちゃんと、ここにいる。四つとも——受け取る。全部——受け取る」
地面の奥から——返事は、なかった。
白黒の、何かが、そこにあった。
木のある集落とも、老人と子供の集落とも——また、違う何かが、あった。
六本の道が——それぞれの方向を向いたまま、あった。
細く——でも、あった。
そして——最初の結び目が、光った後のまま、あった。
消えずに——あった。
暖炉の火が——穏やかに、揺れた。
台地の風が——遠く、あった。
アルトが——見ていた。
一行の背を——押していた。
夜が——深くなった。
器が光った後の——静かな夜が。
ゆっくりと——深くなった。
―――
― 第89話・了 ―
―――
次話予告:
翌朝、ルルが鼻先を向ける。「……においが——また、変わってきた。器から——三つの方に、においが流れてる。昨日より——ずっと、流れてる。六本の道が——動いてる。全部、動いてる。でも——バラバラだ。二組の対に分かれて、動いてる。一緒には、なってない。でも——対の中は、揃ってきてる。二つずつ——揃ってきてる。そういうにおいだ」。カインが写しを開く。「記録には——『四つで一組において、まず対の中の道を揃えることが先だ。対の中が揃った時、聞き手は対と対の間に立つ。対と対の間に立つことで、二組が同じものを感じられる。それが、六本の道を一度に開く入り口だ』とあります」。ジンが器を見る。「……対の中を——先に揃える。二組、それぞれに、場を作る。二つの真ん中が——二つある。そういうことか」。五本目の糸が——穏やかに、新しい方角を、向く。




