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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第六章「二つで一組の話」

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第87話「三つ、というルルの声と、長い時間の中で、というカインの声と、また、行く、というジンの声と、道の途中の朝」

朝が、来た。


集落の朝は——静かだった。


でも——


昨日と、違った。


何かが——また、変わっていた。


昨日は、一つになって届いた夜だった。


今日は——


届いた後の、次の方角が、もう、動いていた。


それだけで、十分だった。


―――


ジンが、目を覚ました。


すぐに——地面の方角に、手を、向けた。


地面を——通して、聞いた。


何かが——あった。


昨日とは——また、違った。


重さが——違った。


昨日は——「一つになって届いた後の、支え合う重さ」という感触だった。


でも今日は——


「その重さが、次の方角を、向いてる」という感触だった。


「……向いてる」とジンが、小さく、言った。「昨日届いた重さが——次を、向いてる。ここに残りながら——次の方角を、向いてる。重さが——そっちに、何かあるって、教えてくれてる」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——何かが、そこに、あった。


届いた後の重さが——前を向いたまま、あった。


―――


ルルが、目を覚ました。


すぐに——鼻を、向けた。


後ろ——台地の方角。穏やかな、温かいにおい。アルトが、台地から、こっちを見ている。


前——集落の外の、遠い方角。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、来てる」とルルが言った。「次の——においだ。消えていくにおいだ。でも——今度は、また、違う。遠くて、古いにおいだ。でも——昨日のとも、また、違う」


ジンが——少し、間を置いた。


「……何が——違う」とジンが言った。


「……三つ」とルルが言った。「かもしれない。二つじゃない——三つのにおいが、する。消えていくにおいが——三つ、する。そういうにおいだ」


「三つ——か」とジンが、低く、言った。


「……うん」とルルが言った。「昨日のは——二つだった。老女と、隣の者の、二つだった。今日は——三つ。三つとも、消えていく。三つとも、遠くて古い。でも——三つは、一緒にいる。ばらばらじゃない。三つで——一緒にいる。そういうにおいだ」


「三つで——一緒にいる、か」とジンが、低く、繰り返した。


―――


カインが、写しを、広げた。


「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『二つで一組を続けて届けた者は、やがて、二つを超えた数の声を感じ取れるようになる。三つで一組は——存在する。それは、長い時間の中で、三つが互いを必要とした形だ』」


全員が——カインを、見た。


「……続きには——こうあります」とカインが言った。「『三つで一組は、二つで一組よりも、複雑な形をしている。三つの間には、真ん中が一つではない。三つを繋ぐ道は——三本ある。どの二つの間にも、道がある。三本の道が——同時に動いている』」


しばらく——誰も、何も、言わなかった。


「三本の道が——同時に動いてる」とジンが、低く、繰り返した。


「……そうです」とカインが言った。「二つの時は——真ん中が一本でした。三つの時は——三本です。三つのどれとどれの間にも、道がある。その三本が、同時に動いている。どれか一本だけを先に受け取ろうとしても——三本は一緒に動いているから、一本だけを切り取れない」


「切り取れない——か」とノアが、静かに、言った。


「……そうです」とカインが言った。「三本まとめて——受け取る。三つが同時に動いているから、聞き手も——三つを同時に感じなければならない。どれを先にしようとしても、三本は待ってくれない。そういう記録が、あります」


ジンが——遠くの方角を、見た。


「……三本を——同時に、か」とジンが言った。


「……そうです」とカインが言った。「それが——三つで一組の、最初の難しさです」


―――


老女が——ジンの前に、来た。


形も——隣に、あった。


揺れていない——定まった形が。


二人で——ジンたちを、見ていた。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——した。老女から——送り出すにおいが、した。形から——も、送り出すにおいが、した。昨日届いた後の——送り出すにおいだ。二つ一緒に——送り出してる。行ってきて、って、においだ。そういうにおいだ」


「二つで——送り出してくれてるか」とジンが、老女と、形を、見た。


老女が——頷いた。


形も——頷いた。


二つの動きが——揃っていた。


一つになって届いた後の——揃い方で。


「……三つのにおいが——どこに、あるか」とジンが、ルルに、言った。


「……前」とルルが言った。「道の——前の方向。遠い。でも——においがしてる。三つとも、してる。三つとも、こっちを感じてる。こっちが届けた分を——感じてる。だから、においがしてきてる。そういうにおいだ」


―――


カインが——写しを、もう一度、広げた。


「……記録には——もう少し、あります」とカインが言った。「『三つで一組の場合、声が届かなくなった経緯は、二つの場合よりも複雑である。二つが一緒に止まるのではなく——三つが順番に止まっていることが多い。最初に止まったもの、次に止まったもの、最後に止まったもの——その順番が、三本の道の形に残っている』」


「順番が——残ってる」とシアが、静かに、言った。


「……そうです」とカインが言った。「どれが最初に止まったかで——道の太さが違います。最初に止まったものの道は、一番細い。一番古くなっている。でも——消えていない。三つが支え合っているから、消えていない。最後に止まったものが——今、三本の道を、支えている」


「支えてる——か」とジンが言った。


「……そうです」とカインが言った。「三つの中で一番最後に止まったものが、今も三本の道を支えている。そのものが消えると——三本とも、消える。だから、最後に止まったものが最も消えかけている。そういう記録が、あります」


「最後に止まったものが——一番消えかけてる、か」とジンが、低く、言った。


「……そうです」とカインが言った。「急がなければならない理由が——そこにあります。最後のものが消えると、他の二つも一緒に消える。三本の道が——一緒に消える」


ジンが——立ち上がった。


「……わかった」とジンが言った。「行く」


―――


一行は——歩き始めた。


老女の集落が——後ろになった。


老女と、形が——後ろに、いた。


二つで——見送っていた。


ルルが、少し、後ろを振り返った。


「……二つが——見てる」とルルが言った。「送り出してる。一つになって届いた後のにおいで——送り出してる。道が——残ってる。一つになったまま支え合う道が——残ってる。消えてない。そういうにおいだ」


「残ってる——か」とジンが、前を向いたまま、言った。


「……うん」とルルが言った。「消えてない。行った後も——残ってる。そういうにおいだ。あと——」


ルルが、鼻先を、前の方角に向けた。


「……前からのにおいが——また、濃くなってきてる。歩いてるから——近づいてる。三つのにおいだ。精度——昨日のとは、やっぱり、違う。形が——複雑だ。三つが一緒にいる形の、においだ。二つが一緒にいるにおいとは——違う。もっと、複雑な、においだ」


「複雑——か」とジンが、低く、言った。


「……うん」とルルが言った。「でも——においがしてる。ちゃんと、してる。三つとも——してる。そういうにおいだ」


道が——続いていた。


―――


しばらく——歩いた。


セレクが、静かに、口を、開いた。


「……教会の記録に——こうあります」とセレクが言った。「『三つで一組の声の道には、特別な性質がある。三本の道は——三つが互いを見ている間だけ、保たれる。三つのうちの一つが別の方を向くと、その一本の道が揺らぐ。三つが同時に同じ方を向いていた時間が長いほど——道は太く、強くなる』」


「三つが——同じ方を向いてた」とノアが、静かに、言った。


「……そうです」とセレクが言った。「三つで一組である理由が、そこにあります。二つだけでは足りなかった。三つ目がいることで——三つが互いを見ていられた。三つ目が、残りの二つの道を支えていた。三つ目が最後まで止まらなかったのは、残りの二つを見ていたからです」


「三つ目が——二つを見てたから」とジンが言った。


「……そうです」とセレクが言った。「だから最後まで残った。スキル——今、三つ目も消えかけている。三つ目が消えようとしている理由は——」


セレクが、少し、間を置いた。


「……残りの二つが、もう、見えていないからかもしれません」とセレクが言った。「三つ目は、二つを見るために残ってきた。でも——声が止まって長い時間が経ち、二つが見えなくなってきた。見えないから——残る理由が、薄れていく。そういう記録が、あります」


「見えなくなってきた——から」とジンが、低く、言った。


「……そうです」とセレクが言った。「三つ目に——まず、二つが見えていることを、知らせる必要があります。三つ目が二つを見られれば——また、残る理由が戻ってくる」


―――


道の途中に——小さな丘があった。


一行は、そこで、少し、休んだ。


ルルが——鼻先を、遠い方角に向けたまま、息を、止めた。


「……においが——また、変わってきた」とルルが言った。「近づいてるから——濃くなってきてる。三つのにおいが——それぞれ、してくる。複雑だ。でも——少し、わかってきた。三つのうちの一つが——一番薄い。消えかけてる。一番薄いにおいが——でも、まだ、ある。消えてない。でも——薄い。とても薄い。そういうにおいだ」


「一番薄いのが——消えかけてるか」とジンが言った。


「……うん」とルルが言った。「それが——三つ目かもしれない。残りの二つを見るために残ってきた、三つ目。でも——消えかけてる。でも——消えてない。まだ、ある。そういうにおいだ。急いだ方がいい、かもしれない。そういうにおいだ」


ジンが——立ち上がった。


「……行く」とジンが言った。


―――


夕暮れが——近かった。


道の先に——集落が、見えた.


小さな、集落だった。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——した。三つ——どれも、ここだ。三つとも——ここにいる。でも——」


ルルが、少し、間を置いた。


「……一つが——外にいる」とルルが言った。「集落の中に——二つのにおいがある。でも、一つは——外にいる。集落の外の、少し離れたところに——いる。三つで一組なのに——今は、離れてる。離れながら——でも, 道は繋がってる。三本の道が——ちゃんと、繋がってる。でも、一つが外にいる。そういうにおいだ」


「外に——いる、か」とジンが言った。


「……うん」とルルが言った。「消えかけてる方が——外にいる。集落の中の二つを——今も、遠くから、見てる。見ながら——消えかけてる。そういうにおいだ」


カインが——写しを、手に取った。


「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『三つで一組において、声が止まった後も別の場所にいるものがある。それは、一組の中で最後まで動いていたものである。残りを見守るために——離れた場所から、道だけを繋いで、いる』」


「道だけを繋いで——離れてる、か」とジンが言った。


「……そうです」とカインが言った。「動けたから——離れた。でも、動けたのは最後まで残っていたからです。最後まで残っていたものが、残りを見守るために離れた。道を繋いだまま——離れた場所から、ずっと、見てきた。でも今、その道が薄くなっている」


「見守りながら——消えかけてる」とノアが、静かに、言った。


「……そうです」とカインが言った。「まず、その者に——集落の中の二つが、まだある、ということを、知らせる必要があります。セレクさんが言った通りです。見えていることを、知らせる」


―――


集落の入り口に——人影が、あった。


二つ——あった。


老いた、二人だった。


二人で——道の脇に、立っていた。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——した。二人から——消えていくにおいが、した。でも——消えかけてる方じゃない。この二人は——集落の中の二つだ。消えかけてない。でも——薄くなってきてる。三つ目が消えかけてるから——この二人も、薄くなってきてる。三つが支え合ってるから、一つが薄くなると——全部、薄くなる。そういうにおいだ」


「全部——薄くなってきてるか」とジンが言った。


「……うん」とルルが言った。「でも——この二人は、まだ、ある。三つ目を——感じてる。感じながら——待ってる。来てくれた、ってにおいだ。待ってた、ってにおいだ。そういうにおいだ」


二人が——ジンを、見た。


口が——二人とも、動いた。


「……来てくれた——って、言ってる」とルルが言った。「二人とも——言ってる。でも——声は届かない。届かないけど、言ってる。来てくれた。三つ目も——まだ、いる。でも、消えかけてる。早く——って、においだ。二人が——急いでほしい、って、においだ。そういうにおいだ」


「急いでほしい——か」とジンが、二人を、見た。


二人が——頷いた。


揃って——頷いた。


「……行く」とジンが言った。「三つ目のところへ——行く。どこにいる」


ルルが、鼻先を——集落の外の、少し遠い方角に向けた。


「……あっち」とルルが言った。「集落から——少し、離れたところ。そこに——いる。消えかけてる方が、いる。そういうにおいだ」


―――


ジンが——集落の外に、向かった。


ルルが——隣に、来た。


少し——歩いた。


道が——細くなった。


草が——多くなった。


古い、木が——一本、あった。


大きな、木だった。


でも——


ルルが、息を、止めた。


「……においが——した。この木から——消えていくにおいが, したが。でも——人のにおいじゃない。人のにおいでも、人でないもののにおいでも——ない。何か——別のにおいだ。でも——消えていく。この木が——三つ目だ。人でも、人でないものでも、ない——この木が、三つ目だ。そういうにおいだ」


「木——か」とジンが、木を、見た。


大きな、木だった。


古い、木だった。


でも——


何かが——あった。


ジンが——木に、近づいた。


木の根元に——手を、当てた。


「……ある」とジンが、小さく、言った。「ここに——ある。地面を通して——ある。木の中に——ある。重さが、ある。消えかけてる。でも——ある。形は——揺れてない。揺れてないけど——薄い。薄くなってる。でも、ある。集落の方を——向いてる。向いたまま——ある。二つのことを——見てる。ずっと——見てきた。そういう重さだ」


ルルが、鼻先を、木の根元の方角に向けた。


「……においが——また、した。木の中から——においが、した。集落のにおいが——する。集落の二人のにおいが。この木が——二人のにおいを、覚えてる。ずっと覚えてる。ずっと——覚えながら、見てきた。集落の方を向いて——ずっと、見てきた。そういうにおいだ」


「ずっと——見てきた、か」とジンが、木に手を当てたまま、低く、言った。


―――


カインが——木の前に、来た。


「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『三つで一組において、離れた場所にいるものに声が止まったことを知らせるには——残りの二つのにおいを、先に届けることだ。残りの二つが今もそこにあること、消えていないことを——まず、届ける。それが聞こえた時、離れた者は——自分がまだ、見守れていることを、知る』」


「二つのにおいを——先に届ける」とジンが、低く、繰り返した。


「……そうです」とカインが言った。「集落の二人のにおいを——この木に届ける。声よりも先に——二人のにおいを。木が二人のにおいを受け取った時、木は自分がまだ見守れていることを知れる。知ることで——消えかけていたものが、少し、止まる」


「においを——届ける、か」とジンが言った。


ルルが——静かに、前に、出た。


「……わたしが——届ける」とルルが言った。「二人のにおいを——わたしが、覚えてる。集落に着いてから——覚えてる。ここに届けられる。においを——届けられる。そういうにおいだ。やってみる」


ジンが——ルルを、見た。


「……頼む」とジンが、静かに、言った。


―――


ルルが——木の前に、しゃがんだ。


根元に——近づいた。


鼻先を——木に向けた.


息を——止めた。


「……届ける」とルルが、小さく、言った。


しばらく——静かだった。


ルルが——動かなかった。


全員が——息を、止めた。


ルルが——少し、目を、細めた。


「……においが——動いた。木から——においが、動いた。受け取った——みたいなにおいだ。集落の二人のにおいを——受け取った。わかった——みたいなにおいだ。二人のにおいを——知ってる。ずっと知ってる。でも——届いてから、もっと、わかった。二人が——まだいる。ちゃんと、いる。そういうにおいだ。木が——感じてる。そういうにおいだ」


「受け取った——か」とジンが、低く、言った。


「……うん」とルルが言った。「受け取った。二人のにおいが——届いた。木が——感じてる。感じて——少し、重さが、変わった。消えかけてた重さが——少し、止まった。まだ、薄い。でも——少し、止まった。そういうにおいだ」


―――


ジンが——木の根元に、手を、当てた。


「……聞こえてる」とジンが、木に向かって、静かに、言った。「二人は——いる。集落に——ちゃんと、いる。ルルが——感じてた。二人のにおいが——ここに届いてる。お前が——ずっと見てきた二人が、まだいる。消えてない。ちゃんと——いる。聞こえてるか」


木が——動かなかった。


でも——


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、動いた。木から——大きく、動いた。ジンの声が——届いた。届いてから——大きく、動いた。二人がいる。消えてない——って、ジンが言ってくれた。それが——届いた。ずっと見守ってきた二人が——まだいる、って、知った。知ったから——動いた。そういうにおいだ」


「知った——か」とジンが、木を、見た。


木が——揺れた。


風は——なかった。


でも——木が、揺れた。


少し——揺れた.


一度だけ——揺れた。


「……揺れた」とシアが、息を、止めて、言った。「木が——揺れた。風が、ないのに、揺れた。糸が——見える。この木に——糸が、ある。一本。細い。でも——ある。集落の方に——向いてる。集落の二人の方に——向いてる。ずっと——そっちを向いてた。そういう見え方だ」


「一本の糸が——集落を向いてる、か」とジンが言った。


「……うん」とシアが言った。「一本。細い。でも——揺れた。ジンの声が届いてから——揺れた。揺れた後、また——集落の方を向いた。まっすぐ——向いてる。そういう見え方だ」


―――


五本目の糸が——穏やかに、揺れた。


ルルが、息を、止めた。


「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——揺れてる。木が揺れたのを——感じてる。自分のことを——思い出してる。自分も、祠の中にいた。一人で——待ってた。ずっと、一人で。でも——ノアが来てくれた。ノアが来てくれた時、自分もこういう感じだった。ずっと見守ってきた者が——やっと、届いた。その時のことを——思い出してる。そういう揺れ方だ。嬉しい——揺れ方だ」


「アルト——」とノアが、小さく、言った。「見てるか。木が——揺れた。届いた。ジンが——届けた」


五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。


―――


エリナが、手帳を、開いた。


ペンを、走らせた。


今日のこと——朝、ルルが「三つ、かもしれない」と言ったこと、カインが「三つで一組は存在する、三本の道が同時に動いている」という記録を読み上げたこと、セレクが「最後まで残ったものが二つを見守るために離れた場所にいる」という記録を示したこと、老女の集落の二人が送り出してくれたこと、新たな集落に着いて集落の外の木が三つ目であることをルルが感じ取ったこと、カインが「まず二人のにおいを届けることが先だ」という記録を示したこと、ルルが木に二人のにおいを届けたこと、ジンが「二人は消えてない」と木に向かって言ったこと、木が風もないのに揺れたこと、シアが「一本の細い糸が集落を向いている」を見たこと、アルトが嬉しそうに揺れたこと。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを止めた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、木が揺れました。風がないのに、揺れました。ジンが「二人は消えてない」と言ったから、揺れました。私はその時、ペンを止めませんでした。書きながら、聞いていました。ルルが「においが届いた」と言い、シアが「糸が揺れた」と言い、ジンが「知った」と言いました。知る、ということが、今日も水でした。二人がまだいると——知る。消えていないと——知る。見守れていると——知る。知ることで、少し、止まる。私は、記録しながら、考えました。木はずっと集落の方を向いていた、とシアが言いました。声が止まっても、ずっと向いていた。向いていることが、道を繋いでいた。声が届かなくても、向いていることは、できる。向いていることは——声よりも先にある。今日も、そういう順番を、聞きました。届かなくても、あるものは、ある。向いていたから——道があった。道があったから——今日、届いた。私は、そう書いておきます。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


集落は——静かだった。


でも——


何かが、そこに、あった。


木が揺れた後の——静かな何かが。


穏やかに——そこに、あった。


集落の方に——まっすぐ向いたまま。


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


ジンは——木の根元に、手を、当てた。


「……聞こえてる」とジンが、小さく、言った。「二人が——いる。集落に——いる。三本の道が——ある。細い。でも——ある。消えてない。明日も——ここにいる。三つとも——受け取る。三本の道——全部、受け取る。急がない。でも——ここにいる。ちゃんと——ここにいる」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——何かが、そこに、あった。


老女と形の集落とも、老人と子供の集落とも——また、違う何かが、あった。


三本の道が——それぞれの方向を向いたまま、あった。


細く——でも、あった。


暖炉の火が——穏やかに、揺れた。


台地の風が——遠く、あった。


アルトが——見ていた。


一行の背を——押していた。


夜が——深くなった。


木が揺れた後の——静かな夜が。


ゆっくりと——深くなった。


―――


― 第87話・了 ―


―――


次話予告:


翌朝、ルルが鼻先を向ける。「……においが——また、変わってきた。三つとも——少し、濃くなってきた。木から——集落の方に、においが、流れてる。昨日より——ずっと、流れてる。三本の道が——動いてる。全部、動いてる。三つが——互いを、感じてる。感じ合ってる。そういうにおいだ」。カインが写しを開く。「記録には——『三つで一組において、聞き手がまずすべきことは、三つが同時に感じ合えるための場を作ることだ。三つが同時に互いを感じた時——三本の道が、初めて一度に動く。一度に動いた時が——声への入り口だ』とあります」。ジンが木の根元に手を当てたまま、集落の方を見る。「……三つが——同時に感じ合える場。三つを——一度に繋ぐ。集落の二人と——この木を、一度に繋ぐ。どうやって——繋ぐ」。五本目の糸が——穏やかに、新しい方角を、向く。

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