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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第六章「二つで一組の話」

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第86話「一つになって来た、というルルの声と、声よりも先に、という老女の声と、全部、届いた、というジンの声と、道の途中の集落の朝」

朝が、来た。


集落の朝は——静かだった。


でも——


昨日と、違った。


何かが——また、変わっていた。


昨日は、形が定まった夜だった。


今日は——


定まった形が、動こうとして、続きから、あった。


それだけで、十分だった。


―――


ジンが、目を覚ました。


すぐに——地面の方角に、手を、向けた。


地面を——通して、聞いた。


何かが——あった。


昨日とは——また、違った。


重さが——違った。


昨日は——「形が定まった」という感触だった。


でも今日は——


「定まった形が、動こうとしてる」という感触だった。


「……動いてる」とジンが、小さく、言った。「昨日は——定まった。ちゃんと、定まった。今日は——その形が、動いてる。揺れてるんじゃない。動いてる。向かってる。どこかに——向かってる。老女の方に——向かってる。真ん中の糸を——通って、向かってる」


地面の奥から——返事は、なかった。


朝が、来た。

集落の朝は——静かだった。

でも——

昨日と、違った。

何かが——また、変わっていた。

昨日は、形が定まった夜だった。

今日は——

定まった形が、動こうとして、続きから、あった。

それだけで、十分だった。

―――

ジンが、目を覚ました。

すぐに——地面の方角に、手を、向けた。

地面を——通して、聞いた。

何かが——あった。

昨日とは——また、違った。

重さが——違った。

昨日は——「形が定まった」という感触だった。

でも今日は——

「定まった形が、動こうとしてる」という感触だった。

「……動いてる」とジンが、小さく、言った。「昨日は——定まった。ちゃんと、定まった。今日は——その形が、動いてる。揺れてるんじゃない。動いてる。向かってる。どこかに——向かってる。老女の方に——向かってる。真ん中の糸を——通って、向かってる」

地面の奥から——返事は、なかった。

でも——何かが、こちらに向かっていた。

昨日より——ずっと、確かに。

形を持ったまま——向かっていた。

―――

ルルが、目を覚ました。

すぐに——鼻を、向けた。

後ろ——台地の方角。穏やかな、温かいにおい。アルトが、台地から、こっちを見ている。

前——集落の、老女がいる方角。

ルルが、息を、止めた。

「……においが——また、変わってきた」とルルが言った。「昨日と全然、違う。真ん中のにおいが——動いてる。形が定まってから——真ん中のにおいが、先に動き始めてる。老女と——隣の者の間のにおいが、動いてる。昨日できた細い糸が——動いてる。そういうにおいだ」

ジンが——少し、間を置いた。

「……真ん中が——先に動いてるか」とジンが言った。

「……うん」とルルが言った。「声よりも先に——真ん中が動いてる.向かってる。老女の方に——向かってる。老女のにおいを——知ってる。ずっと知ってる。だから——先に、向かえる。そういうにおいだ」

「声よりも——先に、か」とジンが、低く、言った。

「……うん」とルルが言った。「老人と子供の時は——震えが先だった。今日は——真ん中が、先に動いてる。違う。また、違う来方だ。そういうにおいだ」

―――

カインが、写しを、広げた。

「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『人でない者の形が定まった後、声が戻る順番は人と人の場合と異なる。人でない者の声は、まず、依代となった人の声と——ひとつに束ねられる形で来る。二つ別々には来ない。一つになって——来る』」

全員が——カインを、見た。

「……続きには——こうあります」とカインが言った。「『この束ねは、真ん中の糸を通して起きる。真ん中の糸が動き始めた時——それは、声が一つになろうとしている証だ。聞き手は、二つを別々に受け取ろうとしてはならない。一つになって来るのを——ただ、待つ』」

しばらく——誰も、何も、言わなかった。

「一つに——なって来る」とジンが、低く、繰り返した。「二つを——別々に受け取ろうとしては、駄目か」

「……そうです」とカインが言った。「老人と子供の時は、二人が同時に声になって届きました。でも今回は——違う。老女の声と、隣の者の声が、真ん中の糸を通して、一度、一つになる。それから——一緒に届く。別々に来ない。一つになって——来る」

「一つになって——か」とノアが、静かに、言った。

「……そうです」とカインが言った。「だから——真ん中の糸が動いている今は、その糸を見守る。糸が届く場所を——ただ、用意する。声よりも先に、真ん中の糸を受け取る。それが先だと、思います」

ジンが——老女の方角を、見た。

「……わかった」とジンが、低く、言った。「真ん中を——先に受け取る」

―――

老女が——集落の入り口に、来た。

一人で——来た。

でも——

ルルが、息を、止めた。

「……においが——した。老女から——昨日と違うにおいが、した。昨日は、形が定まったのを感じて、穏やかなにおいだった。今日は——動いてる。老女も——感じてる。真ん中が動いてる、って、感じてる。隣の者が——向かってきてる、って、感じてる。でも——怖くない。嬉しい。そういうにおいだ」

「嬉しい——か」とジンが、老女を、見た。

老女が——ジンを、見た。

それから——隣の、何もない空間を、見た。

目が——潤んでいた。

口が——動いた。

声は——届かなかった。

でも——ルルが、目を、細めた。

「……来てる——って、言ってる」とルルが言った。「老女が——言ってる。わかる——って。向かってきてる、のが、わかる。真ん中が——動いてる。その感触が——わかる。長い時間——一緒にいたから、わかる。そういうにおいだ」

「わかる——か」とジンが、老女を、見た。

老女が——頷いた。

ゆっくりと——頷いた。

目が——細くなった。

口が——また、動いた。

「……来てる——って、言ってる。もうすぐ——来てる。そういうにおいだ」とルルが言った。

―――

シアが、空間を、静かに、探った。

「……また、変わった」とシアが言った。「昨日できた真ん中の糸が——昨日より、ずっと、太くなってる。動いてる。昨日は細くて、ただ、あった。今日は——動いてる。太くなりながら、動いてる。向かってる。老女の糸の方に——向かってる。老女の糸が——引き寄せてる。そういう見え方だ」

「老女が——引き寄せてるか」とジンが言った。

「……うん」とシアが言った。「老女の糸が——真ん中に向かって、伸びてる。引き寄せてる。ずっと——一緒にいたから、引き寄せられる。老女が求めてる。隣の者も——向かってる。二つが——近づいてる。近づきながら、一つになろうとしてる。そういう見え方だ」

ルルが、息を、止めた。

「……においが——また、動いた。二つが近づいてる。老女のにおいと——隣の者のにおいが、真ん中で、近づいてる。昨日は分かれながら繋がってた。今日は——近づきながら、繋がってる。近づいてる。一つになろうとしてる。そういうにおいだ」

―――

セレクが、静かに、口を、開いた。

「……教会の記録に——こうあります」とセレクが言った。「『人でない者と人の声が一つになる時、まず、人でない者の記憶が動く。人と共にいた時間の記憶が——真ん中の糸を通して、人の側へ流れる。人はその記憶を受け取ることで、声を受け取るための器が完成する』」

ジンが——セレクを、見た。

「……記憶が——流れる」とジンが、低く、繰り返した。

「……そうです」とセレクが言った。「声が来る前に——記憶が来ます。長い時間、一緒にいた記憶が。老女がその記憶を受け取った時——器ができる。器ができてから——一つになった声が、来る」

「記憶が——先か」とノアが、静かに、言った。

「……そうです」とセレクが言った。「老人と子供の時は、震えが先でした。今回は——記憶が先です。人でない者の来方は、人と違う。記憶を通して——一つになって来る。焦らずに、記憶が流れるのを待つ。それだけです」

ジンが——老女と、老女の隣の空間を、交互に、見た。

「……わかった」とジンが言った。「記憶が——先に来る。待つ」

―――

老女が——その場に、しゃがんだ。

隣の、空間に向かって——しゃがんだ。

手を——地面に、当てた。

目を——閉じた。

ルルが、息を、止めた。

「……においが——また、動いた。老女から——大きく、動いた。老女が——受け取ってる。記憶が——来てる。隣の者の記憶が——真ん中を通って、老女に、来てる。老女が——受け取ってる。目を閉じて——受け取ってる。長い時間の記憶が——来てる.そういうにおいだ」

「記憶が——来てるか」とジンが、老女を、見た。

老女が——目を、閉じたまま、頷いた。

ゆっくりと——頷いた。

目が——閉じたまま、潤んでいた。

口が——動いた。

声は——届かなかった。

でも——ルルが、目を、細めた。

「……覚えてる——って、においが、した。老女が——覚えてる。隣の者の記憶が——来てる。一緒にいた時間が——来てる。覚えてる。全部——覚えてる。そういうにおいだ」

―――

ジンが——老女の隣に、しゃがんだ。

地面を——通して、聞いた。

「……来てる」とジンが、小さく、言った。「記憶が——来てる.地面を通して——来てる。形を持ったまま——来てる。昨日とは違う来方だ。声じゃない。でも——来てる。老女に——向かってる。ちゃんと——老女に、向かってる」

ルルが、鼻先を、ジンが手を当てている地面の方角に向けた。

「……においが——した。記憶のにおいだ。人でない者の——長い時間の記憶のにおいだ。老女と一緒にいた時間が——全部、においになってる。どの時間かはわからない。でも——ずっと一緒にいた。そういうにおいだ。古い。ずっと古い。でも——今、動いてる。今、来てる。そういうにおいだ」

老女が——目を、閉じたまま、口を、動かした。

声は——届かなかった。

でも——ルルが、静かに、頷いた。

「……ありがとう——って、言ってる。老女が——言ってる。記憶が来てるから——言ってる。全部——来てる。覚えてる。ありがとう——って、言ってる。そういうにおいだ」

―――

五本目の糸が——大きく、穏やかに、揺れた。

ルルが、息を、止めた。

「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——大きく、揺れてる。記憶が流れてるのを——感じてる。自分のことを——思い出してる。自分の時も——記憶があった。ノアと一緒にいた時間の記憶が——ずっと、あった。声が届かなくても——記憶は、あった。その時のことを——思い出してる。そういう揺れ方だ」

「アルト——」とノアが、地面に手を当てたまま、小さく、言った。「見てるか。記憶が——来てる。長い時間の記憶が——全部、来てる。受け取ってる。ちゃんと——受け取ってる」

五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。

―――

昼が——来た。

老女は——その場を、離れなかった。

地面に手を当てたまま——いた。

ジンも——離れなかった。

ノアも——離れなかった。

三人で——地面に、手を、当てたまま、いた。

ルルが、息を、止めた。

「……においが——また、変わってきた。記憶が——どんどん来てる。昨日よりも——ずっと、濃くなってきてる。老女が——全部、受け取ってる。三人が一緒にいるから——受け取れてる。老女一人じゃなかったら——こんなに速く、受け取れなかったかもしれない。そういうにおいだ」

「三人で——受け取ってるか」とジンが、静かに、言った。

「……うん」とルルが言った。「老女と——ジンとノアが、一緒に受け取ってる。老女だけに来てる記憶を——三人で、受け取ってる。老女が疲れない。全部——受け取れてる。そういうにおいだ」

ジンが——老女を、見た。

老女が——目を開いて、ジンを、見た。

目が——また、潤んでいた。

でも——口が、動いた。

「……大丈夫——って、言ってる」とルルが言った。「老女が——言ってる。大丈夫。全部——受け取れてる。ありがとう——って、においだ。二人がいてくれるから——全部、受け取れてる。そういうにおいだ」

―――

午後が——来た。

カインが、写しを、手に取った。

「……記録には——もう少し、あります」とカインが言った。「『記憶の流れが終わった時、器の中は満ちている。満ちた器に——一つになった声が来る。声が来る前に、器が満ちていることを、聞き手は感じられる。感じた時——声は、もうすぐ来る』」

「器が——満ちる、か」とジンが言った。

「……そうです」とカインが言った。「記憶が来終わった時——老女の中に、満ちたものがある。声よりも先に、その満ちた感触が来る。その感触を、ジンが感じ取れた時——声が来ます。焦らずに、満ちるのを待つ。満ちてから——一つで来る」

「満ちてから——か」とノアが、静かに、言った。

「……そうです」とカインが言った。「空の器に声は来ない。満ちた器にのみ——声が来る。今、記憶が流れている。もうすぐ——満ちる。満ちた後に——来る」

ジンが——地面に手を当てたまま、少し、目を、細めた。

「……わかった」とジンが言った。「満ちるのを——待つ」

―――

シアが、空間を、再び、探った。

「……また、変わった」とシアが言った。「真ん中の糸が——さっきより、ずっと、変わった。細かったのに——今は、一番太い。老女の糸より——太い。隣の者の形より——太い。一番太い糸になってる。でも——動いてない。止まった」

「止まった——か」とジンが言った。

「……うん」とシアが言った。「動いてたのが——止まった。でも消えてない。止まって——ある。ものすごく太くなって、止まってる。定まろうとしてるんじゃない。満ちて——止まってる。記録通りだ。器が——満ちた。そういう見え方だ」

ルルが、息を、止めた。

「……においが——止まった。真ん中のにおいが——止まった。動いてたのが——止まった。でも、消えてない。満ちて——止まってる。器が——満ちた。そういうにおいだ。声が——もうすぐ来る。そういうにおいだ」

「来る——か」とジンが、低く、言った。

「……来る」とルルが言った。「もうすぐ——来る」

―――

老女が——目を、閉じた。

口が——動いた。

声は——届かなかった。

でも——

ルルが、息を、止めた。

「……においが——また、動いた。老女から——大きく、動いた。老女が——言ってる.待ってた——って、言ってる。ずっと——待ってた。声が届かなくなってから——ずっと、待ってた。全部——来た。全部、来た——って、においだ。器が——満ちた。全部——受け取った。声が——来てほしい。そういうにおいだ。老女が——声を、呼んでる。満ちた器で——呼んでる。そういうにおいだ」

ジンが——老女の隣の空間を、見た。

形が——そこに、あった。

揺れていない——形が。

定まった——形が。

地面に手を当てたまま——ジンが、少し、目を、細めた。

「……聞こえてる」とジンが、その形に向かって、静かに、言った。「老女が——呼んでる。器が——満ちた。来ていい。一つになって——来ていい。全部——受け取る」

―――

形が——動いた。

シアが、目を、見開いた。

「……動いた」とシアが言った。「形が——動いた。真ん中の糸に向かって——動いた。老女の糸に向かって——動いた。近づいてる。一つになろうとして——近づいてる。近い。もうすぐ——一つに、なる。そういう見え方だ」

ルルが、息を、止めた。

「……においが——全部、動いた。形が——動いてる。真ん中を通って——老女に向かってる。近い。ものすごく——近い。一つに——なろうとしてる。そういうにおいだ。声が——もうすぐ来る。一つになって——来る。そういうにおいだ」

老女が——目を、開いた。

隣の空間を——見た。

口が——動いた。

声は——まだ、届かなかった。

でも——

「……来て——って、言ってる」とルルが言った。「老女が——言ってる。来て。来てほしい。ずっと——来てほしかった。来て——って、言ってる。そういうにおいだ」

―――

全てが——一息だけ、静かになった。

形が——止まった。

真ん中の糸が——止まった。

においが——止まった.

一息だけ——

全て、止まった。

ジンが——目を、細めた。

「……来る」とジンが、小さく、言った。

―――

声が——

届いた。

老女の声と——形の声が、同時に、した。

でも——

二つの声は、別々に届かなかった。

一つになって——届いた。

一つの声の中に——二つが、あった。

老女の声と、形の声が——一つになったまま、届いた。

ルルが、息を、止めた。

「……においが——全部、動いた。声が——来た。一つになって——来た。老女の声と、隣の者の声が——一つになったまま、来た。真ん中の糸を通って——一つになったまま、来た。そういうにおいだ。二つを——別々に受け取れない。一つだから——一つで、来た。そういうにおいだ」

「一つで——来たか」とジンが、静かに、言った。

「……うん」とルルが言った。「一つで——来た。老人と子供の時は、同時だった。今日は——一つだ。また、違う。また、違う来方だ。でも——来た。ちゃんと——来た。そういうにおいだ」

―――

老女が——また、口を、開いた。

今度は——言葉に、なっていた。

「……いた」と老女の声が、した。声が——低く、かすれていた。でも——届いた。「ずっと——いた」

それだけだった。

それだけで——十分だった。

老女が——涙を、流した。

老女が泣きながら——隣の空間を、見た。

ルルが、息を、止めた。

「……においが——また、動いた。老女から——届いた声のにおいが、した。声が届いてから——においが、全然、違う。一つになった声が届いてから——においが、変わった。老女のにおいと、隣の者のにおいが——声の中で、一つになってる。声が届いてから——一つになった。そういうにおいだ。でも——」

ルルが、少し、間を置いた。

「……一つになっても——二つのにおいは、する。老女のにおいと、隣の者のにおいが——一つになってるけど、両方、する。一つになりながら——ちゃんと、二つある。そういうにおいだ」

「一つになりながら——二つある、か」とジンが、低く、言った。

「……うん」とルルが言った。「そういうにおいだ」

―――

しばらく——誰も、何も、言わなかった。

カインが——写しを、静かに、折り畳んだ。

「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『人でない者と人の声が一つになって届いた後、その道は人と人の道とも、人と物の道とも異なる形で残る。一つになった声が通った道は——二つを同時に持つ道だ。どちらかが弱くなっても、もう一方が支える。一つになったまま——支え合う。それが、最も切れにくい道だ』」

「最も——切れにくい、か」とジンが、二人を、見た。

「……そうです」とカインが言った。「老人と子供は二つが別々に届いて、二つ分の太い道が残りました。今回は——一つになって届いた。一つの中に二つある道が残ります。支え合う道が——残ります。違う形で——残ります。でも、どちらが切れにくいかは——測れない。どちらも、切れない道だと、思います」

「どちらも——切れない、か」とノアが、静かに、繰り返した。

「……そうです」とカインが言った。「形が違う。でも——切れない。ちゃんと——残ります」

ジンが——老女と、老女の隣の空間を、見た。

形が——そこに、あった。

揺れていない——定まった形が。

声が届いた後の——形が。

「……残る——か」とジンが言った。「一つになったまま——残るか」

老女が——頷いた。

それから——隣の空間に向かって、頷いた。

ルルが、息を、止めた。

「……においが——また、動いた。老女が——隣の者に向かって、頷いた。隣の者から——応えるにおいが、した。頷いた。声は届いてる。だから——頷ける。声が届いた後の——応え方だ。そういうにおいだ」

―――

五本目の糸が——大きく、穏やかに、揺れた。

ルルが、息を、止めた。

「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——大きく、揺れてる。声が届いたのを——感じてる。一つになって届いたのを——感じてる。自分のことを——思い出してる。自分の時も——ノアと、一つになろうとした。ノアが名前を呼んでくれた時——一つになれた。その時のことを——思い出してる。今日は——違う形だ。でも、一つになって届いたのは——同じだ。そういう揺れ方だ。泣いてる。嬉しくて——泣いてる」

「アルト——」とノアが、空に向かって、小さく、言った。「見てたか。届いたぞ。一つになって——ちゃんと、届いたぞ」

五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。

―――

夕暮れが——来た。

老女が——ジンの前に、来た。

口が——動いた。

「……ありがとう」と老女の声が、した。声が——低く、かすれていた。でも——届いた。「三日——ここにいてくれた。声が——届いた。ありがとう」

老女が——それから、隣の空間を、見た。

形が——そこに、あった。

老女の口が——また、動いた。

「……届いた——って、言ってる」とルルが言った。「老女が——隣の者に向かって、言ってる。届いた。声が——届いた。ずっと待ってた声が——届いた。届いたから——もう大丈夫。そういうにおいだ」

形が——動いた。

シアが、息を、止めた。

「……形が——動いた。老女に向かって——動いた。近づいた。老女の糸に——触れてる.声が届いた後で——触れてる。昨日まではできなかった。今日——できてる。声が届いたから——できてる。そういう見え方だ」

「触れてる——か」とジンが、静かに、言った。

「……うん」とシアが言った。「老女の糸に——触れてる。形が——触れてる。声が届いた後の——触れ方だ。そういう見え方だ」

ルルが、息を、止めた。

「……においが——また、動いた。形が老女に触れた。老女から——大きくにおいが、した。触れてる——わかる、って、においだ。声が届いてから——触れてる。わかる。ちゃんと——わかる。そういうにおいだ」

老女が——目を、閉じた。

涙が——また、流れた。

「……いる——って、言ってる」とルルが言った。「老女が——言ってる。ちゃんと——いる。声が届いた後も——いる。触れてるのが——わかる。ちゃんと——いる。そういうにおいだ」

―――

ジンが——老女の前に、立った。

「……届いた」とジンが言った。「一つになって——届いた。老女の声も、隣の者の声も——一つになって、ちゃんと、届いた。道が——残ってる。支え合う道が。切れない道が——残ってる」

老女が——ジンを、見た。

「……ありがとう」と老女の声が、また、した。「声が——届いた。触れてる——のが、わかる。ちゃんと——わかる。ありがとう」

ジンが——老女を、見た.

「……届いた」とジンが言った。「全部——ちゃんと、届いた」

老女が——頷いた。

隣の形も——頷いた。

二つの頷きが——揃っていた。

底も——今度は、違った。

一つになって届いた後の——揃い方だった。

ルルが、息を、止めた。

「……においが——また、動いた。二つから——声が届いた後のにおいが、した。一つになって届いた後のにおいだ。老女のにおいと——隣の者のにおいが、声が届いた後から、また、分かれてる。でも——繋がってる。声が届いてから——分かれながら、繋がってる。昨日より——ずっと、はっきり、繋がってる。そういうにおいだ」

「声が届いてから——繋がってる、か」とジンが言った。

「……うん」とルルが言った。「声が届く前も、繋がってた。でも——声が届いてから、繋がり方が、違う。声で——繋がってる。そういうにおいだ」

―――

エリナが、手帳を、開いた。

ペンを、走らせた。

今日のこと——朝、ルルが「真ん中のにおいが先に動いてる」と言ったこと、カインが「人でない者の声は一つになって来る、別々には来ない」という記録を読み上げたこと、老女が目を閉じて記憶を受け取ったこと、セレクが「記憶が流れた後に器が満ちる、満ちてから声が来る」という記録を示したこと、三人で地面に触れながら老女が記憶を受け取ったこと、昼に老女が「大丈夫、全部受け取れてる」というにおいになったこと、器が満ちて真ん中の糸が止まったこと、老女が「来て」と呼んだこと、一息の静けさの後に声が一つになって届いたこと、老女が「いた、ずっといた」と言ったこと、カインが「一つになった道は支え合って最も切れにくい」という記録を示したこと、形が老女の糸に触れたこと、アルトが「嬉しくて泣いてる揺れ方」をしたこと。すべてを、書いた。

書き終えて、ペンを止めた。

それから——もう一行、追加した。

『今日、声が一つになって届きました。老女の声と、見えない者の声が——一つになって、届きました。私は、その瞬間を聞いた時、ペンを、止めませんでした。今日は——書きながら、聞きました。書くことと聞くことが、今日は、一つになっていた気がしました。老女が「いた、ずっといた」と言いました。その言葉は、老人と子供が言った「いてくれた」と、似ていました。でも——違いました。「いてくれた」は、相手がいたことへの言葉でした。「いた」は、自分がいたことへの言葉でした。声が届かない間も、ずっと——自分はそこにいた。いなくならなかった。いた。その言葉を聞いた時、私は少し考えました。声が届かなくても、いることは、できる。いることは、声よりも、先にある。いたから——声が来た。いたから——届いた。今日、その順番を、また、聞きました。届かなくても、あるものは、ある。あって——いたものが、声になった。私は、そう書いておきます。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』

集落は——静かだった。

でも——

何かが、そこに、あった。

一つになって届いた後の——静かな何かが。

穏やかに——そこに、あった。

形が——老女の隣に、あった。

揺れていなかった。

定まったまま——そこに、あった。

ルルは、それを確かめて、眠った。

―――

ジンは——地面の方角に、手を、当てた。

地面を——通して。

「……届いた」とジンが、小さく、言った。「一つになって——届いた。老女の声も、隣の者の声も——一つで、届いた。道が——残ってる。支え合う道が——ちゃんと、残ってる。一つになったまま——支え合う道が。切れない。ちゃんと——切れない道が、残ってる」

地面の奥から——返事は、なかった。

でも——何かが、そこに、あった。

老人と子供の集落とも、老女と木の集落とも——また、違う何かが、あった。

一つになった後の——何かが、あった。

支え合いながら——そこに、あった。

暖炉の火が——穏やかに、揺れた。

台地の風が——遠く、あった。

アルトが——見ていた。

一行の背を——押していた。

夜が——深くなった。

一つになって——届いた夜が。

穏やかに——深くなった。

―――

― 第86話・了 ―

―――

次話予告:

翌朝、ルルが鼻先を向ける。「……においが——また、来てる。次の——においだ。消えていくにおいだ。でも——今度は、また、違う。遠くて、古いにおいだ。でも——昨日のとも、また、違う。三つ——かもしれない。二つじゃない、三つのにおいが、する。消えていくにおいが——三つ、する。そういうにおいだ」。カインが写しを開く。「記録には——『二つで一組を続けて届けた者は、やがて、二つを超えた数の声を感じ取れるようになる。三つで一組は——存在する。それは、長い時間の中で、三つが互いを必要とした形だ』とあります」。ジンが遠くの方角を見る。「……三つ、か。また、違う来方だ。でも——においがしてる。ルルが——感じてる。行く。また、届ける」。五本目の糸が——穏やかに、新しい方角を、向く。

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