第85話「形が落ち着いてきた、というルルの声と、形を知ることが鍵だ、というカインの声と、ここにいる、というジンの声と、道の途中の集落の朝」
朝が、来た。
集落の朝は——静かだった。
でも——
昨日と、違った。
何かが——また、変わっていた。
昨日は、見えない者が揺れながらある夜だった。
今日は——
揺れたまま、でも、少し、落ち着きながら、続きから、あった。
それだけで、十分だった。
―――
ジンが、目を覚ました。
すぐに——地面の方角に、手を、向けた。
地面を——通して、聞いた。
何かが——あった。
昨日とは——また、違った。
重さが——違った。
昨日は——「形が揺れたまま、ある」という感触だった。
でも今日は——
「揺れが、少し、小さくなってる」という感触だった。
「……落ち着いてきてる」とジンが、小さく、言った。「止まりかけてるんじゃない。落ち着いてきてる。昨日より——ずっと、落ち着いてる。でも——まだ、形ははっきりしない。揺れてる。ゆっくり——落ち着いてきてる」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——何かが、そこに、あった。
昨日より——ずっと、静かに。
揺れながら——でも、少し、落ち着きながら。
そこに、あった。
―――
ルルが、目を覚ました。
すぐに——鼻を、向けた。
後ろ——台地の方角。穏やかな、温かいにおい。アルトが、台地から、こっちを見ている。
前——集落の、老女がいる方角。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、変わってきた」とルルが言った。「昨日より——形が、少し、はっきりしてきた。老女のにおいと——隣の者のにおいが、少し、分かれてきた。分かれてきたけど——繋がってる。分かれながら、繋がってる。そういうにおいだ。隣の者の揺れが——少し、小さくなってきた。止まりかけてる、んじゃない。落ち着いてきてる。そういうにおいだ」
ジンが——少し、間を置いた。
「……形が——分かれてきたか」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「昨日は、混ざってた。老女のにおいと、隣の者のにおいが——一緒くたになってた。長い時間——一緒にいたから。でも今日は——少し、分かれてきた。分かれたけど、切れてない。繋がったまま、分かれてる。そういうにおいだ」
「繋がったまま——分かれてる、か」とジンが、低く、言った。
「……うん」とルルが言った。「形が——見えてきてる。昨日は見えなかった形が。ゆっくり——見えてきてる。そういうにおいだ」
―――
カインが、写しを、広げた。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『人でない者の驚きが収まり始めた時、まず、においの形が定まってくる。定まった形を聞き手が受け取ることで、人でない者は「形を持っている」ことを知る。形を知ることが、次の段階への鍵だ』」
全員が——カインを、見た。
「……続きには——こうあります」とカインが言った。「『聞き手が形を受け取る方法は、声を聞こうとすることではない。形がそこにあることを——ただ、認めることだ。「ある」と言うことではない。「ある」と感じることだ。感じた時——形は、自分が形であることを知る』」
しばらく——誰も、何も、言わなかった。
「形が自分を——知る」とジンが、低く、繰り返した。
「……そうです」とカインが言った。「形が揺れているのは、驚きが続いているからです。でも——揺れながらも、形はある。聞き手がその形を感じ取ることで、形は自分が揺れていても『ある』ことを知れる。知ることで——揺れが少し、収まる」
「知ることで——収まる,か」とノアが、静かに、言った。
「……そうです」とカインが言った。「昨日、ジンが地面に触れて『形が揺れてるけど、ある』と言ったことで——今朝、揺れが小さくなった。形が『ある』と知ったからです。今日は——さらに確かめる。形が自分を知れるように、感じ続ける」
ジンが——老女の方角を、見た。
「……わかった」とジンが、低く、言った。「感じる」
―――
老女が——集落の入り口に、来た。
一人で——来た。
でも——
ルルが、息を、止めた。
「……においが——した。老女から——昨日と違うにおいが、した。昨日は、隣にいる者を待ってるにおいだった。今日は——隣にいる者が、落ち着いてきてるのを、感じてるにおいだ。老女も——感じてる。揺れが小さくなってきてる、って、感じてる。そういうにおいだ」
「老女も——感じてるか」とジンが、老女を、見た。
老女が——ジンを、見た。
それから——隣の、何もない空間を、見た。
目が——細くなった。
口が——動いた。
声は——届かなかった。
でも——ルルが、静かに、頷いた。
「……落ち着いてきてる——って、言ってる」とルルが言った。「老女も——感じてる。ずっと揺れてたのが——少し、落ち着いてきてる。わかる、って、においだ。長い時間——一緒にいたから、わかる。そういうにおいだ」
ジンが——老女の隣の空間を、見た。
何も——見えなかった。
でも——ジンが、少し、頷いた。
「……落ち着いてきてる」とジンが、その空間に向かって、静かに、言った。「ゆっくり——落ち着いてきてる。聞こえてる。形——感じてる」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、動いた。隣の者から——小さく、動いた。ジンの声が届いた。届いたから——動いた。昨日もジンが触れたから動いた。今日も——届いてる。そういうにおいだ」
―――
ジンが——老女の隣の空間の前に、しゃがんだ。
地面を——通して、聞いた。
「……ある」とジンが、小さく、言った。「昨日より——ずっと、はっきり、ある。形が——見えてきてる。まだ揺れてる。スキル——昨日より、ずっと、揺れが小さい。感じてる。形——ちゃんと、感じてる」
老女が——ジンの隣に、そっと、しゃがんだ。
地面に——手を、当てた。
老女の手と——ジンの手が、並んだ。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、動いた。老女が——ジンの隣に来た。一緒に——感じようとしてる。老女も地面に触れた。長い時間——一緒にいたから、老女の触れ方が、隣の者に届く。ジンだけじゃない——老女の感触も届いてる。そういうにおいだ」
「老女の触れ方が——届くか」とジンが、静かに、言った。
「……うん」とルルが言った。「老女のにおいを——隣の者は、ずっと知ってる。長い時間——そのにおいと一緒にいた。だから——老女が地面に触れたことが、届く。ジンの声と——老女の触れ方が、一緒に届いてる。そういうにおいだ」
ジンが——老女を、見た。
老女が——ジンを、見た。
二人で——地面に、手を、当てたまま、頷いた。
―――
シアが、空間を、静かに、探った。
「……見えてきた」とシアが言った。「昨日より——ずっと、はっきり、見える。でも——」
シアが、少し、間を置いた。
「……形が——揺れてる」とシアが言った。「昨日と同じように揺れてる。でも——揺れ方が違う。昨日は、止まれないで揺れた。今日は——落ち着こうとして、揺れてる。揺れながら、落ち着こうとしてる。そういう見え方だ」
「落ち着こうとして——揺れてるか」とジンが言った。
「……うん」とシアが言った。「昨日とは——揺れ方の向きが違う。昨日は外に向かって揺れてた。今日は——内側に向かって、揺れてる。形が、自分に向かって、集まろうとしてる。そういう見え方だ。ゆっくり——でも、確かに、集まろうとしてる」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、変わった。形が内側に向かって集まろうとしてる。そういうにおいだ。驚きが——少し、収まってきてる。昨日ジンが感じてくれたから——収まってきてる。今日も感じてくれてるから——また、収まってきてる。そういうにおいだ」
―――
セレクが、静かに、口を、開いた。
「……教会の記録に——こうあります」とセレクが言った。「『人でない者が形を取り戻す過程において、最も大きな助けとなるのは、聞き手の言葉ではなく——聞き手が感じていることを、その者が感じ取ることだ。感じられていると知ること——それが、驚きを収めるための最初の水だ』」
ジンが——セレクを、見た。
「……感じられてると——知ること、か」とジンが、低く、繰り返した。
「……そうです」とセレクが言った。「昨日、ジンが地面に触れ続けた。老女が隣で話しかけ続けた。その時間が——形にとっての『最初の水』になっています。今日、揺れが小さくなってきたのは——感じられていたことを、知ったからです」
「感じられていた——ことを」とノアが、静かに、言った。
「……そうです」とセレクが言った。「驚きが続いていたのは、声が止まって誰にも感じてもらえないまま、長い時間が過ぎたからです。でも——昨日、感じてもらえた。それが、驚きの中に水として入った。水が入ったから——揺れが、少し、収まった」
「水——か」とジンが、低く、言った。
「……そうです」とセレクが言った。「今日も——感じ続ける。水が増えるほど、揺れは収まる。焦らずに、感じ続ける。それだけです」
―――
昼が——来た。
集落の人たちが——食事を、用意してくれた。
一行は——それを、受け取った。
老女も——来た。
隣に——しゃがんだ。
老女の隣の空間も——そこにあった。
見えなかった。
でも——あった。
四人で——食べた。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、変わった。老女から——穏やかなにおいが、した。食事の時間が——あった。隣の者も——一緒にいた。声は届かない。でも——一緒に、食事の時間がある。ずっと——こうしてきた。声が届かなくなってからも——こうしてきた。そういうにおいだ」
「ずっと——こうしてきたか」とジンが、静かに、言った。
「……うん」とルルが言った。「老女のにおいと——隣の者のにおいが、食事の時間だけ、また少し、近づいてる。近づいて——一緒にいる。そういうにおいだ。慣れたにおいだ。ずっと繰り返してきた——慣れたにおいだ」
ジンが——老女の隣の空間を、見た。
老女が——その空間に向かって、口を、動かした。
声は——届かなかった。
でも——ルルが、目を、細めた。
「……食べてる——かな、って、言ってる」とルルが言った。「老女が——隣の者に、話しかけてる。食べてるかな——って。ずっと、こうして、話しかけてきた。声が届かなくても——話しかけてきた。そういうにおいだ」
―――
午後が——来た。
ジンと、ノアが、再び、老女の隣の空間の前に、集まった。
老女も——来た。
三人で——地面に、手を、当てた。
「……感じてる」とジンが、静かに、言った。「昨日より——ずっと、はっきり、感じてる。形が——集まってきてる。ゆっくり——集まってきてる。急がない。でも——感じてる。ちゃんと——感じてる」
ルルが、鼻先を、三人が手を当てている地面の方角に向けた。
「……においが——また、動いた。三人が一緒に——感じてる。老女の触れ方と、ジンの触れ方と、ノアの触れ方が——一緒に、届いてる。三人分の水が——一度に入ってる。揺れが——また、小さくなってきてる。そういうにおいだ」
「三人分——か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「老女のにおいは——隣の者がずっと知ってる。ノアのにおいは——見えない者のことを、知ってる。二人の触れ方が——同時に届くから、揺れが速く収まる。そういうにおいだ」
ノアが——地面に手を当てたまま、少し、目を、細めた。
「……俺も——知ってる」とノアが言った。「見えないけど、いる。ずっと、いた。声が届かなくなっても——いた。そういう時間を——俺も、知ってる。だから——感じられる。ちゃんと——感じられる」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、動いた。ノアから——知ってるにおいが、した。見えない者でいた時間のにおいを——覚えてる。その時のにおいが——隣の者に届いてる。ノアだから——届く。そういうにおいだ」
―――
五本目の糸が——穏やかに、揺れた。
ルルが、息を、止めた。
「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——揺れてる。形が集まってきてるのを——感じてる。自分のことを——思い出してる。祠の中にいた時のことを。形がはっきりしなかった時のことを——思い出してる。誰かに感じてもらえた時のことを——思い出してる。ノアに——感じてもらえた時のことを。そういう揺れ方だ」
「アルト——」とノアが、地面に手を当てたまま、小さく、言った。「見てるか。感じてるぞ。形——ちゃんと、感じてるぞ。お前の時みたいに——感じてるぞ」
五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。
―――
シアが、空間を、再び,探った。
「……また、変わった」とシアが言った。「形が——さっきより、ずっと、集まってきてる。三人でいるから——また、集まってきてる。揺れが——小さくなってきてる。内側に向かって——確かに、集まってきてる。もうすぐ——形が、一度、止まる。止まった後に——定まる。そういう見え方だ」
「一度——止まる、か」とジンが言った。
「……うん」とシアが言った。「揺れが収まる前に——一度だけ、形が止まる。止まったように見える。でも——止まったんじゃない。定まろうとしてる。定まる直前の——止まり方だ。そういう見え方だ」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、動いた。形が集まってきてる。真ん中に——集まってきてる。もうすぐ、一度、止まる。止まったように見えるけど——定まろうとしてる。そういうにおいだ」
―――
カインが、写しを、手に取った。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『形が定まる瞬間、人でない者は初めて自分の輪郭を持つ。輪郭を持った瞬間——聞き手には、形がそこにあることが、はっきりと感じられる。その感触を——聞き手はそのまま返す。返された感触が、形を完成させる最後の水だ』」
「返す——か」とジンが、低く、言った。
「……そうです」とカインが言った。「感じた時——『感じた』と返す。言葉でなくても、いい。触れ方でもいい。ただ——感じたことを、そのまま、返す。それが最後の水になります」
「感じたことを——そのまま、返す」とノアが、静かに、言った。
「……そうです」とカインが言った。「今日——来るかもしれない。形が定まる、その瞬間を、静かに待つ」
ジンが——地面に手を当てたまま、少し、目を、細めた。
「……わかった」とジンが言った。「待つ。感じたら——返す」
―――
夕暮れが——近かった。
三人が——地面に手を当てたまま、いた。
静けさが——あった。
ジンの中に——静けさが、あった。
ノアの中にも——静けさが、あった。
老女の中にも——静けさが、あった。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、大きく、動いた。三人が——静けさを持ってる。老女も——静けさを持ってる。老女から静けさが来るのは、珍しい。ずっと——話しかけ続けてきた老女が、今日は、静かにいる。静かにいながら——感じてる。そういうにおいだ」
「老女が——静かに感じてるか」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「話しかけることも——一つの水だった。でも今日は——静かに感じることが、水になってる。老女が変わった。話しかけることをやめたんじゃない。今日は——静かに感じることを、選んでる。そういうにおいだ」
―――
形が——一度、止まった。
シアが、息を、止めた。
「……止まった」とシアが、小さく、言った。「形が——止まった。揺れが——止まった.一度だけ——全部、止まった。定まろうとしてる。定まろうとして——止まった」
ジンが——目を、細めた。
三人の手が——地面に、あった。
静けさが——あった。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——止まった。揺れが——止まった。全部——止まった。でも——消えてない。ある。形——ある。止まってるけど——ある。定まろうとして——止まってる。そういうにおいだ」
「来る——か」とジンが、低く、言った。
「……来る」とルルが、小さく、言った。
―――
形が——定まった。
シアが、目を、見開いた。
「……見えた」とシアが言った。「形が——見えた。はっきり——見えた。揺れてない。止まってない——定まってる。形が——そこに、ある。ちゃんと——ある」
ジンが——地面を通して、感じた。
昨日とは——違った。
揺れていなかった。
重さが——一つの場所に、あった。
ずっしりと——そこに、あった。
「……ある」とジンが言った。「形——ある。定まってる。感じた」
ジンが——地面に手を当てたまま、その感触を——そのまま、返した。
「……ある」とジンが、もう一度、言った。「ここに——ある。感じた。ちゃんと——感じた」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——全部、動いた。ジンが感じたことを——返した。返されたから——形が、自分がそこにあることを、知った。形が——自分を、知った。そういうにおいだ。大きく——動いた。昨日とは全然、違う動き方だ。形が——ちゃんと、定まった。そういうにおいだ」
―――
老女が——地面に手を当てたまま、目を、閉じた。
それから——開いた。
口が——動いた。
声は——届かなかった。
でも——ルルが、目を、細めた。
「……いる——って、言ってる」とルルが言った。「老女が——言ってる。ちゃんと——いる。形が定まったのを——感じた。感じたから——言ってる。ずっと、いてくれた。今も——ちゃんと、いる。そういうにおいだ」
ノアが——少し、目を、細めた。
「……いる——か」とノアが、地面に手を当てたまま、言った。「ずっと——いたんだな。声が届かなくなっても——ずっと」
老女が——頷いた。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、動いた。老女から——長い時間のにおいが、した。ずっと——一緒にいた。声が届かなくても、形が揺れてても——一緒にいた。その時間の重さが——今、においとして出てきてる。そういうにおいだ」
―――
ジンが——形が定まった空間の前に、しゃがんだまま、言った。
「……聞こえてる」とジンが言った。声が——低かった。「形——感じた。ちゃんと——感じた。ここにいる。急がない。でも——ここにいる。形が声になるまで——ここにいる。全部——受け取る」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、動いた。隣の者から——大きく、動いた。ジンの声が届いた。形が定まってから——届いた声だ。定まる前とは——違う届き方をしてる。形があるから——届く。形があるから——届き方が、違う。そういうにおいだ」
「形があるから——届き方が違う、か」とジンが、低く、言った。
「……うん」とルルが言った。「昨日は、揺れてる形に届けてた。今日は——定まった形に届けてる。定まった形には——ちゃんと、届く。ちゃんと届いてる。そういうにおいだ」
―――
シアが、空間を、再び、探った。
「……また、変わった」とシアが言った。「形が定まった後——また、少し、変わった。老女の糸と——隣の者の形の、間のところ。そこに——何かが、できてきてる。昨日はなかった。今日——できてきてる。細い。でも——ある。昨日の老人と子供の真ん中の糸みたいに——細い糸が、できてきてる。そういう見え方だ」
「真ん中の糸——か」とジンが言った。
「……うん」とシアが言った。「老女と——隣の者の間に。細い。でも——ある。形が定まったから——できてきた。定まる前はなかった。定まったから——糸が、見えてきた。そういう見え方だ」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、変わった.真ん中のにおいが——した。老女と隣の者の間から——真ん中のにおいが、した。形が定まったから——真ん中のにおいが、見えてきた。昨日よりずっと——今日は、真ん中がある。そういうにおいだ」
―――
エリナが、手帳を、開いた。
ペンを、走らせた。
今日のこと——朝、ルルが「形が分かれてきた、でも繋がってる」と言ったこと、カインが「形を感じることで形が自分を知る」という記録を読み上げたこと、老女がジンの隣で一緒に地面に触れたこと、セレクが「感じられていると知ることが最初の水だ」という記録を示したこと、昼食の時に老女が隣の者に「食べてるかな」と話しかけていたこと、ノアが三人目として加わって「見えない者でいた時間を知ってる」と言ったこと、アルトが「ノアに感じてもらえた時のこと」を思い出すように揺れたこと、老女が今日は「静かに感じること」を選んだこと、形が一度止まって定まったこと、ジンが「感じたことをそのまま返した」こと、老女が「ちゃんといる」と口を動かしたこと、シアが老女と隣の者の間に「細い真ん中の糸」を見つけたこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、形が定まりました。揺れていた形が——一度止まって、定まりました。私は、その瞬間に、シアが「見えた」と言うのを聞きました。ジンが「感じた」と言って、そのまま返しました。それだけでした。返すとはそういうことだと、私は思いました。感じたことを、感じたまま、返す。余分なものを足さない。感じたことだけを。私はその返し方を見て、少し考えました。話しかけることも水になる。でも今日の老女は、静かに感じることを選んでいました。話しかけることをやめたのではなく——今日は感じることが水になると、老女が知っていた。長い時間一緒にいたから、知っていた。私には、まだ、そういうことを知る時間がありません。でも——感じたことをそのまま返す、ということなら、少し、わかる気がしました。届かなくても、あるものは、ある。あるものを感じて、感じたままに返す。それが今日の水でした。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
集落は——静かだった。
でも——
何かが、そこに、あった。
形が定まった後の——静かな何かが。
揺れていなかった。
穏やかに——そこに、あった。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
ジンは——地面の方角に、手を、当てた。
地面を——通して。
「……定まった」とジンが、小さく、言った。「形——定まった。感じた。感じて——返した。真ん中の糸も——できてきた。明日も——ここにいる。形が声になるまで——ここにいる。全部——受け取る。老女の分も——全部、受け取る」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——何かが、そこに、あった。
昨日とも、老人と子供の集落とも——また、違う何かが、あった。
形が定まった後の——重さが、あった。
揺れていない——重さが。
穏やかに——そこに、あった。
暖炉の火が——穏やかに、揺れた。
台地の風が——遠く、あった。
アルトが——見ていた。
一行の背を——押していた。
夜が——深くなった。
形が定まった夜が。
穏やかに——深くなった。
―――
― 第85話・了 ―
―――
次話予告:
翌朝、ルルが鼻先を向ける。「……においが——また、変わってきた。昨日と全然、違う。真ん中のにおいが——動いてる。形が定まってから——真ん中のにおいが、先に動き始めてる。老女と——隣の者の間のにおいが、動いてる。昨日できた細い糸が——動いてる。そういうにおいだ」。カインが写しを開く。「記録には——『人でない者の形が定まった後、声が戻る順番は人と人の場合と異なる。人でない者の声は、まず、依代となった人の声と——ひとつに束ねられる形で来る。二つ別々には来ない。一つになって——来る』とあります」。ジンが老女の隣の空間に向かって、地面に手を当てる。「……真ん中が——動いてる。老女と——一緒に、来ようとしてる。一組で——来ようとしてる。聞こえてる。ここにいる。一つになって——来ていい。全部——受け取る」。五本目の糸が——大きく、穏やかに、揺れる。




