第84話「においが遠くて古い、というルルの声と、積み重なるほど遠くが聞こえる、というカインの声と、また、行く、というジンの声と、道の途中の朝」
朝が、来た。
集落の朝は——静かだった。
でも——
昨日と、違った。
何かが——また、変わっていた。
昨日は、二つが同時に届いた夜だった。
今日は——
届いた後の、次が、もう来ていた。
それだけで、十分だった。
―――
ジンが、目を覚ました。
すぐに——地面の方角に、手を、向けた。
地面を——通して、聞いた。
何かが——あった。
昨日とは——また、違った。
重さが——違った。
昨日は——「二つとも届いた」という感触だった。
でも今日は——
「届いた分が、奥に、積み重なってる」という感触だった。
「……重い」とジンが、小さく、言った。「昨日より——ずっと、重い。昨日届いた分が——ちゃんと、積み重なってる。前の集落の分も——その前の分も。全部——積み重なってる。重くなってる。悪い重さじゃない。でも——重い」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——何かが、そこに、あった。
届いた後の——積み重なった何かが。
ずっしりと——そこに、あった。
―――
ルルが、目を覚ました。
すぐに——鼻を、向けた。
後ろ——台地の方角。穏やかな、温かいにおい。アルトが、台地から、こっちを見ている。
前——集落の外の、遠い方角。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、来てる」とルルが言った。「昨日届いてから——もう、来てる。でも——今日のにおいは、昨日と、また、違う」
ジンが——少し、間を置いた。
「……何が——違う」とジンが言った。
「……遠い」とルルが言った。「昨日より——ずっと、遠い。でも——昨日より、ずっと、早く、においがしてる。遠いのに——早い。それと——」
ルルが、少し、間を置いた。
「……古い」とルルが言った。「においが——古い。昨日のにおいより、ずっと、古い。もっと——遠い時間から、来てる。そういうにおいだ。消えていくにおいだ。でも——古い。古い、消えていくにおいだ。二つ——また、二つかもしれない。でも——昨日と、また、違う。もっと、遠くて、古い。そういうにおいだ」
「遠くて——古い、か」とジンが、低く、言った。
「……うん」とルルが言った。「届けた分が——積み重なってるから、遠くて古いにおいが、早く、してきてる。カインさんが言ってた通りだ。積み重なるほど——遠くが聞こえる。そういうにおいだ」
―――
カインが、写しを、広げた。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『二つで一組を届けた者は、次の一組を早く感じ取る。それは続く。届けた者の中に積み重なっていく。積み重なるほどに——聞き手は、遠く、古いものの声も、聞こえるようになる』」
全員が——カインを、見た。
「……続きには——こうあります」とカインが言った。「『遠く、古いものの声は、近くにある声とは性質が違う。同じ二つで一組であっても——古いものの間には、長い時間が通っている。その時間の重さを、聞き手はまず、受け取らなければならない』」
しばらく——誰も、何も、言わなかった。
「時間の重さを——まず、受け取る」とジンが、低く、繰り返した。
「……そうです」とカインが言った。「声よりも先に——長い時間が、来ます。昨日の二人は三日でした。でも、古いものの場合——もっと、長い。届ける前に、その長さを、一度、受け取る必要があります。受け取ってから——声が来る」
「長い時間を——受け取る」とノアが、静かに、言った。「それが——先、か」
「……そうです」とカインが言った。「急がずに——まず、時間を受け取る。それが先だと、思います」
ジンが——遠くの方角を、見た。
「……わかった」とジンが、低く、言った。
―――
老いた男が——集落の端に、来た。
子供も——隣に、来た。
二人で——また、道の脇に、立っていた。
昨日と——同じ場所に。
昨日と——同じように、立っていた。
でも——今日は、昨日と少し、違った。
二人の目が——遠くを、見ていた。
ジンたちのことを見ていたが——その奥の、もっと遠くを、見ていた。
ルルが、鼻先を、二人の方角に向けた。
「……においが——した」とルルが言った。「二人から——昨日と違うにおいが、した。昨日は届いた後のにおいだった。今日は——届いた後から、遠くに、向いてるにおいだ。遠くを——感じてる。遠くのにおいを——知ってる。自分たちも——遠くの声が届かない時間が、あった。だから——遠くのにおいが、わかる。そういうにおいだ」
「遠くを——知ってるにおい、か」とジンが、二人を、見た。
老いた男が——ジンを、見た。
子供も——ジンを、見た。
口が——二人とも、動いた。
「……遠いか——って、言ってる」とルルが言った。「二人とも——聞いてる。遠いにおいがする、って、気づいてる。遠い、か——って、聞いてる。そういうにおいだ」
ジンが——頷いた。
「……遠い」とジンが言った。「遠くて——古い。結構——においがしてる。ルルが——感じてる」
老いた男が——頷いた。
子供も——頷いた。
二人の動きが——揃っていた。
揃い方が——昨日と、また、違った。
声が届いた後の——揃い方だった。
声が届いた後から——遠くを向いた、揃い方だった。
―――
カインが——静かに、口を、開いた。
「……記録に——もう少し、あります」とカインが言った。「『古いものの声が届かなくなった原因は、近くのものと同じとは限らない。長い時間が経っているため——声が止められた理由も、止められた形も、積み重なって変わっていることがある』」
「積み重なって——変わってる、か」とジンが言った。
「……そうです」とカインが言った。「新しいものは——止められた形がはっきりしている。でも古いものは——長い時間で形が変わっている。声の形が、最初と違う。だから——受け取る前に、形を確かめる必要があります」
「形を——確かめる」とシアが、静かに、言った。
「……そうです」とカインが言った。「焦らずに——形を確かめながら、近づく。古いものほど——焦りが一番の敵です。形を確かめずに近づくと——声ではなく、積み重なった時間の重さだけが来て、受け取りきれなくなる。そういう記録が、あります」
ジンが——遠くの方角を、また、見た。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、した。遠くて古いにおいだ。でも——止まってない。ゆっくり、でも、来てる。急いでない。こっちが急がなければ——ゆっくり、来てくれる。環境そういうにおいだ」
「急がなければ——ゆっくり来てくれる、か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「そういうにおいだ」
―――
老いた男が——ジンの前に、来た。
子供も——隣に、来た。
口が——二人とも、動いた。
「……行ってきて——って、言ってる」とルルが言った。「二人とも——言ってる。自分たちと——同じようなにおいが、遠くにある。だから——行ってきて。そういうにおいだ」
「自分たちと——同じ、か」とジンが、二人を、見た。
老いた男が——頷いた。
子供も——頷いた。
また——揃った。
ルルが、少し、目を、細めた。
「……においが——また、動いた。二人から——送り出すにおいが、した。届いたから——送り出せる。昨日の集落の老女と——同じにおいだ。でも——今日は、二人で、送り出してる。二人で——行ってきて、って、言ってる。そういうにおいだ」
「二人で——送り出してくれてるか」とジンが、静かに、言った。
老いた男が——また、頷いた。
子供も——また、頷いた。
声が届いた後の——揃い方で。
―――
ジンが——二人の前に、立った。
「……届いた」とジンが言った。「二つとも——ちゃんと、届いた。道が——残ってる。切れない道が。次も——行く。また、届ける」
老いた男が——口を、開いた。
「……また、来てください」と老いた男の声が、した。声が——低く、かすれていた。でも——届いた。「切れない道を——持っていてください」
子供も——口を、開いた。
「……また、来てください」と子供の声が、した。声が——小さく、細かった。でも——届いた。「一緒に——待ちます」
ジンが——二人を、見た。
「……また、来る」とジンが言った。「切れない道——持っていく」
老いた男が——頷いた。
子供も——頷いた。
二人の動きが——揃っていた。
声が届いた後の——揃い方で。
ゆっくりと——一緒に。
―――
一行は——歩き始めた。
集落が——後ろになった。
二人が——後ろに、いた。
ルルが、少し、後ろを振り返った。
「……二人が——見てる」とルルが言った。「見送ってる。届いた後のにおいで——見送ってる。切れない道のにおいも——してる。昨日届けた道が——ちゃんと、残ってる。二つ分の太い道が——残ってる。消えない。そういうにおいだ」
「残ってる——か」とジンが、前を向いたまま、言った。
「……うん」とルルが言った。「消えてない。行った後も——残ってる。そういうにおいだ。あと——」
ルルが、鼻先を、前の方角に向けた。
「……前からのにおいが——また、濃くなってきてる。遠くて古いにおいだ。歩いてるから——近づいてる。でも——昨日のにおいとは、やっぱり、違う。もっと、遠い時間から、来てる。そういうにおいだ」
ジンが——前を、向いた。
道が——続いていた。
―――
しばらく——歩いた。
セレクが、静かに、口を、開いた。
「……教会の記録に——こうあります」とセレクが言った。「『古いものの二つで一組には、長い時間の中で互いが互いの依代になっているものがある。声の道が止まった後も——依代としての繋がりだけは残る。その繋がりは、声の道とは別の道だ』」
「依代としての——繋がり」とジンが、低く、繰り返した。
「……そうです」とセレクが言った。「老人と子供の間には、声の道と、一緒にいた道の、二つがありました。古いものの場合——その二つに加えて、依代の道が加わることがあります。声が届かなくなった後も、長い時間をかけて互いが互いを支えた時間が、道として残る。古いからこそ——道が、多い」
「道が——多い、か」とノアが、静かに、言った。
「……そうです」とセレクが言った。「多いから——受け取る時間も、かかります。でも——多い道は、切れない。どれか一本が細くなっても、他の道が支える。古いものの強さは、そこにある、と、思います」
ジンが——少し、目を、細めた。
「……道が多い——か」とジンが言った。
「……そうです」とセレクが言った。「昨日の二人とは——また、違う聞き方が、要るかもしれません」
―――
道の途中に——水場があった。
一行は、そこで、少し、休んだ。
ルルが——鼻先を、遠い方角に向けたまま、息を、止めた。
「……においが——また、変わってきた」とルルが言った。「遠いけど——昼よりずっと、濃くなってきてる。でも——今日と昨日で、また、感じ方が違う。昨日の朝は、においの形がはっきりしてた。老いた人のにおいと、子供のにおい、って、わかった。でも——今日のにおいは、形が、はっきりしない」
「形が——はっきりしない」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「二つ——どちらも、してる。消えていくにおいだ。でも——どちらのにおいが、先に消えようとしてるのか、まだ、わからない。形が——混ざってる。長い時間——一緒にいたから、混ざってるのかもしれない。そういうにおいだ」
「混ざってる——か」とジンが、低く、言った。
「……うん」とルルが言った。「でも——消えていくにおいだ。二つとも、消えていく。どちらが先かはわからない。でも——消えていく。急いだ方がいい、かもしれない。そういうにおいだ」
ジンが——立ち上がった。
「……行く」とジンが言った。
―――
夕暮れが——近かった。
道の先に——集落が、見えた。
小さな、集落だった。
昨日の集落より——小さかった。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——した。二つ——どちらも、ここだ。でも——」
ルルが、少し、間を置いた。
「……人の、においじゃない」とルルが言った。「二つのにおいのうち——一つは、人のにおいだ。でも——もう一つは、人のにおいじゃない。何か——別のものだ。何かはわからない。でも——人じゃない。それが——一組になってる。そういうにおいだ」
「人と——人じゃないもの、か」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。「昨日の老いた人と子供のように——二人、ってわけじゃない。一人と——何か別のもの。一組になってる。そういうにおいだ」
カインが——写しを、手に取った。
「……記録には——『人と人でない者の一組は、声の道の形が人と人の場合と異なる。人でない者の声の形を、聞き手はまず確かめなければならない。形を知らずに受け取ろうとすると——声ではなく、形そのものが、聞き手に届く。その重さは、人の声とは比べものにならない』と、あります」
全員が——カインを、見た。
「……形を——確かめる」とジンが、低く、言った。
「……そうです」とカインが言った。「焦らずに。形を確かめてから——受け取る。古いものほど——形が変わっている。今回は、人でない者の声の形です。一番、確かめなければならない」
「わかった」とジンが言った。
―――
集落の入り口に——人影が、あった。
一つ——あった。
老いた、女の人だった。
老女が——道の脇に、立っていた。
一人で——立っていた。
でも——
ルルが、息を、止めた。
「……においが——した。老女から——消えていくにおいが、した。でも——老女の隣から——また、別の、消えていくにおいが、した。老女の隣に——何かが、いる。見えない。でも——いる。老女と——一緒に、いる。ずっと——一緒に、いた。そういうにおいだ」
「見えない——か」とシアが、静かに、言った。
シアが——空間を、探った。
「……ある」とシアが言った。「老女の隣に——糸が、ある。でも——昨日とは、また、違う。昨日は三本だった。今日は——二本だ。でも——二本のうちの一本が、老女の糸じゃない。老女の糸と——もう一本。もう一本が——老女の隣に、ある。形が、はっきりしない。昨日の真ん中の糸とは——違う。形が——揺れてる。一定じゃない。そういう見え方だ」
「形が——揺れてる、か」とジンが言った。
「……うん」とシアが言った。「揺れてる。老女の糸は——揺れてない。でも——もう一本が、揺れてる。ずっと、揺れてる。止まらない。そういう見え方だ」
―――
ジンが——老女の前に、近づいた。
老女が——ジンを、見た。
口が、動いた。
声は——届かなかった。
でも——ルルが、息を、止めた。
「……待ってた——って、言ってる」とルルが言った。「ずっと——待ってた。来てくれた。そういうにおいだ。でも——」
ルルが、少し、間を置いた。
「……一人じゃない——って、においが、した。老女の隣——見えないところに、誰か、いる。ずっと——一緒にいる。声が届かなくなってから——ずっと、一緒にいる。離れない。離れたくない。でも——消えていく。そういうにおいだ。老女も——それがわかってる。隣に——いるのがわかってる。声は届かないけど——いるのが、わかってる。そういうにおいだ」
「いるのが——わかってる、か」とジンが、老女を、見た。
老女が——頷いた。
それから——隣の、何もない空間を、見た。
口が——動いた。
声は——届かなかった。
でも——老女が、隣の空間に、向かって、口を、動かした。
ルルが、目を、細めた。
「……隣に——話しかけてる。声は届かない。でも——話しかけてる。ずっと——そうしてきた。声が届かなくなってから——ずっと、そうしてきた。そういうにおいだ」
―――
カインが——老女の前に、近づいた。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。老女を見たまま、言った。「『人と人でない者の一組において、声が止まった後も人でない者が傍を離れないのは——人でない者の道が、人の存在そのものを依代としているためだ。人がいる限り——人でない者は離れない。人でない者の声が消えていくのは、依代である人の声も同時に止まっているためだ。一組で止まっている』」
「一組で——止まってる」とノアが、静かに、言った。
「……そうです」とカインが言った。「老女の声と、隣の者の声が——一組で止まっている。どちらか一方だけが止まっているのではない。二つとも——同時に止まっている。だから——どちらかだけを先に受け取ることが、できない」
「どちらかだけでは——駄目か」とジンが言った。
「……そうです」とカインが言った。「昨日の老いた人と子供と——同じです。同時に、受け取る。ただ——今回は、人でない者の形を、先に確かめる必要があります。形を確かめてから——同時に、受け取る」
ジンが——老女と、老女の隣の空間を、交互に、見た。
「……わかった」とジンが言った。「形を——確かめる。急がない」
―――
五本目の糸が——穏やかに、揺れた。
ルルが、息を、止めた。
「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——揺れてる。見えない者を——感じてる。自分のことを——思い出してる。自分も——見えなかった。祠の中に——いた。でも、ノアが来てくれた。ノアには——見えなくても、いるのがわかった。今の老女と——同じだ。見えないけど——いるのがわかる。その時のことを——思い出してる。そういう揺れ方だ」
「アルト——」とノアが、小さく、言った。「見てるか。見えない者が——いる。老女には——わかってる。ちゃんと——わかってる」
五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。
―――
ジンが——老女の隣の、空間の前に、しゃがんだ。
地面を——通して、聞いた。
「……ある」とジンが、小さく、言った。「ここに——ある。地面を通して——ある。重さが、ある。人の重さとは——違う。でも——ある。消えかけてる。でも——ある。形が——揺れてる。一定じゃない。でも——ある。二つとも——ある」
ルルが、鼻先を、ジンが手を当てている地面の方角に向けた。
「……においが——した。ジンが地面に触れたから——においが、した。人でない者から——においが、した。消えていくにおいだ。でも——古い。ずっと古いにおいだ。老女よりも——ずっと古い。老女と一緒にいる時間より——ずっと前から、ある。そういうにおいだ。形は——揺れてる。でも、においは、ある。ちゃんと——ある」
「形が——揺れてるのは」とジンが、地面に手を当てたまま、言った。「どういうことだ」
「……わからない」とルルが言った。「でも——ずっと、揺れてる。止まらない。老女の隣に——ずっといる。でも、ずっと揺れてる。止まれない——みたいなにおいだ。止まりたいけど——止まれない。そういうにおいだ」
ジンが——少し、目を、細めた。
「……止まれない——か」とジンが、低く、言った。
―――
セレクが、静かに、口を、開いた。
「……教会の記録に——もう少し、あります」とセレクが言った。「『人でない者が依代である人のそばを離れられない理由は、二つある。一つは声の道が人に繋がっているためだ。もう一つは——声が止まったことへの驚きが、まだ、続いているためだ。驚きが続く限り——人でない者は形が定まらない。驚きが収まった時に——形が定まる』」
「驚きが——続いてる、か」とジンが、低く、繰り返した。
「……そうです」とセレクが言った。「声が止まった時——驚いた。それが、まだ、続いている。だから形が揺れている。驚きを収めるには——声が止まったことを、受け入れるしかない。受け入れた時——形が定まる。定まってから——声が戻れる」
「受け入れる——か」とノアが、静かに、言った。「声が止まったことを」
「……そうです」とセレクが言った。「老女がずっと話しかけていたのは——老女も、声が止まったことを、まだ、受け入れていなかったからかもしれません。二人とも——受け入れていない。だから、二組で——形が揺れている」
ジンが——老女を、見た。
老女が——ジンを、見た。
目が——細くなった。
何かが——あった。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、動いた。老女から——わかってる、ってにおいが、した。声が止まったことを——わかってた。でも——受け入れてなかった。それが——わかってた。今、ちゃんと、わかった、って、においが、した。そういうにおいだ」
―――
エリナが、手帳を、開いた。
ペンを、走らせた。
今日のこと——朝, ジンが「届いた分が積み重なっている」と言ったこと、ルルが「遠くて古いにおいがする」と言ったこと、カインが「積み重なるほど遠くが聞こえる」という記録を読み上げたこと、届けた集落の老人と子供が「送り出すにおい」で一行を見送ったこと、道の途中で「においの形が混ざっている」とルルが言ったこと、新たな集落に着いて老女の隣に「見えない者」がいることをシアがとルルが感じ取ったこと、カインが「人でない者は人の存在を依代としている」という記録を示したこと、セレクが「声が止まったことへの驚きが続く限り形が定まらない」という記録を示したこと、ジンが地面に触れて「形が揺れている、でもある」と言ったこと、アルトが「自分も見えなかった」ことを思い出すように揺れたこと、老女が「わかってた、受け入れてなかった」においになったこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、老女の隣に見えない者がいることを知りました。老女はずっと、見えないものに話しかけていました。声が届かないまま、それでも話しかけていました。私は、それを聞いた時、ペンが、少し、止まりました。届かないことを知っていて、それでも話しかける。その時間が、どれほど長かったか、私には測れません。でも——話しかけ続けた。見えないものに、声が届かないまま、話しかけ続けた。セレクさんは「受け入れていなかったから」と言いました。でも、私は少し考えました。受け入れていなかったのではなく——届いてほしかったから、続けた。届かないとわかっていても、届いてほしかったから、続けた。それが、依代という道を、今日まで細くても切らずに残した。届かなくても、あるものは、ある。私はここ数日、そう書き続けています。今日のことも——きっと、そうだと思います。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
集落は——静かだった。
でも——
何かが、そこに、あった。
見えなかった。
でも——あった。
老女の隣に——ちゃんと、あった。
揺れながら——あった。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
ジンは——地面の方角に、手を、当てた。
地面を——通して。
「……聞こえてる」とジンが、小さく、言った。「形は——揺れてる。でも——ある。消えない。二つとも——ある。老女も——隣の者も、ある。明日も——ここにいる。形を——確かめる。急がない。でも——ここにいる。ちゃんと——ここにいる」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——何かが、そこに、あった。
昨日の集落とも、老女と木の集落とも——また、違う何かが、あった。
見えない者が、揺れながら——そこに、あった。
穏やかには——揺れていなかった。
でも——あった。
暖炉の火が——穏やかに、揺れた。
台地の風が——遠く、あった。
アルトが——見ていた。
一行の背を——押していた。
夜が——深くなった。
見えない者が——揺れながら、あった夜が。
ゆっくりと——深くなった。
―――
― 第84話・了 ―
―――
次話予告:
翌朝、ルルが鼻先を向ける。「……においが——また、変わってきた。昨日より——形が、少し、はっきりしてきた。老女のにおいと——隣の者のにおいが、少し、分かれてきた。分かれてきたけど——繋がってる。分かれながら、繋がってる。そういうにおいだ。隣の者の揺れが——少し、小さくなってきた。止まりかけてる、んじゃない。落ち着いてきてる。そういうにおいだ」。カインが写しを開く。「記録には——『人でない者の驚きが収まり始めた時、まず、においの形が定まってくる。定まった形を聞き手が受け取ることで、人でない者は「形を持っている」ことを知る。形を知ることが、次の段階への鍵だ』とあります」。ジンが老女の隣の空間に向かって、地面に手を当てる。「……落ち着いてきてる——か。聞こえてる。形——見えてきた。確かめる。急がない。でも——ここにいる」。五本目の糸が——穏やかに、前を向く。




