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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第六章「二つで一組の話」

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第83話「においが震えてる、というルルの声と、二人が同時でなければならない、というカインの声と、二つとも、全部、届いた、というジンの声と、道の途中の集落の朝」

朝が、来た。


集落の朝は——静かだった。


でも——


昨日と、違った。


何かが——また、変わっていた。


昨日は、一歩手前まで来た夜だった。


今日は——


一歩手前が、震えたまま、続きから、あった。


それだけで、十分だった。


―――


ジンが、目を覚ました。


すぐに——地面の方角に、手を、向けた。


地面を——通して、聞いた。


何かが——あった。


昨日とは——また、違った。


重さが——違った。


昨日は——「声の一歩手前が、来た」という感触だった。


でも今日は——


「一歩手前が、止まらずに、震えてる」という感触だった。


「……震えてる」とジンが、小さく、言った。「止まってない。夜の間も——ずっと、震えてた。消えようとしてない。声になろうとして——震えてる。二人とも——震えてる。同じリズムで——震えてる」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——何かが、こちらに向かっていた。


昨日より——ずっと、大きく。


声になろうとして——向かっていた。


―――


ルルが、目を覚ました。


すぐに——鼻を、向けた。


後ろ——台地の方角。穏やかな、温かいにおい。アルトが、台地から、こっちを見ている。


前——集落の、二人がいる方角。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、動いた」とルルが言った。「昨日の夕方から——ずっと、動いてる。止まってない。でも——今日は、昨日とまた、違う」


ジンが——少し、間を置いた。


「……何が——違う」とジンが言った。


「……震えてる」とルルが言った。「においが——震えてる。昨日の夕方は、目が揺れて、声の一歩手前が来た。スキル今日の朝は——においそのものが、震えてる。声になろうとして——においが、震えてる。二人とも——震えてる。真ん中のにおいも——一緒に、震えてる。三本——全部、震えてる。そういうにおいだ」


「三本——全部、震えてる」とジンが、低く、言った。


「……うん」とルルが言った。「昨日は目が揺れた。今日は——においが揺れてる。もう一段——来てる。そういうにおいだ」


―――


カインが、写しを、広げた。


「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『声の一歩手前が来た翌朝、人と人の場合——最初に届くのは声ではない。それは、二人が互いを呼ぼうとした時に生まれた、震えだ。二人の震えが同時に来ることで、道が震えを声に変える。二人が同時でなければ——声にはならない』」


全員が——カインを、見た。


「……続きには——こうあります」とカインが言った。「『震えを声に変えるのは、聞き手ではない。道そのものだ。聞き手は、震えが来ている間、ただ、そこにいる。焦らない。二人の震えが重なった時——道が動く。道が動いた時——声が来る』」


しばらく——誰も、何も、言わなかった。


「道が——声に変える」とジンが、低く、繰り返した。「俺たちじゃない——か」


「……そうです」とカインが言った。「焦って聞こうとしても——声は来ない。二人の震えが同時に重なるのを待つ。昨日届いた静けさが——今日の場所になってる。場所はある。後は——二人の震えが、重なる時を待つだけです」


「同時に——重なる」とノアが、静かに、言った。


「……そうです」とカインが言った。「老女の時は——片方が先に声になり、それが引き金になって、もう片方が来た。でも人と人の場合は違う。昨日も同時に来た。今日も——二人の震えが同時に重なった時に、道が声に変える。その一瞬を、静かに待つ」


ジンが——二人の方角を、見た。


「……わかった」とジンが、低く、言った。「待つ」


―――


老いた男が——集落の端に、来た。


子供も——隣に、来た。


二人で——また、道の脇に、立っていた。


いつもの場所に——いつも通り、立っていた。


でも——今日は、昨日と少し、違った。


二人の目が——落ち着いていた。


待てる目だった。


ルルが、鼻先を、二人の方角に向けた。


「……においが——また、変わってた」とルルが言った。「二人から——昨日と違うにおいが、した。昨日は信じていいかどうかわかってないにおいだった。今日は——信じてる。信じて、待ってる。来るのが——わかってる。そういうにおいだ」


「信じて——待ってるか」とジンが、二人を、見た。


老いた男が——ジンを、見た。


子供も——ジンを、見た。


口が——二人とも、動いた。


声は——届かなかった。


でも——ルルが、静かに、頷いた。


「……今日——来る、って、言ってる」とルルが言った。「二人とも——わかってる。今日、来るのが、わかってる。怖くない。ただ——待ってる。そういうにおいだ」


―――


ジンが——二人の前に、しゃがんだ。


「……聞こえてる」とジンが言った。声が——低かった。「震えてるのも——聞こえてる。二つとも——同じリズムで、震えてる。真ん中も——震えてる。今日——来る。ここにいる。全部——受け取る」


老いた男が——目を、細めた。


子供も——目を、細めた。


口が——二人とも、動いた。


声は——届かなかった。


でも——ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、動いた。二人から——安心したにおいが、した。ジンが『聞こえてる』って言ったから——安心した。震えてるのを、ちゃんと、聞いてもらえてる。そういうにおいだ。二人とも——同時に、安心した。そういうにおいだ」


「同時に——か」とジンが、二人を、見た。


老いた男が——頷いた。


子供も——頷いた。


二人の動きが——また、揃っていた。


―――


ノアが——二人の前に、近づいた。


しゃがんで——地面に、手を、当てた。


「……ある」とノアが、静かに、言った。「昨日より——ずっと、大きい。震えてる。二つとも——震えてる。同じリズムで——震えてる。来る。今日——来る」


ルルが、鼻先を、ノアの方角に向けた。


「……においが——した。ノアから——また、覚えてるにおいが、した。アルトが震えてた時のにおいを——覚えてる。あの時——震えが声になった。今日も——同じだ。二人の震えが——アルトの震えと同じリズムだ。そういうにおいだ」


「同じリズム——か」とジンが言った。


「……うん」とルルが言った。「アルトの震えと——同じだ。声になる前の——同じリズムだ。今日——来る。そういうにおいだ」


ノアが——二人を、見た。


「……俺も——震えを知ってる」とノアが、地面に手を当てたまま、言った。「アルトが震えてた時——一緒にいた。今日も——一緒にいる。声になるのを——一緒に、待つ」


老いた男が——ノアを、見た。


子供も——ノアを、見た。


口が——二人とも、動いた。


声は——届かなかった。


でも——ルルが、目を、細めた。


「……ありがとう——って、言ってる」とルルが言った。「知ってる人が——また来てくれた、って、においだ。一緒に待ってくれる——ってわかってる。そういうにおいだ」


―――


シアが、空間を、静かに、探った。


「……見えてきた」とシアが言った。「昨日より——ずっと、はっきり、見える。三本——全部、昨日より、ずっと、太い。でも——」


シアが、少し、間を置いた。


「……三本——全部、震えてる」とシアが言った。「同じリズムで——震えてる。昨日は二人の糸が真ん中に追いついていった。でも今日は——三本が、最初から、同じリズムになってる。揃ってる。昨日、声の一歩手前が来たから——今日は最初から、揃ってる。そういう見え方だ」


「最初から——揃ってるか」とジンが言った。


「……うん」とシアが言った。「揃ってるから——あとは声になるだけだ。道が整ってる。声を待ってる。今日——来る。そういう見え方だ」


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、変わった。三本が同じリズムで震えてる。揃ってる。揃ってるから——道も、整ってる。道が声を待ってる。そういうにおいだ」


―――


セレクが、静かに、口を、開いた。


「……教会の記録に——こうあります」とセレクが言った。「『二人で一組の声が道を通る時、道はまず二人の震えを受け取り、一つに束ねる。束ねた後——声として放つ。この束ねの瞬間、道は一息だけ止まる。止まった後に——声が来る』」


ジンが——セレクを、見た。


「……一息——止まる」とジンが、低く、繰り返した。


「……そうです」とセレクが言った。「震えが揃って、道が束ねる瞬間——一息だけ、静かになる。その静けさは、声が来る直前の静けさです。焦ってはいけない。その一息の静けさの後に——声が来る」


「一息の——静けさ」とノアが、静かに、言った。


「……そうです」とセレクが言った。「アルトの時も——そうでした。声になる直前、一瞬だけ、静かになった。今日——その静けさが来ます。その後に——二つ、同時に、来ます」


ジンが——二人を、見た。


「……一息——待つ」とジンが言った。


「……そうです」とセレクが言った。「その一息を、静かに、待つ。それだけです」


―――


昼が——来た。


集落の人たちが——食事を、用意してくれた。


四人で——食べた。


声は——届かなかった。


でも——食事は、届いた。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、変わった」とルルが言った。「二人から——昨日とまた、違うにおいが、した。昨日は二人で待てるにおいだった。今日は——今日届く、ってわかってるにおいだ。ちゃんと——わかってる。怖くない。信じて、待てる。そういうにおいだ」


「今日届く——ってわかってるか」とジンが、静かに、言った。


「……うん」とルルが言った。「震えてるのが——自分たちでも、わかってる。わかってるから——怖くない。来るのが——わかってるから、待てる。そういうにおいだ」


ジンが——老いた男を、見た。


老いた男が——頷いた。


子供も——頷いた。


二人の動きが——また、揃った。


―――


午後が——来た。


ジンと、ノアと、カインと——シアが、再び、二人の前に、集まった。


四人が——そこにいた。


感じていた。


待っていた。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、大きく、動いた」とルルが言った。「四人でいる。四人が——感じてる。震えが——また、大きくなってる。止まってない。昼より——ずっと、大きくなってる。もうすぐ——もうすぐ、道が、束ねる。そういうにおいだ」


ジンが——地面に手を当てたまま、少し、目を、細めた。


静けさが——あった。


ジンの中に——静けさが、あった。


ノアの中にも——静けさが、あった。


カインの中にも——静けさが、あった。


シアの中にも——静けさが、あった。


四人が——静けさを、持っていた。


―――


五本目の糸が——大きく、穏やかに、揺れた。


ルルが、息を、止めた。


「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——大きく、揺れてる。震えを——感じてる。自分の時のことを——思い出してる。ノアと一緒に震えた時のことを——思い出してる。声になった瞬間のことを——思い出してる。もうすぐだって——わかってる。そういう揺れ方だ。一緒に——待ってる」


「アルト——」とノアが、地面に手を当てたまま、小さく、言った。「見てるか。もうすぐ——来るぞ。二つとも——一緒に、来るぞ」


五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。


―――


夕暮れが——近かった。


四人が——二人の前に、いた。


感じていた。


静かだった。


震えが——大きくなっていた。


三本——全部、大きくなっていた。


同じリズムで——大きくなっていた。


ルルが——息を、止めた。


「……においが——また、大きく、動いた」とルルが言った。「三本の震えが——重なってきてる。ほとんど——同じになってきてる。もうすぐ——束ねる。もうすぐ——道が、束ねる。そういうにおいだ」


「もうすぐ——か」とジンが、地面に手を当てたまま、言った。


「……うん」とルルが言った。「でも——もう少し。もう少し、のままで、大きくなってる。セレクさんが言ってた通りだ。束ねる前に——一息、止まる。その一息が——もうすぐ、来る。そういうにおいだ」


「一息——来るか」とジンが、低く、言った。


「……うん」とルルが言った。「来る。もうすぐ——来る」


―――


老いた男が——子供の方を、見た。


子供が——老いた男の方を、見た。


二人の目が——合った。


その瞬間——


全てが、一息だけ、静かになった。


震えが——止まった。


においが——止まった。


糸が——止まった。


一息だけ——


全て、止まった。


ジンが——目を、細めた。


「……来る」とジンが、小さく、言った。


―――


声が——


届いた。


「……」


「……」


二つの声が——同時に、した。


昨日より——ずっと、大きかった。


言葉に——なりかけていた。


二人の口が——同じ時に、動いた。


老いた男が——子供を、見たまま、口を、開いた。


子供が——老いた男を、見たまま、口を、開いた。


声が——


また、届いた。


「……」


「……」


今度は——言葉に、なっていた。


細く——小さく——でも、言葉に、なっていた。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——全部、動いた。二人の声が——同時に届いた。二人で一組のまま——同時に、来た。真ん中のにおいが——ものすごく、動いた。道が——繋がってる。二人の声が——道に乗ってる。一組のまま——乗ってる。そういうにおいだ」


「二つとも——か」とジンが、静かに、言った。


「……うん」とルルが言った。「二つとも。同時に。一組のまま——来た。そういうにおいだ」


―――


老いた男が——また、口を、開いた。


今度は——言葉に、なっていた。


「……いてくれた」と老いた男の声が、した。声が——低く、かすれていた。「ずっと——いてくれた」


子供も——また、口を、開いた。


「……いてくれた」と子供の声が、した。声が——小さく、細かった。「ずっと——いてくれた」


二人の声が——同じ言葉で、した。


同じ言葉が——二つ、届いた。


ジンが——二人を、見た。


「……届いた」とジンが言った。「ちゃんと——届いた。二つとも——全部、届いた」


老いた男が——目を、大きく、見開いた。


子供も——目を、見開いた。


二人とも——見開いた。


同じように——見開いた。


それから——二人の目が、細くなった。


同じように——細くなった。


泣いていた。


二人とも——泣いていた。


同じように——泣いていた。


―――


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、変わった。二人から——届いた声のにおいが、した。声が届いてから——においが、全然、違う。二人で——ずっと、一緒にいたにおいが、声に乗ってる。真ん中のにおいも——変わった。二人の間のにおいが——声を通して、初めて、重さになった。一緒にいた時間の重さが——声で届いてから、本当の重さになった。そういうにおいだ」


「本当の重さ——か」とジンが、二人を、見た。


老いた男が——頷いた。


子供も——頷いた。


また——二人の動きが、揃った。


でも——今度は、違った。


声が——届きながら、揃っていた。


声が届いた後の——揃い方だった。


―――


しばらく——誰も、何も、言わなかった。


カインが——写しを、静かに、折り畳んだ。


「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『人と人の声が道を通った後、二人の間の道は元より太くなる。細くなった分だけ——太くなる。声が届いた後の道には、二人で一緒にいた時間の重さが全て乗っている。その道は——何があっても、切れない』」


「何があっても——切れない、か」とジンが、二人を、見た。


「……そうです」とカインが言った。「ザルヴァに止められた時間が長かった分——道は、それだけ、太くなって戻ります。二人でずっと一緒にいたから——それだけの重さが、道に乗っています。切れない道が——ちゃんと、残ります」


「ちゃんと——残るか」とノアが、静かに、繰り返した。


「……残ります」とカインが言った。「二つ分——ちゃんと、残ります」


ジンが——老いた男と、子供を、見た。


「……残る——か」とジンが言った。「ちゃんと——残るか」


老いた男が——頷いた。


子供も——頷いた。


また——揃った。


―――


五本目の糸が——大きく、穏やかに、揺れた。


ルルが、息を、止めた。


「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——大きく、揺れてる。二つとも届いたのを——感じてる。自分のことを——思い出してる。ノアに名前を呼んでもらった時のことを——思い出してる。声で届いてから——重さが、全然、違った。その時のことを——思い出してる。自分の時とは違う。二人が——同時に届いた。そういう揺れ方だ。泣いてる。嬉しくて——泣いてる」


「アルト——」とノアが、空に向かって、小さく、言った。「見てたか。届いたぞ。二つとも——同時に、ちゃんと、届いたぞ」


五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。


―――


夕暮れが——来た。


老いた男が——ジンの前に、来た。


子供も——隣に、来た。


二人で——ジンの前に、立った。


口が——二人とも、動いた。


「……ありがとう」と老いた男の声が、した。声が——低く、かすれていた。でも——届いた。「三日——ここにいてくれた。声が——届いた。ありがとう」


「……ありがとう」と子供の声が、した。声が——小さく、細かった。でも——届いた。「ずっと——待ってたけど、来てくれた。ありがとう」


二人の「ありがとう」が——届いた。


声で——届いた。


ジンが——二人を、見た。


「……届いた」とジンが言った。「ちゃんと——届いた。二つとも——全部、受け取った」


老いた男が——頷いた。


子供も——頷いた。


また——揃った。


でも——また、今度も、違った。


声が届いた後の——揃い方だった。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、動いた. 二人から——声で届いたにおいが、した。一緒にいた時間の重さが——声で届いてから、また、違う重さになった。二人で——ずっと、一緒にいた。声が届かなくても——一緒にいた。その重さが、声で届いてから——本当の重さになった。そういうにおいだ」


「一緒にいた——重さか」とジンが、二人を、見た。


老いた男が——また、頷いた。


子供も——また、頷いた。


目が——二人とも、潤んでいた。


―――


エリナが、手帳を、開いた。


ペンを、走らせた。


今日のこと——朝, ルルが「においが震えてる、三本全部、同じリズムで震えてる」と言ったこと、カインが「二人が同時でなければ声にはならない、道が震えを束ねた後に声が来る」という記録を読み上げたこと、ノアが「アルトが震えてた時と同じリズムだ」と確信したこと、セレクが「束ねる前に一息だけ止まる、その後に声が来る」という記録を示したこと、昼食の時に二人が「今日届くのがわかってるにおい」になったこと、四人が静けさを持って待ったこと、アルトが「一緒に待ってる揺れ方」をしたこと、夕暮れ前に二人の目が合った瞬間に「一息だけ全てが止まった」こと、その後に二つの声が同時に届いたこと、二人が同じ言葉「いてくれた」を同時に言ったこと、カインが「細くなった分だけ太くなって戻る、何があっても切れない道が残る」という記録を示したこと、アルトが「嬉しくて泣いてる揺れ方」をしたこと、夕暮れに二人が声で「ありがとう」を届けたこと。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを止めた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、二人の声が届きました。「いてくれた」という同じ言葉が、二つ、同時に届きました。私は、その言葉を聞いた時、ペンが、止まりました。書かずに——ただ、聞きました。「いてくれた」という言葉は、声が届いてから初めて言えた言葉ではありませんでした。声が届かない間も——二人は、ずっと、一緒にいた。声が届かなくても、一緒にいることは、できた。だから、声が届いた時、一番最初に出た言葉が「いてくれた」だったのだと、思います。届かなくても、あるものは、ある。私はここ二日、そう書き続けました。今日、それが声になりました。声になったのは、届かなくても、あったから。届いたから、あったのではない。ずっと、あったから——声になった。私は、その順番を聞いた時、少し、考えました。届かなくても、あるものは、ある。それは、声だけじゃないかもしれない。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


集落は——静かだった。


でも——


何かが、そこに、あった。


届いた後の——静かな何かが。


穏やかに——そこに、あった。


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


ジンは——地面の方角に、手を、当てた。


地面を——通して。


「……届いた」とジンが、小さく、言った。「二つとも——ちゃんと、届いた。同時に——届いた。道が——残ってる。切れない道が——ちゃんと、残ってる。二人の間の——切れない道が。何があっても——切れない。ちゃんと——残ってる」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——何かが、そこに、あった。


老女の集落とも、昨日とも——また、違う何かが、あった。


二人が同時に——届いた後の何かが、あった。


穏やかに——そこに、あった。


暖炉の火が——穏やかに、揺れた。


台地の風が——遠く、あった。


アルトが——見ていた。


一行の背を——押していた。


夜が——深くなった。


二つが同時に——届いた夜が。


穏やかに——深くなった。


―――


― 第83話・了 ―


―――


次話予告:


翌朝、ルルが鼻先を向ける。「……においが——また、変わってきた。集落が——遠くなっていく。でも——消えてない。届いた後のにおいは——消えない。遠くなっても——残ってる。切れないにおいだ。そういうにおいだ。あと——また、においが、してきた。遠くから——来てる。次の——においだ。消えていくにおいだ。でも——今度は、また、二つかもしれない。でも——昨日とまた、違うにおいだ。人と人のにおいだけど——昨日と、少し、違う。もっと、遠い。もっと、古い。そういうにおいだ」。カインが写しを開く。「記録には——『二つで一組を届けた者は、次の一組を早く感じ取る。それは続く。届けた者の中に積み重なっていく。積み重なるほどに——聞き手は、遠く、古いものの声も、聞こえるようになる』とあります」。五本目の糸が——穏やかに、また、次の方角を、向く。

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