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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第六章「二つで一組の話」

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第80話「においが震えてる、というルルの声と、声の一歩手前が声になる、というカインの声と、二つとも、全部受け取る、というジンの声と、道の途中の集落の朝」

朝が、来た。


集落の朝は——静かだった。


でも——


昨日と、違った。


何かが——また、変わっていた。


昨日の夕方から——ずっと、動いていた。


止まっていなかった。


夜になっても——止まっていなかった。


朝になっても——


まだ、動いていた。


それだけで、十分だった。


―――


ジンが、目を覚ました。


すぐに——木の方角に、手を、向けた。


地面を——通して、聞いた。


何かが——あった。


昨日より——また、違った。


重さが——違った。


昨日の夕方は——「一歩手前に来た」という感触だった。


でも今日は——


「一歩手前の、すぐそこにいる」という感触だった。


「……動いてる」とジンが、小さく、言った。「昨日の夕方から——ずっと、動いてる。止まってない。夜も——朝も——ずっと、動いてる。消えようとしてない。来ようとしてる。そういう動き方だ」


地面の奥から——返事は、なかった。


便も——何かが、そちらから、こちらに向かっていた。


昨日より——ずっと、近いところから。


来ようとして——向かっていた。


―――


ルルが、目を覚ました。


すぐに——二つの方角に、鼻を、向けた。


後ろ——台地の方角。穏やかな、温かいにおい。アルトが、台地から、こっちを見ている。


前——集落の、木のある方角。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、動いた」とルルが言った。「昨日の夕方から、ずっと、動いてる。止まってない。薄い方が——震えてる。においが、震えてる。声じゃない。でも——何かが、震えてる。声になろうとして——震えてる。そういうにおいだ」


ジンが——少し、間を置いた。


「……震えてる——か」とジンが言った。


「……うん」とルルが言った。「濃い方も——動いてる。薄い方が震えるのに——引っ張られてる。二つが——引き寄せ合ってる。昨日より、ずっと——引き寄せ合ってる。そういうにおいだ」


―――


カインが、写しを、広げた。


「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『声の一歩手前が来た翌朝、最初に届くのは——声ではない。それは、声を出そうとした時に生まれた、震えだ。震えを受け取った者が、初めて声を受け取る準備が整う』」


全員が——カインを、見た。


「……続きには——こうあります」とカインが言った。「『震えを受け取るとは、声として聞こうすることではない。震えが来ようとしているのを、ただ、感じることだ。聞こうとした瞬間——震えは声になる。その順番を、間違えてはならない』」


しばらく——誰も、何も、言わなかった。


「震えを——感じる」とジンが、低く、繰り返した。「聞こうとするんじゃない——か」


「……そうです」とカインが言った。「焦って聞こうとすると——震えが引っ込む。来ようとしているのを、ただ、感じる。そうすれば——震えの方が、声になってこちらに来る。そういう順番です」


「感じてから——聞こえる」とノアが、静かに、言った。


「……そうです」とカインが言った。「そして——震えが声になった瞬間、もう片方も、引き寄せられる。二つで一組だから。片方が声になれば——もう片方も、声になろうとする。その連鎖を、静かに、待つ」


ジンが——木の方角を、見た。


「……わかった」とジンが、低く、言った。


―――


老女が——木の根元に、来た。


今朝も——また、来た。


いつもの場所に——しゃがんだ。


根元に——手を、当てた。


口が、動いた。


声は——届かなかった。


でも——ルルが、少し、頷いた。


「……おはよう——って、言ってる」とルルが言った。「今日も——言えた。届かないけど——言えた。でも——」


ルルが、息を、止めた。


「……今日の『おはよう』は——また、違う」とルルが言った。「昨日より——においが、もっと、重い。震えてるにおいだ。老女も——感じてる。何かが来ようとしてるのを——感じてる。怖くない。待てる。でも——震えてる。そういうにおいだ」


「老女も——感じてるか」とジンが、老女を、見た。


老女が——ジンを、見た。


口が、動いた。


声は——届かなかった。


でも——目が、少し、潤んでいた。


「……もうすぐ——って、言ってる」とルルが言った。「自分でも——わかってる。もうすぐ、来る。待てる——でも、震えてる。そういうにおいだ」


―――


ノアが——木の根元に、近づいた。


しゃがんで——根に、手を、当てた。


「……ある」とノアが、静かに、言った。「昨日より——ずっと、近い。続きから——また、来てる。震えてる。ちゃんと——聞こえてる」


ルルが、鼻先を、木に向けた。


「……においが——また、動いた。ノアが触れたから——木の根元のにおいが、動いた。昨日より——ずっと、速く、動いた。覚えてる。ノアが三日、来てくれたのを——覚えてる。安心してる。そういうにおいだ」


「安心して——か」とジンが言った。


「……うん」とルルが言った。「また来た——ってわかってる。逃げない——ってわかってる。だから——安心してる。安心してるから——震えが、大きくなれる。安心してるから——来ようとできる。そういうにおいだ」


ノアが——根元から、少し、離れなかった。


「……俺も——また来た」とノアが、根元に手を当てたまま、言った。「三日——来た。今日も——来た。消えなくていい。二つとも——消えなくていい。来ていい。ちゃんと——受け取る」


―――


ジンが——老女の前に、しゃがんだ。


根元に——手を、向けた。


地面を——通して。


「……聞こえてる」とジンが言った。声が——低かった。「震えてるのも——聞こえてる。来ようとしてるのも——わかってる。急がない。ここにいる。来ていい。全部——感じてる」


ルルが、息を、止めた。


「……動いた」とルルが言った。「薄い方のにおいが——また、動いた。ジンの声に——引き寄せられてる。昨日より——ずっと、大きく、動いた。急がない——って、ジンが言ったから。待てる——ってわかったから。大きく、動いた。そういうにおいだ」


「大きく——動いたか」とジンが、根元に手を当てたまま、言った。


「……うん」とルルが言った。「でも——まだ、声じゃない。震えだ。声の一歩手前——のまま、大きくなってる。もう少し。でも——もう少し、のままで大きくなってる。そういうにおいだ」


―――


老女が——静かに、根元に、手を、当てた。


ジンの隣に——静かに、いた。


ノアの隣にも——静かに、いた。


三人が——そこにいた。


それだけだった。


何も——しなかった。


ただ——いた。


感じていた。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、動いた。三人が——一緒に、感じてる。木の根元のにおいが——また、大きく、動いた。震えてるにおいが——どんどん、大きくなってる。声になろうとしてる。もうすぐ——声になろうとしてる。そういうにおいだ」


「もうすぐ——か」とジンが、根元に手を当てたまま、言った。


「……うん」とルルが言った。「でも——まだ、感じる。まだ——聞こうとしない。感じてるだけで——震えが来てる。カインさんが言ってた通りだ。感じてるから——来れる。そういうにおいだ」


―――


カインが——根元に、近づいた。


しゃがんで——その場に、手を、当てた。


「……記録で——ずっと、知っていた」とカインが、静かに、言った。「声の一歩手前が声になる——その瞬間のことを。でも——今日、ここで、感じる。知ってるんじゃなく——感じる」


ルルが、鼻先を、カインに向けた。


「……においが——した。カインから——昨日と違うにおいが、した。記録のにおいじゃない。ここのにおいだ。今日——ここにいるにおいだ。根元のにおいが——また、動いた。カインが加わったから——また、動いた。そういうにおいだ」


四人が——そこにいた。


感じていた。


待っていた。


―――


シアが、空間を、静かに、探った。


「……見えてきた」とシアが言った。「今日——昨日と、全然、違う。糸が——震えてる。二つの糸が——昨日より、ずっと、震えてる。繋ぎ目の糸が——一番、震えてる。繋ぎ目から——それぞれに、震えが、伝わってる」


「繋ぎ目が——震えてるか」とジンが言った。


「……うん」とシアが言った。「細い方の糸が——声になろうとして、震えてる。繋ぎ目を通して——太い方も、一緒に震えてる。二つが——同じリズムで、震えてる。引き寄せ合って——同じリズムになってる。そういう震え方だ」


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、変わった。二つが——同じリズムになってきた。一つが声になれば——もう一つも、来る。カインさんが言ってた通りだ。連鎖する。そういうにおいだ」


―――


セレクが、静かに、口を、開いた。


「……教会の記録に——こうあります」とセレクが言った。「『震えを感じた者の中に、静けさが生まれる。その静けさが、声を迎える場所になる。場所ができた時——声は来る』」


ジンが——セレクを、見た。


「……静けさが——場所になる」とジンが、低く、繰り返した。


「……そうです」とセレクが言った。「震えを感じながら、焦らずにいると——聞き手の中に、静かな場所ができる。声はその場所を見つけて——来る。今日——四人が根元にいて、感じている。場所は——できています」


「場所が——できてる」とノアが、静かに、言った。


「……そうです」とセレクが言った。「後は——来るのを待つだけです。今日——来ます。そういう震え方です」


ジンが——根元に手を当てたまま、少し、目を、細めた。


「……わかった」とジンが、低く、言った。「待つ」


―――


昼が——来た。


集落の人たちが——食事を、用意してくれた。


温かいものだった。


一行は——根元を、離れなかった。


少し——離れた場所で、受け取った。


老女も——一緒に、受け取った。


ジンが——受け取った。


「……ありがとう」とジンが言った。


集落の人たちが——頷いた。


ルルが、鼻先を、集落の方に、向けた。


「……においが——した。集落の人たちから——待ってるにおいが、した。声が届かない。でも——今日、届くのが——わかってる。ちゃんと——わかってる。そういうにおいだ」


「集落の人たちも——わかってるか」とジンが、静かに、言った。


「……うん」とルルが言った。「わかってる。今日——届く。震えが、そこまで来てるから——わかってる。全員——今日、届くのを待ってる。そういうにおいだ」


―――


午後が——来た。


四人が——再び、根元に、集まった。


老女も——来た。


五人が——そこにいた。


感じていた。


待っていた。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、大きく、動いた」とルルが言った。「五人でいる。五人が——感じてる。震えが——ずっと、大きくなってる。止まってない。昼より——ずっと、大きくなってる。もうすぐ——もうすぐ、来る。そういうにおいだ」


ジンが——根元に手を当てたまま、少し、目を、細めた。


何も——言わなかった。


ただ——感じていた。


静けさが——あった。


ジンの中に——静けさが、あった。


―――


五本目の糸が——大きく、穏やかに、揺れた。


ルルが、息を、止めた。


「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——大きく、揺れてる。震えを——感じてる。自分の時のことを——思い出してる。ノアが来てくれた時——声の一歩手前に来た時のことを。声になった瞬間のことを——思い出してる。あの時——誰かが感じてくれたから、来れた。そういう揺れ方だ。一緒に——待ってる」


「アルト——」とノアが、根元に手を当てたまま、小さく、言った。「見てるか。来るぞ。もうすぐ——来るぞ」


五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。


―――


夕暮れが——近かった。


五人が——根元にいた。


感じていた。


静かだった。


ジンの中に——静けさが、あった。


ノアの中にも——静けさが、あった。


老女の中にも——静けさが、あった。


その静けさが——一つに、なっていた。


ルルが——息を、止めた。


「……においが——」とルルが、小さく、言った。「動いた。大きく——動いた。震えが——声になろうとして——」


ルルが——目を、大きく、細めた。


「……来る」とルルが言った。「来る。今——来る」


―――


老女が——口を、開いた。


口が——動いた。


声が——


届いた。


「……」


声が——した。


言葉に——なっていなかった。


でも——声が、した。


震えが——声に、なった。


細く——小さく。


でも——


届いた。


ジンが——根元に手を当てたまま、目を、細めた。


「……届いた」とジンが、低く、言った。「薄い方が——届いた。ちゃんと——届いた」


老女が——目を、大きく、見開いた。


口が——また、動いた。


また——声が、した。


今度は——少し、大きかった。


言葉に——なりかけていた。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、動いた。薄い方のにおいが——声になってから、木の方角のにおいも——動いた。引き寄せられてる。薄い方が声になったから——木の方も、来ようとしてる。連鎖してる。カインさんが言ってた通りだ。そういうにおいだ」


―――


木の根元から——何かが、した。


音では——なかった。


でも——何かが、あった。


震えが——あった。


ジンが——根元に手を当てたまま、目を、細めた。


「……来てる」とジンが、低く、言った。「木の方も——来てる。薄い方が声になったから——木の方も、来ようとしてる。ちゃんと——来てる」


シアが、空間を、探った。


「……糸が——動いた」とシアが言った。「細い方の糸が——声になった。繋ぎ目を通して——太い方の糸が、今——大きく、震えてる。震えてるんじゃない。声になろうとして——震えてる。もうすぐ——太い方も、来る」


「もうすぐ——か」とジンが、根元に手を当てたまま、言った。


「……うん」とシアが言った。「もうすぐ——来る。細い方が来たから——太い方も、来る。二つで一組だから。繋ぎ目を通して——来る。もうすぐ、来る」


―――


ジンが——根元に、もう一度、手を、当てた。


深く——当てた。


地面を——通して。


「……聞こえてる」とジンが言った。声が——低かった。「薄い方が——届いた。二つとも——ちゃんと、受け取る。来ていい。ここにいる。全部——受け取る」


根元から——何かが、した。


震えが——した。


大きな——震えが。


ノアが——目を、細めた。


「……来てる」とノアが、静かに、言った。「ちゃんと——来てる」


震えが——大きくなった。


大きく——なっていった。


それから——


届いた。


―――


音が——した。


木の根元から——音が、した。


低く——重く。


でも——


届いた。


声が——届いた。


老女が——目を、大きく、見開いた。


口が——動いた。


声が——また、した。


今度は——言葉に、なっていた。


細く——小さく——でも、言葉に、なっていた。


「……ありがとう」と老女の声が、した。


声が——届いた。


集落の人たちが——木の方角を、見ていた。


誰も——何も、言わなかった。


でも——


ルルが、息を、止めた。


「……においが——全部、変わった」とルルが言った。「二つとも——届いた。二つとも——声になった。老女の声と——木の声と。二つで一組が——二つとも、届いた。消えていくにおいが——消えた。届いた後のにおいに——全部、変わった。そういうにおいだ」


「二つとも——か」とジンが、静かに、言った。


「……うん」とルルが言った。「二つとも。一組——ちゃんと、一組で、届いた。環境そういうにおいだ」


―――


ジンが——根元から、手を、離した。


老女を——見た。


老女が——ジンを、見た。


口が——動いた。


「……ありがとう」と老女が、また、言った。


声が——届いた。


声で——届いた。


ジンが——老女を、見た。


「……届いた」とジンが言った。「ちゃんと——届いた」


老女が——頷いた。


目が——潤んでいた。


ゆっくりと——何度も、頷いた。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、動いた。老女から——届いた声のにおいが、した。声が届いてから——においが、全然、違う。言葉が届いた後のにおいは——声が届く前と、重さが、全然、違う。三日分の——重さがある。そういうにおいだ」


「三日分の——重さか」とジンが、老女を、見た。


老女が——また、頷いた。


また——目が、潤んだ。


でも——今度は、違った。


泣いていた。


声で——届きながら、泣いていた。


―――


夜が——来た。


暖炉の火が——穏やかに、揺れた。


ジンは——根元の方角に、手を、当てた。


地面を——通して。


「……届いた」とジンが、小さく、言った。「二つとも——ちゃんと、届いた。消えなかった。消えなくて——よかった。道が——残ってる。二つ分の、太い道が、残ってる。次に来る人が——また、ここにいれる。お前たちの声が——ちゃんと、残ってる」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——何かが、そこに、あった。


昨日までと——全然、違う何かが、あった。


届いた後の——何かが、あった。


穏やかに——そこに、あった。


暖炉の火が——穏やかに、揺れた。


台地の風が——遠く、あった。


アルトが——見ていた。


一行の背を——押していた。


夜が——深くなった。


二つで一組の声が——届いた夜が。


穏やかに——深くなった。


―――


ルルは——木の方角を、一度だけ、確かめた。


消えていくにおいが——しない。


届いた後のにおいが——する。


道が——残ってる。


そういうにおいを——確かめて、眠った。


―――


― 第80話・了 ―


―――


次話予告:


翌朝、ルルが鼻先を向ける。「……においが——また、変わってきた。集落が——遠くなっていく。でも——消えてない。届いた後のにおいは——消えない。遠くなっても——残ってる。そういうにおいだ。あと——もう一つ、においが、してきた。遠くから——来てる。次の——においだ。消えていくにおいだ。でも——今度は、一つだけじゃない。二つ——また、二つかもしれない。そういうにおいだ」。

カインが写しを開く。「記録には——『二つで一組を受け取った者は、次の二つを、より早く感じ取る。一度受け取ったものは、聞き手の中に残る。それが次の力になる』とあります」。

五本目の糸が——穏やかに、次の方角を、向く。

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