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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第六章「二つで一組の話」

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第79話「においが二つとも戻ってきてる、というルルの声と、二つを繋いでいる糸が先に戻る、というカインの声と、二つとも、ちゃんと受け取る、というジンの声と、道の途中の集落の朝」」

朝が、来た。


集落の朝は——静かだった。


でも——


昨日と、違った。


何かが——また、変わっていた。


木の方角から——何かが、した。


昨日より——また、違う何かが。


昨日は、薄かった。


今日は——


もう少し、ある。


それだけで、十分だった。


―――


ジンが、目を覚ました。


すぐに——木の方角に、手を、向けた。


地面を——通して、聞いた。


何かが——あった。


昨日より——また、違った。


重さが——違った。


昨日は——「一人じゃないと、気づいた」という感触だった。


でも今日は——


「続きから、ここにいる」という感触だった。


「……続きから、ある」とジンが、小さく、言った。


「昨日——ちゃんと、届いた。消えなかった。今日は——続きから、ここにいる。どちらも——消えてない。ちゃんと——残ってる」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——何かが、そこに、あった。


昨日とは——違う何かが。


続きから——穏やかに、そこに、あった。


―――


ルルが、目を覚ました。


すぐに——二つの方角に、鼻を、向けた。


後ろ——台地の方角。穏やかな、温かいにおい。アルトが、台地から、こっちを見ている。


前——集落の、木のある方角。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、戻ってきてる」とルルが言った。


「昨日より——濃い。二つとも——戻ってきてる。薄い方も——昨日より、ずっと、ある。消えてない。続きから——戻ってきてる」


「二つとも——か」とジンが、ルルを、見た。


「……うん」とルルが言った。


「……でも——薄い方は、まだ、薄い。もう少し——時間がかかる。昨日よりは、ずっと、ある。でも——まだ、薄い。急ぐんじゃなくて、でも——ちゃんと、続けないといけない。そういうにおいだ」


ジンが——少し、間を置いた。


「……急がずに——続ける」とジンが言った。


「……うん」とルルが言った。


「……急いだら——崩れる。でも、止まっても——また、薄くなる。続けながら、待つ。そういうにおいだ」


―――


カインが、写しを、広げた。


「……記録には——こうあります」とカインが言った。


「『二つで一組の声が戻る時、最初に戻るのは——二つを繋いでいる糸だ。糸が戻ってから、それぞれの声が、糸に沿って戻ってくる』」


全員が——カインを、見た。


「……続きには——こうあります」とカインが言った。


「『糸が見えた者は、糸を引っ張ってはならない。糸が自ら動く速さで——声は戻る。引いた者は、待てなかった者だ』」


しばらく——誰も、何も、言わなかった。


「糸が——自ら動く速さで」とジンが、低く、繰り返した。


「……そうです」とカインが言った。


「……焦って引き出そうとすると——糸が切れる。昨日、三人がただそこにいたことで糸が動き始めた。今日も——同じことを、続ける。ただ、いる。それだけです」


「待てなかった者——か」とノアが、静かに、言った。


「……そうです」とカインが言った。


「……記録には、待ちきれずに引いて、糸が切れた例が、幾つか残っています。今日は——昨日の続きです。続きをするだけです。何も、変えなくていい」


ジンが——木の方角を、見た。


「……わかった」とジンが、低く、言った。


―――


老女が——木の根元に、来た。


今朝も——また、来た。


いつもの場所に——しゃがんだ。


根元に——手を、当てた。


口が、動いた。


声は——届かなかった。


でも——ルルが、少し、頷いた。


「……おはよう——って、言ってる」とルルが言った。


「今日も——言えた。届かないけど——言えた。でも——」


ルルが、息を、止めた。


「……今日の『おはよう』は——昨日と、違う」とルルが言った。


「昨日より——においが、重い。一人じゃなくなったから——重い。誰かに言える『おはよう』になったから——重い。一人で言ってた時と——同じ言葉だけど、重さが、違う。そういうにおいだ」


「一人じゃなくなったから——重い、か」とジンが、老女を、見た。


老女が——ジンを、見た。


口が、動いた。


声は——届かなかった。


でも——目が、少し、細くなった。


「……ありがとう——って、また、言ってる」とルルが言った。


「今日も——来てくれた。また、来てくれた。そういうにおいだ」


―――


ノアが——木の根元に、近づいた。


しゃがんで——根に、手を、当てた。


「……ある」とノアが、静かに、言った。


「昨日の続きから——ある。二つとも——続きから、ここにいる」


ルルが、鼻先を、木に向けた。


「……においが——動いた。ノアが触れたから——木の根元のにおいが、動いた。昨日より——速く、動いた。触れた場所を、覚えてる。ノアが来たのを——知ってる。そういうにおいだ」


「覚えてる——か」とジンが言った。


「……うん」とルルが言った。


「……昨日、ノアが触れたから——覚えてる。続きから、知ってる。初めてじゃない——って、においがした。昨日より、少し、温かいにおいだ」


ノアが——根元から、少し、離れなかった。


「……俺も——また、来た」とノアが、根元に手を当てたまま、言った。


「昨日の続きから——また、来た。消えなくていい。二つとも——消えなくていい」


―――


ジンが——老女の前に、しゃがんだ。


根元に——手を、向けた。


地面を——通して。


「……聞こえてる」とジンが言った。声が——低かった。


「昨日も——今日も、ここにいる。薄い方——聞こえてる。まだ、ここにいる。急がない。微かだけど——ちゃんと、聞いてる。全部——受け取る」


ルルが、息を、止めた。


「……動いた」とルルが言った。


「薄い方のにおいが——また、動いた。ジンの声に——引き寄せられてる。昨日より——速く、動いた。覚えてるから。ジンの声を——覚えてるから、速く、動いた。そういうにおいだ」


「覚えてる——か」とジンが、根元に手を当てたまま、言った。


「……うん」とルルが言った。


「……昨日、ジンが『全部受け取る』って言ったから——覚えてる。今日の『全部受け取る』が——昨日の続きだって、わかってる。繋がってる。そういうにおいだ」


―――


老女が——静かに、根元に、手を、当てた。


ジンの隣に——静かに、いた。


ノアの隣にも——静かに、いた。


三人が——そこにいた。


それだけだった。


何も——しなかった。


ただ——いた。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、動いた。三人と老女が——四人、根元にいる。薄い方のにおいが——また、動いた。四人でいるから——動いた。昨日は三人だった。今日は——四人だ。増えた分だけ——動いた。そういうにおいだ」


「四人——か」とジンが、根元に手を当てたまま、言った。


「……うん」とルルが言った。


「……老女も——加わった。老女のにおいが——また、変わった。昨日まで、一人でここにいた。今日から——一緒にいる。一緒に、受け取ろうとしてる。老女のにおいが——そういうにおいになった」


―――


シアが、空間を、静かに、探った。


「……見えてきた」とシアが言った。


「昨日より——はっきり、見える。二つの糸が——昨日より、太い。どちらも——昨日より、太い。でも——」


シアが、少し、間を置いた。


「……繋いでいる糸が——まず、動いてる」とシアが言った。


「二つの糸が直接太くなってるんじゃない。二つを繋いでる、真ん中の糸が——先に、動いてる。カインさんが言ってた通りだ。繋ぎ目が——先に戻ってる」


「繋ぎ目が——先に」とジンが言った。


「……うん」とシアが言った。


「……繋ぎ目が太くなってから——それぞれの糸が、繋ぎ目に引っ張られて、太くなってる。順番が——ある。繋ぎ目から——それぞれへ。そういう順番だ」


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、動いた。繋いでいるにおいが——また、濃くなった。二つが——引き寄せ合ってる。昨日より、ずっと——引き寄せ合ってる。そういうにおいだ」


―――


セレクが、静かに、口を、開いた。


「……教会の記録に——こうあります」とセレクが言った。


「『二つで一組の声を聞く者が、二日、留まった時——片方は、もう片方がいなくなることを、恐れなくなる。恐れがなくなることで、声は、大きくなる』」


ジンが——セレクを、見た。


「……恐れがなくなると——声が大きくなる」とジンが、低く、繰り返した。


「……そうです」とセレクが言った。


「……昨日まで、薄い方は——消えることを、恐れていたはずです。でも、今日——聞き手がいる二日目になった。もう片方がいなくなることを、恐れなくなり始めている。そうなると——声が、戻ろうとする力が、強くなります」


「恐れて——いたか」とノアが、静かに、言った。


「……そうです」とセレクが言った。


「……薄くなっていく間——ずっと、恐れていた。消えることも、片方を置いていくことも。でも——聞き手が来た。二日、いた。恐れが——少し、溶け始めている。そういうことだと、思います」


ジンが——老女を、見た。


老女が——ジンを、見た。


口が、動いた。


声は——届かなかった。


でも——ルルが、少し、目を、細めた。


「……怖くなくなってきた——って、言ってる」とルルが言った。


「一人で——ずっと、怖かった。消えることが——怖かった。でも——来てくれた。二日、いてくれた。怖くなくなってきた。そういうにおいだ」


―――


昼が——来た。


集落の人たちが——食事を、用意してくれた。


温かいものだった。


一行は——それを、受け取った。


声は——届かなかった。


でも——食事は、届いた。


ジンが——受け取った。


「……ありがとう」とジンが言った。


集落の人たちが——頷いた。


老女も——来た。


隣に——しゃがんだ。


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、変わった」とルルが言った。


「老女から——昨日と、また、違うにおいが、した。昨日は——一人じゃないにおいだった。今日は——待てるにおいだ。急がなくていい——って、においだ。来てくれるとわかってるから——待てる。そういうにおいだ」


「待てる——か」とジンが、老女を、見た。


老女が——頷いた。


目が——少し、細くなった。


ゆっくりと——一度。


それだけだった。


でも——それで、十分だった。


―――


午後が——来た。


四人が——再び、木の根元に、集まった。


ジンと、ノアと、老女と——もう一人。


カインが——根元に、静かに、近づいた。


「……俺も——ここにいていいですか」とカインが言った。


ジンが——カインを、見た。


「……いていい」とジンが言った。


カインが——根元に、手を、当てた。


「……聞こえてる」とカインが、静かに、言った。


「記録で——声のことを、ずっと、読んできた。今日——ここで、聞く。記録じゃなく——ここで、聞く」


ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、動いた。カインが——加わった。木の根元のにおいが——また、大きく、動いた。五人でいる。五人分の——においが、根元に、ある。薄い方が——また、動いた。大きく——動いた。今日——一番、大きく、動いた。そういうにおいだ」


「今日——一番」とジンが、根元に手を当てたまま、言った。


「……うん」とルルが言った。


「……五人でいるから——一番、大きく、動いた。恐れが——また、薄くなった。薄い方のにおいが——また、戻ってきてる。もうすぐ——届く。まだ、もう少し。でも——もうすぐ、届く。そういうにおいだ」


―――


五本目の糸が——穏やかに、揺れた。


ルルが、息を、止めた。


「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。


「台地から——揺れてる。二つのにおいが——戻ってきてるのを、感じてる。自分のことを——思い出してる。自分が、ノアと二つで一組だった時のことを——思い出してる。ノアが来てくれた時に——恐れがなくなったことを。二日目に——もう消えなくていいとわかった時のことを。そういう揺れ方だ」


「アルト——」とノアが、根元に手を当てたまま、小さく、言った。


「見てるか。二つ——戻ってきてるぞ。もうすぐ——届くぞ」


五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。


―――


夕暮れが——来た。


ルルが——鼻先を、木の方角に、向けた。


「……においが——また、変わってきた」とルルが言った。


「一日目の夕方とも、今日の朝とも——違う。薄い方のにおいが——夕方になって、また、動いた。夕方に——動くにおいだ。昼間より、夕方の方が——濃くなってる。そういうにおいだ」


「夕方に——動くのか」とジンが言った。


「……うん」とルルが言った。


「……五人でいた午後から——ずっと、動いてる。止まってない。夕方になっても——止まらないで、動いてる。止まりそうにない。このまま——夜になっても、動き続けるにおいだ」


カインが、写しを、手に取った。


「……記録には——こうあります」とカインが言った。


「『二つで一組の声が戻る二日目の夕刻、片方の声は——初めて、声になろうとする。それはまだ声ではない。でも——声の一歩手前に来た、ということだ』」


「声の一歩手前——か」とジンが、低く、言った。


「……そうです」とカインが言った。


「……声になるのは——明日かもしれない。明後日かもしれない。でも——一歩手前に来た。二日間、ここにいたから——一歩手前に来た。そういうことです」


ジンが——木を、見た。


「……一歩手前——か」とジンが、静かに、言った。


―――


エリナが、手帳を、開いた。


ペンを、走らせた。


今日のこと——朝、ルルが「二つとも昨日より戻ってきてる、薄い方もある」と言ったこと、カインが「糸が自ら動く速さで声は戻る、引いた者は待てなかった者だ」という記録を読み上げたこと、ノアが「昨日の続きから来た」と根元に触れたこと、老女が加わって四人になったら薄い方のにおいがまた動いたこと、シアが「繋ぎ目の糸が先に戻っている」と言ったこと、セレクが「二日目になると恐れがなくなり声が大きくなる」という記録を示したこと、老女が「怖くなくなってきた」というにおいになったこと、昼食の時に老女が「待てるにおい」になったこと、午後にカインが「記録じゃなくここで聞く」と根元に加わって五人になったこと、五人になったら薄い方のにおいが今日一番大きく動いたこと、アルトが「ノアと自分が二つで一組だった時」を思い出すように揺れたこと、カインが「二日目の夕刻に声の一歩手前に来る」という記録を示したこと。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを止めた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、カインさんが「記録じゃなくここで聞く」と言いました。記録でずっと知っていたことを、今日——ここで、聞く。私は、その言葉を書きながら、少し、考えました。私も、記録者として、ずっと書いてきました。書くことで——ここにいた。でも今日、カインさんが根元に手を当てるのを見て、私は——書く手を、少し、止めました。止めて、ただ、見ていました。書かずに、ただ、見ていました。それが何かを届けたかどうかは、わかりません。でも——止めた時間が、ありました。止めて、ただ、そこにいた時間が。声の一歩手前に来た夕方に——私も、ただ、そこにいました。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


集落は——静かだった。


でも——


何かが、そこに、あった。


届いてはいなかった。


でも——昨日より、ずっと、近かった。


声の一歩手前に来た夜が——静かに、深くなっていった。


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


ジンは——木の根元の方角に、手を、当てた。


地面を——通して。


「……聞こえてる」とジンが、小さく、言った。


「今日も——五人で、いた。一歩——近くなった。ちゃんと——わかってる。明日も——ここにいる。薄い方も、濃い方も——両方、受け取る。二つとも——受け取る」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——何かが、そこに、あった。


昨日とは——また、違う何かが、あった。


一歩手前の——何かが、あった。


暖炉の火が——穏やかに、揺れた。


台地の風が——遠く、あった。


アルトが——見ていた。


一行の背を——押していた。


夜が——深くなった。


二つで一組の声が——一歩手前まで来た夜が。


穏やかに——深くなった。


―――


― 第79話・了 ―


―――


次話予告:


翌朝、ルルが鼻先を向ける。

「……においが——また、動いた。昨日の夕方から、ずっと、動いてる。止まってない。薄い方が——声の一歩手前に来てる。今日——来るかもしれない。声じゃないかもしれない。でも——何かが、来ようとしてる。そういうにおいだ」。

カインが写しを開く。

「記録には——『声の一歩手前が来た翌朝、最初に届くのは——声ではない。それは、声を出そうとした時に生まれた、震えだ。震えを受け取った者が、初めて声を受け取る準備が整う』とあります」。

老女が根元に来る。

手を——当てる。

口が、動く。

声は——届かない。

でも、ルルが息を止める。

「……においが——大きく、動いた。震えてる。声じゃない。でも——何かが、震えてる。震えようとしてる。来る。もうすぐ——来る」。

五本目の糸が——大きく、穏やかに、揺れる。

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