第77話「においが次の方角から来てる、というルルの声と、声を聞いた者は次の声を求める、というカインの声と、また、聞きに行く、というジンの声と、集落を発つ朝」
今日もお疲れ様です! 帰りの電車や、一日の終わりのリラックスタイムにどうぞ。
朝が、来た。
集落の朝は——静かだった。
でも——
昨日と、違った。
声が——あった。
どこかで——誰かが、話していた。
ぽつりと。
また——ぽつりと。
届いていた。
それだけで——十分だった。
―――
ジンが、目を覚ました。
すぐに——木の方角に、手を、向けた。
地面を——通して、聞いた。
何かが——あった。
昨日と——違った。
重さが——違った。
昨日までは——「来ようとしていた」という感触だった。
でも今日は——
「届いた後の」という感触だった。
「……届いた後だ」とジンが、小さく、言った。
「昨日——ちゃんと、届いた。今日は——届いた後の、重さがある。消えてない。ちゃんと——残ってる」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——何かが、そこに、あった。
届いた後の——何かが。
穏やかに——そこに、あった。
―――
ルルが、目を覚ました。
すぐに——二つの方角に、鼻を、向けた。
後ろ——台地の方角。穏やかな、温かいにおい。アルトが、台地から、こっちを見ている。
前——集落の、木のある方角。
ルルが、少し、目を、細めた。
「……においが——変わった」とルルが言った。
「昨日までと——全部、違う。消えていくにおいじゃない。届こうとしてるにおいでもない。届いた後のにおいだ。集落全体が——届いた後の、においだ」
「届いた後の——か」とジンが、ルルを、見た。
「……うん」とルルが言った。
「でも——それだけじゃない。もう一つ、においが、してきた。遠くから——来てる。この集落のにおいじゃない。もっと——遠くから。次の——においだ」
ジンが——少し、間を置いた。
「……次の——においか」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。
「消えていくにおいだ。この集落のと——同じ種類だ。でも——まだ遠い。急がないと——また、薄くなる。そういうにおいだ」
―――
カインが、写しを、広げた。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。
「『消えていく声が届いた後、聞いた者の中に——次の声が聞こえ始める。それは、また、消えていく声だ』」
全員が——カインを、見た。
「……続きには——こうあります」とカインが言った。
「『声を聞いた者は、次の声を求める。それは義務ではない。聞いた者の中に——次が、自然に、聞こえ始めるのだ』」
しばらく——誰も、何も、言わなかった。
「声を聞いた者は——次の声を求める」とジンが、低く、繰り返した。
「……そうです」とカインが言った。
「ここで聞いたから——次が聞こえ始めている。ルルが遠くのにおいを感じているなら——それは、次がもうそこにある、ということです。この集落で積み重ねたものが——次へと、繋がっています」
「積み重ねたものが——繋がる」とノアが、静かに、言った。
「……そうです」とカインが言った。
「ここで四日、留まった。声が戻るのを、一緒に待った。その時間が——次の声を聞くための、力になっています」
―――
老人が——木の根元に、来た。
今朝も——また、来た。
でも——今日は、昨日と、違った。
老人の口が——動いた。
声が——届いた。
「……行くのか」と老人が言った。声が——届いた。
「今日——行くのか」
ジンが——老人を、見た。
「……行く」とジンが言った。
「次も——聞きに行く。声が消えそうなところが——まだ、ある」
老人が——少し、目を、細めた。
口が、動いた。
「……そうか」と老人が言った。声が——届いた。
「行ってくれ。次も——声が、戻るといい」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、変わった」とルルが言った。
「老人から——送り出すにおいが、した。引き止めるにおいじゃない。行ってくれ——って、においだ。声が届いてから——送り出せるようになった。そういうにおいだ」
「送り出せるように——なったか」とジンが、老人を、見た。
老人が——頷いた。
―――
ジンが——根元に、最後に、手を、当てた。
「……聞こえてた」とジンが言った。声が——低かった。
「四日——ちゃんと、聞こえてた。お前たちの声が——全部、届いた。消えなかった。ちゃんと——消えなかった。道が——残ってる。最初から太い道が——ちゃんと、残ってる。次に来る人が——また、ここにいれる」
しばらく——何も、なかった。
風が——あった。
それだけだった。
でも——
ルルが、息を、止めた。
「……においが——動いた」とルルが言った。
「木の根元から——温かいにおいが、した。ジンが触れたから——動いた。消えていくにおいじゃない。届いた後の、温かいにおいだ。行ってくれ——って、においだ。道が残ってるから——行ってくれ、って。そういうにおいだ」
ジンが——根元から、手を、離した。
「……わかった」とジンが言った。
「行く」
―――
ノアが——木の根元に、しゃがんだ。
老人の隣に——静かに、いた。
根元に——手を、当てた。
「……聞こえてた」とノアが、静かに、言った。
「俺も——四日、ここにいた。昨日、届いたのを——俺も、ちゃんと、聞いた。声が——届いた。消えなかった。道が——残ってる」
ルルが、鼻先を、木に向けた。
「……においが——また、動いた。ノアが触れたから——また、動いた。老人のにおいが——また、変わった。寂しいにおいじゃない。ジンもノアも行く——でも、道は残る。次が来る——ってわかってる。そういうにおいだ」
―――
集落の人たちが——木のそばに、集まってきた。
声が——届いた。
「……行ってらっしゃい」と、子どもの声が、した。
声が——届いた。
また——届いた。
一行を——見ていた。
送り出していた。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——全部、変わった」とルルが言った。
「集落全体——送り出すにおいだ。引き止めるにおいじゃない。行ってほしい——って、においだ。声が届いてから——送り出せるようになった。全員——送り出してる。そういうにおいだ」
「全員——か」とジンが、静かに、言った。
「……うん」とルルが言った。
「全員、送り出してる。声が届いたから——送り出せる。届く前は、送り出せなかった。届いたから——送り出せる。そういうにおいだ」
―――
五本目の糸が——穏やかに、揺れた。
ルルが、息を、止めた。
「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。
「台地から——揺れてる。声が届いたのを——感じてる。集落が送り出してるのを——感じてる。自分のことを——思い出してる。誰かを送り出すことの温かさを——思い出してる。でも——今度は、もう一つ、においが、混じってる。次の方角が——気になってる。次も——ちゃんと届くといい、って、揺れてる。一緒に——見てる、みたいな揺れ方だ」
「アルト——」とノアが、小さく、言った。
「見てるか。届いたぞ。ちゃんと——届いたぞ。次も——行くぞ」
五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。
―――
セレクが、静かに、口を、開いた。
「……教会の記録に——一行、あります」とセレクが言った。
「『消えていく声が届いた後、その場所に残るのは——声の道だけではない。聞いた者の中にも、何かが、残る』」
ジンが——セレクを、見た。
「……聞いた者の中に——何かが残る」とジンが、低く、繰り返した。
「……そうです」とセレクが言った。
「声を受け取ったことで——受け取った者の中に、何かが積み重なる。次の声を聞ける力が——育っていく。ここで四日、留まって聞いたことで——次の場所でも、ここより少し楽に、聞けるようになっているはずです」
「次の場所で——少し楽に」とシアが、静かに、繰り返した。
「……そうです」とセレクが言った。
「一度目より——二度目。二度目より——三度目。聞いた分だけ、次が楽になる。道が太くなるように——聞く者も、太くなっていく。そういうことだと、思います」
ジンが——集落の木を、見た。
「……聞いた分だけ——か」とジンが、静かに、言った。
―――
昼が——来た。
老人が——食事を、用意してくれた。
温かいものだった。
一行は——それを、受け取った。
最後の——食事だった。
声が——届く食事だった。
ジンが——食事を、受け取った。
「……ありがとう」とジンが言った。
老人が——頷いた。
「……こちらこそ」と老人が言った。声が——届いた。
「来てくれて——ありがとう。四日——来てくれた。声が——戻った。ありがとう」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、変わった」とルルが言った。
「老人から——声で届いたにおいが、した。声がなくても届いてた。スキル——声で届いたにおいは、また、違う。重さが——違う。四日分の——重さがある。そういうにおいだ」
「声で——届いたか」とジンが、老人を、見た。
老人が——頷いた。
目が——少し、潤んでいた。
―――
午後が——来た。
一行は——出発の準備を、整えた。
カインが、写しを、丁寧に、折り畳んだ。
エリナが、手帳を、かばんに、仕舞った。
ノアが——木の方角を、一度、見た。
「……また、来るか」とジンが、ノアに、聞いた。
ノアが——少し、考えた。
「……来たい、と思う」とノアが言った。
「届いた後の——においが、するところに。また、来たいと思う」
「……来ればいい」とジンが言った。
「道が——残ってるから。いつでも——来られる」
ノアが——少し、目を、細めた。
「……うん」とノアが言った。
「いつでも——来られる。それが——いい」
―――
老人が——一行の前に、来た。
口が——動いた。
「……次の場所でも——届くといい」と老人が言った。声が——届いた。
「次の声も——ちゃんと、届くといい」
ジンが——老人を、見た。
「……届く」とジンが言った。
「ちゃんと——届ける」
老人が——頷いた。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——動いた。老人から——信じてるにおいが、した。届く——って、信じてる。四日、見てたから——信じてる。ジンたちなら届ける——って、信じてる。そういうにおいだ」
「信じてる——か」とジンが、老人を、見た。
老人が——また、頷いた。
―――
一行は——歩き始めた。
集落の人たちが——見送っていた。
声が——届いていた。
「気をつけて」と、声が、した。
「また、来てください」と、また、声が、した。
声が——届いていた。
ルルが——鼻先を、集落の方向に、一度だけ、向けた。
「……においが——変わってきた」とルルが言った。
「集落が——遠くなってる。でも——消えてない。届いたにおいは——消えない。遠くなっても——残ってる。そういうにおいだ」
「消えない——か」とジンが、歩きながら、言った。
「……うん」とルルが言った。
「消えない。届いたものは——消えない。残る。ここで届いたにおいが——ずっと、残る。次の場所に着いても——ここで届いたにおいが、残ってる。続きになる。そういうにおいだ」
―――
エリナが、歩きながら、手帳を、開いた。
ペンを、走らせた。
集落を発つ朝のこと——朝、ルルが「次の方角から消えていくにおいが来てる」と言ったこと、カインが「声を聞いた者は次の声を求める」という記録を読み上げたこと、老人が声で「行ってくれ」と送り出してくれたこと、ジンが根元に触れて「ちゃんと消えなかった、道が残ってる」と言ったこと、ノアが「また来たいと思う」と言ったこと、集落の人たちが全員声で見送ってくれたこと、老人が「次の声も届くといい」と言ったこと、ルルが「届いたにおいは消えない」と言ったこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、集落の人たちが声で見送ってくれました。四日前、その声は届かなかった。今日、届いた。老人の方が「次の声も届くといい」と言いました。声で。届いた声で。私は、その言葉を書きながら、手が、少し、震えました。届いてから——送り出せるようになる。届いてから——次を信じられるようになる。ジンさんは「届ける」と言いました。それだけ言いました。それだけで——届いた、と思いました。ルルさんが「届いたにおいは消えない」と言いました。ここで起きたことは——消えない。私が書き留めなくても——消えない。でも、書く。消えないものを——また、書く。それが、私の続きになる。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
―――
ルルが——前方の方角に、鼻先を、向けた。
「……においが——まだ、する」とルルが言った。
「消えていくにおいだ。遠い。でも——ある。まだ、ある。急がないと——薄くなる。でも——方角は、わかる。ちゃんと——わかる」
「方角は——わかるか」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。
「わかる。遠くて——薄い。でも——ある。ここで四日、留まったから——遠い声でも、わかる。ここで聞いたから——次が、聞こえる。そういうにおいだ」
カインが、写しを、手に取った。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。
「『聞いた者の中に育った力は——次の場所で、形を変えて現れる。それは勇気でも技でもない。ただ、聞けるということだ』」
「ただ——聞ける、ということ」とノアが、静かに、繰り返した。
「……そうです」とカインが言った。
「聞いた分だけ、次も聞ける。ここで四日、留まって聞いたことが——次の場所でも、聞こうとする力になる。それだけです。それだけで——十分です」
ジンが——前方の方角を、見た。
「……わかった」とジンが言った。
「また——聞きに行く」
―――
夕暮れが——来た。
一行は——野営の場所を、探した。
ルルが——立ち止まった。
「……においが——少し、濃くなった」とルルが言った。
「動いてるから——近づいてる。消えていくにおいだけど——まだ、ある。朝より——少し、近い。一日、歩いたから——少し、近くなってる」
「一日で——近くなったか」とジンが言った。
「……うん」とルルが言った。
「急がないと——また、薄くなる。でも——間に合う。間に合うにおいだ。ここで四日、留まったから——間に合う。集落を発つのが遅れてたら——間に合わなかったかもしれない。でも——ちょうどよかった。そういうにおいだ」
「ちょうど——よかった、か」とジンが、低く、言った。
「……うん」とルルが言った。
「ちょうどよかった。四日——ちゃんと留まったから。急ぎすぎなかったから。ちょうど——よかった」
―――
五本目の糸が——穏やかに、揺れた。
ルルが、息を、止めた。
「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。
「台地から——揺れてる。次の方角が——気になってる。遠くから届くにおいを——一緒に感じてる。消えていくにおいが——まだある、って。でも——間に合う、って。一緒に——信じてる、みたいな揺れ方だ。あと——もう一つ、においが、する。台地の風が——ここまで来てる。七人分の——風だ」
「七人分——か」とジンが、空を、見た。
「……うん」とルルが言った。
「七人分の風が——背中に、ある。集落の声が届いた夜から——ずっと、背中に、ある。アルトも——台地のアルトも——一緒に、来てる。そういうにおいだ」
「……ありがとう」とノアが、空に向かって、小さく、言った。
「見てるか。また——行くぞ」
五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。
―――
夜が——来た。
野営の火が——穏やかに、揺れた。
ジンは——前方の方角に、手を、向けた。
地面を——通して。
「……聞こえてるか」とジンが、小さく、言った。
「もうすぐ——行く。ちゃんと——行く。声が消える前に——行く。消えなくていい。ちゃんと——聞く。ちゃんと——受け取る。待ってろ」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——遠くから、何かが、した。
音では——なかった。
でも——何かが、あった。
消えていく途中の——何かが。
まだ、あった。
―――
ルルは——前方の方角を、確かめて、眠った。
消えていくにおいが——まだ、ある。
間に合う。
そういうにおいを——確かめて、眠った。
―――
台地の風が——遠く、あった。
アルトが——見ていた。
一行の背を——押していた。
夜が——深くなった。
集落を発った夜が。
次へ向かう夜が。
穏やかに——深くなった。
―――
―第77話・了 ―
―――
次話予告:
翌朝、ルルが立ち止まる。
「……においが——また、濃くなってきた。昨日より——近い。もうすぐ——着く。消えていくにおいだ。でも——まだ、ある。間に合う。そういうにおいだ」。
小さな集落の手前、道の脇に——人影が、ある。
動かない。
ジンが、近づく。
地面を——通して、聞く。
「……ある」とジンが、小さく、言った。
「ここにも——ある。消えかけてる。でも——まだ、ある」。
カインが写しを開く。
「記録には——『消えていく声が一つある場所には、必ず、もう一つある。先に消えたものと、後から消えかけているものと。二つで、一組だ』とあります」。
ルルが息を止める。
「……においが——二つ、する。一つは、もうすごく薄い。もう一つは——まだ、ある。でも、急がないと。二つ——一緒に、消えかけてる」。
五本目の糸が——穏やかに、揺れる。




