第76話「においが届こうとしてる、というルルの声と、ただ、そこにいるだけでよい、というカインの声と、届けていい、受け取る、というジンの声と、集落の四日目の朝」
おはようございます!今日も一日がんばりましょう! 朝のお供に『無詠唱の魔王』をお楽しみください。
朝が、来た。
集落の朝は——静かだった。
でも——
今日は、昨日と、また、違った。
木の方角から——何かが、した。
昨日とは——また、違う何かが。
戻ってきてるにおいじゃない。
待ってるにおいでも——ない。
もっと——近い。
もっと——今、この瞬間に、向かってきている。
そういう何かが——あった。
―――
ジンが、目を覚ました。
すぐに——木の方角に、手を、向けた。
地面を——通して、聞いた。
何かが——あった。
昨日より——また、違った。
重さが——違った。
昨日までは——「戻ってきている」という感触だった。
でも今日は——
「来ようとしている」という感触だった。
「……来ようとしてる」とジンが、小さく、言った。「昨日と——違う。こっちに——向かってきてる。待ってるんじゃない。来ようとしてる」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——何かが、そちらから、こちらに向かっていた。
ゆっくりと——確かに、向かっていた。
―――
ルルが、目を覚ました。
すぐに——二つの方角に、鼻を、向けた。
後ろ——台地の方角。穏やかな、温かいにおい。アルトが、台地から、こっちを見ている。
前——集落の、木のある方角。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——届こうとしてる」とルルが言った。「昨日まで——待ってるにおいだった。今日は——違う。届こうとしてる。今日——届く。そういうにおいだ」
「届こうとしてる——か」とジンが、ルルを、見た。
「……うん」とルルが言った。「三日、ここにいたから——わかった。届く、って。だから——来ようとしてる。待ってたのを——やめた。待つんじゃなくて、届けに来ようとしてる。そういうにおいだ」
―――
カインが、写しを、広げた。
「……記録には——続きが、あります」とカインが言った。「三日目まで読み上げた記録の、さらに続きです」
全員が——カインを、見た。
「……こうあります」とカインが言った。「『声が届く直前、届かなかった間に溜まっていたものが、一度に形を見せようとする。その時、聞いている者は——ただ、そこにいるだけでよい』」
しばらく——誰も、何も、言わなかった。
「ただ——そこにいるだけ、か」とジンが、低く、繰り返した。
「……そうです」とカインが言った。「届く直前は——引き出そうとする必要がない。何かをしようとする必要もない。ただ、聞く者がそこにいることで——声は、届く場所を見つける。そういうことだと、思います」
「何も——しない」とノアが、静かに、言った。
「……するのではなく——いる、ということです」とカインが言った。「三日間、ここにいたことで——声は、届く場所を知っている。今日は——ただ、ここにいるだけで、声が来る」
―――
老人が——木の根元に、来た。
今日も——また、来た。
一行の隣に——しゃがんだ。
根元に——手を、当てた。
口が、動いた。
声は——まだ、届かなかった。
ルルが、息を、止めた。
「……今日——届く、って、言ってる」とルルが言った。「わかってる。自分でも——わかってる。今日、届く。そういうにおいだ。でも——」
ルルが、少し、間を置いた。
「……怖い、というにおいも、する。届くのが——怖い。長かったから。届かないことに——慣れてしまったから。今日、届いたら——どうなるのか、って。そういうにおいだ」
ジンが——老人を、見た。
「……届いていい」とジンが言った。声を——少し、張った。「怖くても——届いていい。俺たちは——ここにいる。ちゃんと——受け取る。お前の声が届いても——何も、変わらない。俺たちは——ここにいる」
ルルが、少し、目を、細めた。
「……においが——動いた。ジンの声に——引き寄せられてる。怖いにおいが——少し、薄くなった。届いていい、って——わかってる。受け取る人が、いる——って、わかってる。そういうにおいだ」
―――
ジンが——根元に、手を、当てた。
「……聞こえてる」とジンが言った。声が——低かった。「今日も——ここにいる。届けていい。ちゃんと——受け取る。三日、待ってた。今日——受け取る」
しばらく——何も、なかった。
風が——あった。
それだけだった。
でも——
ルルが、息を、止めた。
「……動いた」とルルが言った。「大きく——動いた。昨日より、ずっと、大きく。においが——こっちに向かってきてる。もうすぐ——届く。届こうとしてる。全部——一度に、来ようとしてる」
「全部——一度に」とジンが、根元に手を当てたまま、言った。
「……うん」とルルが言った。「三日間、溜まってたものが——全部、今日、来ようとしてる。カインさんが言ってた通りだ。一度に、形を見せようとしてる。においが——すごく、濃い。もうすぐ——届く」
―――
ノアが——木の根元に、近づいた。
ジンの隣に——しゃがんだ。
根元に——手を、当てた。
「……聞こえてる」とノアが、静かに、言った。「俺も——ここにいる。届けていい。受け取る。今日——受け取る」
ルルが、鼻先を、木に向けた。
「……においが——また、動いた。ジンとノアが——二人、受け取ろうとしてる。においが——また、近づいてきてる。すごく——近い。手が届きそうなくらい——近い」
―――
老人も——再び、根元に、手を、当てた。
三人の隣に——静かに、いた。
ルルが、少し、目を、細めた。
「……においが——また、動いた。三人が——一緒に、受け取ろうとしてる。老人のにおいが——また、変わった。怖いにおいが——消えた。怖くなくなった。みんなが、ここにいるから——怖くなくなった。そういうにおいだ」
「怖くなくなった——か」とジンが、老人を、見た。
老人が——頷いた。
口が、動いた。
声は——まだ、届かなかった。
でも——ルルが、少し、頷いた。
「……ありがとう——って、また、言ってる」とルルが言った。「今日も——言えた。届かないけど——言えた。でも——」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、動いた。今日の『ありがとう』は——昨日より、違う。もうすぐ、届く——って、わかってる。だから——今日の『ありがとう』は、届く『ありがとう』だ。そういうにおいがする」
―――
シアが、空間を、静かに、探った。
「……見えてきた」とシアが言った。「昨日より——はっきり、見える。道筋が——もう、太いとか、細いとか、じゃない。張り詰めてる。今にも——何かが通りそうなくらい、張り詰めてる。一方向に——全部が、向いてる。こっちに——向いてる」
「張り詰めてる——か」とジンが言った。
「……うん」とシアが言った。「矢が——弦の上で、今にも放たれそうなくらい。そういう感じだ。引き絞られてる。放たれる場所が——決まってる。ここだ。俺たちが——ここにいるから、ここに向かって、放たれようとしてる」
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、動いた。今までで——一番、濃い。届こうとしてる。今日——届く。もうすぐ——届く。そういうにおいだ」
―――
セレクが、静かに、口を、開いた。
「……教会の記録に——最後の一行が、あります」とセレクが言った。「『消えていく声が届く時、最初に届くのは——声ではない。それは、声を待っていた間に生まれた、沈黙の重さだ』」
ジンが——セレクを、見た。
「……声より先に——沈黙が届く、ということか」とジンが言った。
「……そうです」とセレクが言った。「声が届く直前、声よりも先に——届かなかった間の、沈黙そのものが届く。それを受け取った者が、初めて声を受け取る準備が整う。そういうことだと、思います」
「沈黙を——受け取る」とノアが、静かに、繰り返した。
「……そうです」とセレクが言った。「声が届かなかった間——ずっと、沈黙があった。その沈黙が、先に届く。受け取る者がその重さを知ることで——声が、ようやく、後からついてくる。そういう順番です」
ジンが——根元を、見た。
「……沈黙の重さか」とジンが、低く、言った。
―――
昼が——来た。
老人が——食事を、用意してくれた。
温かいものだった。
一行は——それを、受け取った。
声は——まだ、届かなかった。
でも——老人は、みんなに、食事を、出した。
四日目も——同じだった。
声がなくても——それは、届いた。
ジンが——食事を、受け取った。
「……ありがとう」とジンが言った。
老人が——頷いた。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——また、変わった」とルルが言った。「老人から——違うにおいが、した。一日目より、二日目。二日目より、三日目。三日目より——今日。でも、今日は——それだけじゃない。今日の昼のにおいは——別だ。届く、ということを、知ってるにおいだ。今日、届く——って、老人もわかってる。だから、今日の食事は——今日のにおいが、する」
―――
午後が——来た。
一行は——再び、木の根元に、集まった。
老人も——来た。
根元に——手を、当てた。
ジンも——根元に、手を、当てた。
ノアも——当てた。
三人が——そこにいた。
それだけだった。
何も——しなかった。
ただ——いた。
しばらく——何も、なかった。
風が——あった。
それだけだった。
でも——
ルルが、息を、止めた。
「……動いた」とルルが言った。「大きく——すごく、大きく、動いた。においが——一気に、動いた。今まで、一番——大きく。届こうとしてる。全部——全部が、今、来ようとしてる」
ジンが——根元を、見た。
「……聞こえてる」とジンが言った。声が——低かった。「ここにいる。届けていい。受け取る。全部——受け取る」
―――
しばらく——何も、なかった。
沈黙が——あった。
でも——
ジンが、手のひらに——何かを、感じた。
重さじゃ——なかった。
音でも——なかった。
でも——
何かが——届いた。
長い。
長くて、静かな。
届かなかった間の——全部が、一度に。
「……来た」とジンが、根元に手を当てたまま、言った。声が——低く、静かだった。「沈黙が——来た。ちゃんと——受け取ってる。ここにいる。全部——受け取ってる」
ルルが、息を、止めた。
「……届いた」とルルが言った。「沈黙が——届いた。ジンが受け取ってる。そしたら——においが、また、動いた。沈黙の後ろに——声が来ようとしてる。もうすぐ——声が来る。今——来る」
―――
老人が——根元に、手を、強く、当てた。
口が、動いた。
声が——
届いた。
小さかった。
かすれていた。
長い間、使われていなかった声だった。
でも——届いた。
確かに——届いた。
ルルが、息を、止めた。
「……届いた」とルルが言った。「声が——届いた。老人の声が——届いた。においが——変わった。消えていくにおいじゃない。届いたにおいだ。全部——変わった。全部が、届いたにおいになった」
ジンが——老人を、見た。
老人の口が——また、動いた。
声が——届いた。
「……ありがとう」と老人が言った。
声が——届いた。
その声が——届いた。
しばらく——誰も、何も、言わなかった。
ジンが——老人を、見た。
「……聞こえた」とジンが言った。「お前の声が——聞こえた。ちゃんと——聞こえた」
老人が——目を、細めた。
目が——潤んでいた。
口が——また、動いた。
「……長かった」と老人が言った。声が——届いた。「長かった。でも——来てくれた。ありがとう。本当に——ありがとう」
―――
集落の人たちが——木のそばに、集まってきた。
一人ずつ——声を出した。
届いた。
また——届いた。
次々と——届いた。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——全部、変わった」とルルが言った。「集落全体——全部、変わった。消えていくにおいが——消えた。届いたにおいになった。全部——全部、届いたにおいだ。溜まってたものが——全部、一度に、来た。カインさんが言ってた通りだ。全部——来た」
「全部——来たか」とジンが、静かに、言った。
「……うん」とルルが言った。「来た。届いた。消えなかった。消えそうだったのに——消えなかった。三日、ここにいたから——消えなかった。全部——届いた。全部、届いたにおいになった」
―――
五本目の糸が——大きく、揺れた。
ルルが、息を、止めた。
「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——大きく、揺れてる。声が届いたのを——感じてる。消えかけてた声が——全部、届いたのを、感じてる。自分のことを——思い出してる。名前が届かないまま消えそうだった、あの時のことを——思い出してる。でも——今度は、届いた、って。届いた——って、一緒に、わかってる。そういう揺れ方だ」
「アルト——」とノアが、小さく、言った。「見てたか。届いたぞ。ちゃんと——届いたぞ」
五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。
―――
夕暮れが——来た。
ルルが——鼻先を、集落の方向に、向けた。
「……においが——また、変わってきた」とルルが言った。「一日目の夕方、二日目の夕方、三日目の夕方——全部、違った。今日は——全部と、違う。消えてないにおい。止まったにおいじゃない。戻ってきたにおいでも、待ってるにおいでも、届こうとしてるにおいでも——ない。届いた後の——においだ。今日のにおいは——届いた後の、においだ」
「届いた後の——においか」とジンが、繰り返した。
「……うん」とルルが言った。「届いて——終わったにおいじゃない。届いて——始まったにおいだ。声が届いてから——何かが、始まってる。今日から——始まってる。そういうにおいだ」
カインが、写しを、手に取った。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『消えていく声が届いた後、その場所には——新しい声の道が生まれる。その道は、最初から、太い』」
「最初から——太い、か」とジンが言った。
「……そうです」とカインが言った。「届かなかった間に積み重なった時間が——全部、道の太さになる。イルナ村のように、細い道から始まる必要がない。消えていく声が届いた場所には——最初から、太い道が、残る」
ジンが——集落を、見た。
「……最初から——太い道、か」とジンが、静かに、言った。
―――
エリナが、手帳を、開いた。
ペンを、走らせた。
今日のこと——朝、ルルが「においが届こうとしてる、今日届く」と言ったこと、カインが「声が届く直前、聞いている者はただそこにいるだけでよい」という記録を読み上げたこと、老人が「今日届くとわかってるが怖い」というにおいがしたこと、ジンが「届いていい、受け取る」と言ったこと、シアが「矢が弦の上で放たれそうなくらい張り詰めてる」と言ったこと、セレクが「声より先に沈黙が届く」という記録を示したこと、午後に三人が根元に手を当ててただいたこと、ジンが「沈黙が来た」と言ったこと、老人の声が届いたこと、老人が「長かった、ありがとう」と言えたこと、集落全体の声が届くようになったこと、ルルが「全部、届いたにおいになった」と言ったこと、アルトが大きく揺れたこと、カインが「消えていく声が届いた場所には最初から太い道が残る」という記録を示したこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、老人の方が声で「ありがとう」と言いました。声が届いた。三日間、届かなかった声が、今日、届いた。セレクさんは「声より先に沈黙が届く」と言いました。届かなかった間の沈黙が、まず届く。ジンさんが「沈黙が来た、ちゃんと受け取ってる」と言った時、私は何も書けませんでした。書こうとしたけれど——書けなかった。受け取ってる、という言葉が、ただ、そこにありました。カインさんは「ただそこにいるだけでよい」と言いました。ジンさんは、ただ、いました。ノアさんも、老人の方も、ただ、いました。それだけで——届いた。三日間、ただ、ここにいたことが——声を届けた。私も、今日、ここにいました。記録者として、ではなく——ただ、ここにいました。それが何かを届けたかどうかは、わかりません。でも——いました。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
集落は——静かだった。
でも——
声が、あった。
どこかで——誰かが、話していた。
声が——届いていた。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
ジンは——木のある方角に、手を、当てた。
地面を——通して。
「……聞こえた」とジンが、小さく、言った。「ちゃんと——聞こえた。お前たちの声が——届いた。消えなかった。消えそうだったのに——消えなかった。ここにいたから——消えなかった」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——今夜は、何かが、そこに、あった。
昨日までと——違う何かが、あった。
届いた後の——何かが、あった。
暖炉の火が——穏やかに、揺れた。
台地の風が——遠く、あった。
アルトが——見ていた。
一行の背を——押していた。
夜が——深くなった。
声が、届いた夜が。
消えていく声が——届いた夜が。
穏やかに——深くなった。
―――
― 第76話・了 ―
―――
次話予告:
翌朝、ルルが鼻先を向ける。「……においが——変わった。届いた後のにおいだ。でも——今日は、もう一つ、においが、する。遠くから——来てる。この集落のにおいじゃない。もっと——遠くから、来てる。次の——においだ」。カインが写しを開く。「記録には——『消えていく声が届いた後、聞いた者の中に——次の声が聞こえ始める。それは、また、消えていく声だ』とあります」。老人がジンの前に来る。口が、動く。声が——届く。「……次も——行くのか」。ジンが、老人を、見る。「……行く」とジンが言った。「次も——聞きに行く」。ルルが息を止める。「……においが——動いた。次の方角が——わかる。遠い。でも——わかる。消えていく途中の——においだ。急がないと——また、薄くなる」。五本目の糸が——穏やかに、前を向く。




