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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第五章「灰の下に眠るものの話」

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第75話「においが濃くなってきた、というルルの声と、届かなかった間に溜まっていたもの、というカインの声と、長かったな、ということをもう一度、というジンの声と、集落の三日目の朝」

 朝が、来た。


 集落の朝は——静かだった。


 でも——


 昨日と、違った。


 木の方角から——何かが、した。


 昨日と——また、違う何かが。


 昨日は、戻ってきた、というにおいだった。


 今日は——


 もう少し、濃い。


 それだけで、十分だった。


―――


 ジンが、目を覚ました。


 すぐに——木の方角に、手を、向けた。


 地面を——通して、聞いた。


 何かが——あった。


 昨日より——少し、違った。


 薄いけれど——確かに、あった。


 昨日より——確かに、あった。


「……ある」とジンが、小さく、言った。「昨日より——また、ちゃんと、ある。続けてるから——また、ある」


 地面の奥から——返事は、なかった。


 でも——何かが、そこに、あった。


 昨日より——少し多く、あった。


―――


 ルルが、目を覚ました。


 すぐに——二つの方角に、鼻を、向けた。


 後ろ——台地の方角。穏やかな、温かいにおい。アルトが、台地から、こっちを見ている。


 前——集落の、木のある方角。


 ルルが、少し、目を、細めた。


「……においが——また、濃くなってきてる」とルルが言った。「昨日より——もう少し、濃い。二日、ここにいたから——また、戻ってきてる。昨日の朝より——今日の朝の方が、濃い。続けてるから——続きから、動いてる」


「もう少し——か」とジンが、ルルを、見た。


「……うん」とルルが言った。「全部じゃない。まだ、薄い。でも——昨日より、濃い。今日より——明日の方が、また、濃くなる。そういうにおいだ」


―――


 カインが、写しを、広げた。


「……記録には——続きが、あります」とカインが言った。「昨日、読み上げた一行のさらに続きです」


 全員が——カインを、見た。


「……こうあります」とカインが言った。「『声が戻るにつれて、声を持つ者たちの間にも、変化が生まれる。届かなかった間に溜まっていたものが——少しずつ、形を見せ始める』」


 しばらく——誰も、何も、言わなかった。


「届かなかった間に——溜まっていたもの」とジンが、低く、繰り返した。


「……そうです」とカインが言った。「声が届かない間——言えなかったことが、溜まっていく。届けたくて、届けられなくて——溜まっていく。その溜まっていたものが、声が戻るにつれて、少しずつ、形を持ち始める。そういうことだと、思います」


「形を——見せ始める」とノアが、静かに、言った。


「……そうです」とカインが言った。「声が戻る前には——形がなかった。声が戻り始めてから——形が、来る。届けたかったものが、ようやく、届けられる形になる。そういうことだと、思います」


―――


 老人が——木の根元に、来た。


 今日も——また、来た。


 一行の隣に——しゃがんだ。


 根元に——手を、当てた。


 口が、動いた。


 声は——まだ、届かなかった。


 ルルが、息を、止めた。


「……三日目——って、言ってる」とルルが言った。「また来てくれた。三日、来てくれた。信じてなかった——最初は。でも——三日、来た。信じてる、今は。そういうにおいだ」


 ジンが——老人を、見た。


「……来た」とジンが言った。「三日目——来た。昨日の続きから——来た。聞いてる。ちゃんと——今日も、聞いてる」


 老人が——静かに、目を、細めた。


 口が、また、動いた。


 声は——届かなかった。


 でも——ルルが、少し、頷いた。


「……長かった——って、言ってる」とルルが言った。「一人で、長かった。でも——あなたたちが来てから、短くなった。一日が——短くなった。来てくれる人がいるから——一日が、前と違う。そういうにおいだ」


 ジンが——少し、間を置いた。


「……一日が、短くなった、か」とジンが、静かに、言った。


 老人が——頷いた。


―――


 ジンが——根元に、手を、当てた。


「……聞こえてる」とジンが言った。声が——低かった。「三日目——来た。昨日の続きから——聞いてる。お前たちの声が——また、少し、戻ってきてる。今日も——ここにいる。長かったな」


 しばらく——何も、なかった。


 風が——あった。


 それだけだった。


 でも——


 ルルが、息を、止めた。


「……動いた」とルルが言った。「昨日より——最初から、動きが大きい。二日、触れたことを——覚えてる。三日目の続きから——動いてる。においが——また、少し、戻ってきてる。昨日の朝の時より——濃い。ジンが来たから——また、戻ってきてる」


「三日目の続きから——か」とジンが、根元に手を当てたまま、言った。


「……うん」とルルが言った。「一日目より、二日目。二日目より、三日目。続けてるから——続きから、動いてる。毎日、最初からじゃない。昨日の分が——ある。積み重なってる」


―――


 ノアが——木の根元に、近づいた。


 ジンの隣に——しゃがんだ。


 根元に——手を、当てた。


「……聞こえてる」とノアが、静かに、言った。「俺も——三日目の続きから、聞いてる。消えなくていい。まだ——ちゃんと、戻ってきてる」


 ルルが、鼻先を、木に向けた。


「……においが——また、動いた。ジンとノアが——二人、三日目の続きから聞こうとしてる。においが——また、少し、戻ってきてる。昨日の二人の時より——最初から、濃い。続けてるから——続きが、続きになってる」


―――


 老人も——再び、根元に、手を、当てた。


 三人の隣に——静かに、いた。


 ルルが、少し、目を、細めた。


「……においが——また、動いた。三人が——一緒に、三日目から聞こうとしてる。老人のにおいが——少し、違う。昨日と、一昨日と——違う。信じてる、というにおいだ。また来てくれる、って——もう、信じてる。来るかどうか、じゃない。来る、って——わかってる。そういうにおいだ」


「信じてる——か」とジンが、老人を、見た。


 老人が——頷いた。


 口が、動いた。


 声は——届かなかった。


 ルルが、息を、止めた。


「……ありがとう——って、また、言ってる」とルルが言った。「昨日も言いたかった。今日も——言いたい。三日——来てくれた。ありがとう——って、三日、言いたかった。今日も——言えた。届かないけど——言えた。そういうにおいだ」


―――


 昼が——来た。


 老人が——食事を、用意してくれた。


 温かいものだった。


 一行は——それを、受け取った。


 声は——まだ、届かなかった。


 でも——老人は、みんなに、食事を、出した。


 三日目も——同じだった。


 声がなくても——それは、届いた。


 ジンが——食事を、受け取った。


「……ありがとう」とジンが言った。


 老人が——頷いた。


 ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、変わった」とルルが言った。「老人から——三日目のにおいが、した。一日目より、二日目。二日目より、三日目——少しずつ、楽になってきてる。声が届かなくても——ありがとうって、言ってもらえた。三日、言ってもらえた。それが——積み重なってる。そういうにおいだ」


―――


 午後が——来た。


 一行は——再び、木の根元に、集まった。


 セレクが、静かに、口を、開いた。


「……教会の記録に——もう一行、あります」とセレクが言った。「『声が戻るにつれて、最初に形を見せるのは——言えずに溜まっていた言葉ではない。言えなかったことを、知っていてくれた者への、気持ちだ』」


 ジンが——セレクを、見た。


「……言えなかったことを、知っていてくれた者への——気持ち」とジンが、低く、繰り返した。


「……そうです」とセレクが言った。「声が届かない間——自分の言えなかったことを、知っていてくれた人がいた。ずっとそばにいてくれた人が、いた。その人への気持ちが——声が戻り始めた時、最初に形を見せる。そういうことだと、思います」


 老人が——じっと、聞いていた。


 口が、動いた。


 声は——届かなかった。


 ルルが、少し、目を、細めた。


「……老人が——何か、言ってる」とルルが言った。「言えなかったことを——知っていてくれた人が、いた、って。声が届かない間も——ずっと、そばにいてくれた人が、いた。その人に——伝えたいことが、ある。声が戻ったら——一番最初に、その人に、伝えたい。そういうにおいだ」


 ジンが——老人を、見た。


「……伝えたい人が——いるんだな」とジンが、静かに、言った。


 老人が——頷いた。


 目が——少し、潤んでいた。


 声は——届かなかった。


 でも——それだけで、届いた。


―――


 シアが、空間を、静かに、探った。


「……見えてきた」とシアが言った。「昨日より——はっきり、見える。糸が——昨日より、太い。昨日は、厚みがあった。今日は——もう少し、太い。幅がある。声が——三日分、積み重なってる。そういう見え方だ」


「三日分——か」とジンが言った。


「……うん」とシアが言った。「一日ずつ——太くなってる。声が一日ずつ戻るにつれて——糸も、一日ずつ、太くなってる。切れそうで、切れてない——じゃなくて、もう。切れない——に、なってきてる」


 ルルが、息を、止めた。


「……においが——また、変わった」とルルが言った。「消えていくにおいじゃない。消えるのをやめたにおいじゃない。戻ってきてるにおい——それも、まだある。でも——その奥に、もう一つ、においが、してきた。待ってる——においだ。声が戻るのを——待ってる。伝えたいことが、ある——だから、待ってる。そういうにおいだ」


「待ってる——か」とジンが、低く、言った。


「……うん」とルルが言った。「届けたくて、届かなかった。それが——届けたくて、もう少しで届く、に、なってきてる。待ってる。もう少し——待ってる。そういうにおいだ」


―――


 五本目の糸が——穏やかに、揺れた。


 ルルが、息を、止めた。


「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——揺れてる。三日、ここにいたことを——感じてる。消えかけてた声が——また、少し、戻ってきてるのを、感じてる。自分のことを——思い出してる。名前が届かないまま消えそうだった、あの時のことを——思い出してる。でも——今度は、もう少し、もう少し、って、揺れてる。もうすぐ、届く——って、揺れてる。一緒に——待ってる、みたいな揺れ方だ」


「アルト——」とノアが、小さく、言った。「見てるか。俺たちは——三日目も、ここにいるぞ。昨日の続きから——ここにいるぞ」


 五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。


―――


 夕暮れが——来た。


 ルルが——鼻先を、木の方角に、向けた。


「……においが——また、変わってきた」とルルが言った。「一日目の夕方、二日目の夕方、三日目の夕方——全部、違う。一日目は、止まった、というにおいだった。二日目は——少し、戻ってきた、というにおいだった。三日目は——もう少し、戻ってきた、というにおいだ。でも——それだけじゃない。待ってる——においが、今日は、混じってる。声が戻るのを——待ってる、というにおいが」


「待ってる——においが、混じってきた」とジンが、繰り返した。


「……うん」とルルが言った。「届けたいものが——もう少しで届く。だから——待ってる。今日は、そういうにおいが、してきた。昨日は、なかった。今日——初めて、する」


 カインが、写しを、手に取った。


「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『待つということは、届く、ということを、知っているということだ。届かないと思っている者は——待たない。待っている者は——届くことを、知っている』」


 しばらく——誰も、何も、言わなかった。


「届くことを——知っている」とノアが、静かに、繰り返した。


「……そうです」とカインが言った。「届かないままかもしれない、では——待てない。届く、ということを、どこかで知っているから——待てる。この集落の声が、待っているなら——届く、ということを、もう、知っているということです」


 ジンが——木の根元の方角を、見た。


「……知ってるんだな」とジンが、静かに、言った。「声が——届くことを、知ってるんだ」


 ルルが——少し、目を、細めた。


「……うん」とルルが言った。「知ってる。知ってるから——待ってる。もうすぐ——届く。そういうにおいだ」


―――


 エリナが、手帳を、開いた。


 ペンを、走らせた。


 今日のこと——朝、ルルが「においが昨日より濃い、二日いたから戻ってきてる」と言ったこと、カインが「届かなかった間に溜まっていたものが形を見せ始める」という記録を読み上げたこと、老人が三日目も来て「三日来てくれた、信じてる」というにおいがしたこと、ジンが「長かったな」と言ったこと、老人が「一日が短くなった」と言っていたこと、ルルが「三日目の続きから動いてる、積み重なってる」と言ったこと、老人が「言えなかったことを知っていてくれた人に伝えたい」というにおいがしたこと、老人の目が潤んでいたこと、シアが「切れない、に、なってきてる」と言ったこと、ルルが「待ってる、においが混じってきた」と言ったこと、カインが「待っている者は届くことを知っている」という記録を読み上げたこと、アルトが「もうすぐ届く」というように揺れていたこと。すべてを、書いた。


 書き終えて、ペンを止めた。


 それから——もう一行、追加した。


 『今日、老人の方の目が潤んでいました。声は届かなかった。でも、涙は届きました。言えなかったことを知っていてくれた人に伝えたい、とルルさんが読んでいました。声が届かない間も、そばにいてくれた人がいた。声が戻ったら、一番最初に、その人に伝えたい。そういうにおいだ、と。私は、その言葉を書きながら、ペンが止まりました。声が届かなくても——知っていてくれた人が、いた。その人への気持ちが、声が戻り始めた時、最初に形を見せる。カインさんはそう言いました。声が戻ることより先に——その人のことを、思っている。三日目、ルルさんが「待ってる、においが混じってきた」と言いました。届くことを知っているから、待てる。私も、今日、それを感じました。ペンを走らせながら——届く、と、思いました。届く。昨日より今日。今日より明日。続けることが——続きになる。届く、ということを、知っているから、書いている。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


 集落は——静かだった。


 声は——まだ、届かなかった。


 でも——


 今日は、待ってるにおいが——した。


 届くことを知っているにおいが——した。


 ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


 ジンは——木のある方角に、手を、当てた。


 地面を——通して。


「……今夜も——ここにいる」とジンが、小さく、言った。「明日も——ここにいる。三日目の続きから——聞く。お前たちの声が——届くまで。ちゃんと——ここにいる。長かったな。でも——もうすぐだ」


 地面の奥から——返事は、なかった。


 でも——暖炉の火が、穏やかに、揺れた。


 台地の風が——遠く、あった。


 アルトが——見ていた。


 一行の背を——押していた。


 夜が——深くなった。


 待ってるにおいが——した夜が。


 届くことを知っている夜が。


 穏やかに——深くなった。


―――


― 第75話・了 ―


―――


次話予告:


翌朝、ルルが鼻先を向ける。「……においが——また、戻ってきてる。昨日より——もう少し、濃い。でも——今日は、違う。戻ってきてるにおいの中に——別のにおいが、混じってきた。届こうとしてる——においだ。もう少しで届く——そういうにおいだ」。カインが写しを開く。「記録には——『声が届く直前、届かなかった間に溜まっていたものが、一度に形を見せようとする。その時、聞いている者は——ただ、そこにいるだけでよい』とあります」。ジンが根元に手を当てる。「……聞こえてる。今日も——ここにいる。届けていい。ちゃんと——受け取る」。ルルが息を止める。「……においが——動いた。届こうとしてる。届く——今日、届く。そういうにおいだ」。五本目の糸が——大きく、揺れる。


今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。それでは、おやすみなさい。


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