第74話「においが戻ってきた、というルルの声と、昨日の続きから、というジンの声と、留まることで声が戻る、というカインの声と、集落の二日目の朝」
朝が、来た。
集落の朝は——静かだった。
でも——
昨日と、違った。
木の方角から——何かが、した。
音では——なかった。
声でも——なかった。
でも——何かが、あった。
昨日と、違う何かが——あった。
―――
ジンが、目を覚ました。
すぐに——木の方角に、手を、向けた。
地面を——通して、聞いた。
何かが——あった。
昨夜より——少し、違った。
薄いけれど——確かに、あった。
「……ある」とジンが、小さく、言った。「昨日より——ちゃんと、ある。消えてない。留まってたから——消えてない」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——何かが、そこに、あった。
―――
ルルが、目を覚ました。
すぐに——二つの方角に、鼻を、向けた。
後ろ——台地の方角。穏やかな、温かいにおい。アルトが、台地から、こっちを見ている。
前——集落の、木のある方角。
ルルが、少し、目を、細めた。
「……においが——戻ってきてる」とルルが言った。「昨日より——濃い。一晩、ここにいたから——声が、また、少し、戻ってきてる。消えていくにおいじゃない。戻ってきてるにおいだ」
「戻ってきてる——か」とジンが、ルルを、見た。
「……うん」とルルが言った。「ぎりぎりだった。でも——ぎりぎりで、留まった。一晩、ここにいたから——声が、覚えてた。また来てくれた——って、わかってる。そういうにおいだ」
―――
カインが、写しを、広げた。
「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『消えていく声は、一夜で全てが戻るわけではない。聞く者がそこに留まり続けることで——少しずつ、声が戻ってくる』——昨日、読み上げた一行の、続きが、あります」
全員が——カインを、見た。
「……続きには——こうあります」とカインが言った。「『声が戻るとき、最初に戻るのは、最も新しく消えた声だ。古くから消えていた声は、最後に戻る』」
しばらく——誰も、何も、言わなかった。
「最も新しく消えた声が——最初に戻る」とジンが、低く、繰り返した。
「……そうです」とカインが言った。「最後に消えたものが、まず戻る。つまり——今日戻ってきたのは、一番新しく消えかけていた声です。古くから消えていた声は——まだ、奥に、ある。続けることで——次第に、戻ってくる」
「奥に——まだ、ある」とノアが、静かに、言った。
「……あります」とカインが言った。「だから——今日も、ここにいる必要がある」
―――
老人が——木の根元に、来た。
一行の隣に——しゃがんだ。
根元に——手を、当てた。
口が、動いた。
声は——まだ、届かなかった。
ルルが、息を、止めた。
「……また来てくれた——って、言ってる」とルルが言った。「昨日、ここにいてくれた。今日も、いる。だから——また来てくれた、って。そのにおいだ。信じてなかった——昨日までは、また来る人なんていないって、思ってた。でも——来た。また、来た。そういうにおいだ」
ジンが——老人を、見た。
「……来た」とジンが言った。「昨日の続きから——来た。聞いてる。ちゃんと——聞いてる」
老人が——静かに、目を、細めた。
口が、また、動いた。
声は——届かなかった。
でも——ルルが、少し、頷いた。
「……ありがとう——って、言ってる」とルルが言った。「昨日も言いたかった。でも——届かなかった。今日も——届かない。でも、言いたい。ありがとう——って、ずっと、言いたかった。そういうにおいだ」
―――
ジンが——根元に、手を、当てた。
「……聞こえてる」とジンが言った。声が——低かった。「昨日の続きから——聞いてる。お前たちの声が——昨日より、少し、戻ってきてる。ちゃんと——戻ってきてる。今日も——ここにいる」
しばらく——何も、なかった。
風が——あった。
それだけだった。
でも——
ルルが、息を、止めた。
「……動いた」とルルが言った。「昨日触れたことを——覚えてる。昨日の続きから——動いてる。消えていくにおいが——また、少し、戻ってきた。さっきより——濃い。ジンが触れたから——また、戻ってきてる」
「昨日の続きから——か」とジンが、根元に手を当てたまま、言った。
「……うん」とルルが言った。「最初からじゃない。昨日、ここにいたから——今日は、昨日の続きから、動いてる。覚えてる。聞いてもらったことを——覚えてる」
―――
ノアが——木の根元に、近づいた。
ジンの隣に——しゃがんだ。
根元に——手を、当てた。
「……聞こえてる」とノアが、静かに、言った。「俺も——昨日の続きから、聞いてる。消えなくていい。まだ——ちゃんと、ある」
ルルが、鼻先を、木に向けた。
「……においが——また、動いた。ジンとノアが——二人、昨日の続きから聞こうとしてる。消えていくにおいが——また、少し、戻ってきてる。昨日よりも——少し、濃い。続けてるから——続きから、動いてる」
―――
老人も——再び、根元に、手を、当てた。
三人の隣に——静かに、いた。
ルルが、少し、目を、細めた。
「……においが——また、動いた。三人が——一緒に聞こうとしてる。消えていくにおいが——また、戻ってきてる。昨日の三人の時と——同じだ。でも——今日は、昨日より、最初から濃い。昨日の分が、残ってたから。続きから——動いてる」
「続きから——というのは」とエリナが、手帳を開きながら、聞いた。
ルルが、少し、考えた。
「……昨日、聞いてもらったことを——声が、覚えてる。だから、今日は、昨日が終わったところから始められる。最初からじゃない。昨日の続きから——動ける。ゼロじゃない。昨日の分が——ある」
しばらく——誰も、何も、言わなかった。
「……聞こうとしたことは——消えない」とジンが、低く、言った。
「……うん」とルルが言った。「消えない。残る。続きになる。聞いた分だけ——次が、楽になる。そういうにおいだ」
―――
昼が——来た。
老人が——食事を、用意してくれた。
温かいものだった。
一行は——それを、受け取った。
声は——まだ、届かなかった。
でも——老人は、みんなに、食事を、出した。
昨日と——同じだった。
声がなくても——それは、届いた。
ジンが——食事を、受け取った。
「……ありがとう」とジンが言った。
老人が——頷いた。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——変わった」とルルが言った。「老人から——少し、楽になったにおいが、した。昨日より——楽になってる。声が届かなくてもわかる。ありがとうって、言ってもらえた。それが——届いた」
―――
午後が——来た。
一行は——再び、木の根元に、集まった。
セレクが、静かに、口を、開いた。
「……教会の記録に——もう一行、あります」とセレクが言った。「『声が戻るにつれて、最初に戻る者は——その声を最後に手放した者だ。最後まで手放さずにいた者の声が——最後に戻る』」
ジンが——老人を、見た。
「……最後まで手放さずにいた者」とジンが、低く、言った。
「……そうです」とセレクが言った。「この老人の方が——ずっと、この木のそばにいた。声が消えていくのを感じながら——離れなかった。だとすれば——この方の声が、最後に戻ることになる。最後まで手放さなかった声は——最後に帰ってくる」
老人が——じっと、聞いていた。
口が、動いた。
声は——届かなかった。
ルルが、少し、目を、細めた。
「……構わない——って、言ってる」とルルが言った。「最後でいい、って。ここにいたから——最後になる。それで——構わない。みんなの声が先に戻ればいい。そういうにおいだ。でも——」
ルルが、少し、間を置いた。
「……でも——その奥に、もう一つ、においがする。寂しいにおいじゃない。でも——長かった、というにおいだ。ここにいた時間が——長かった。一人で、支えてきた時間が——長かった。そういうにおいだ」
ジンが——老人を、見た。
「……長かったな」とジンが、静かに、言った。
老人が——少し、目を、細めた。
頷いた。
それだけだった。
でも——それだけで、十分だった。
―――
五本目の糸が——穏やかに、揺れた。
ルルが、息を、止めた。
「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——揺れてる。消えかけてた声が——また、少し、戻ってきてるのを、感じてる。自分のことを——思い出してる。名前が届かないまま消えそうだった、あの時のことを——思い出してる。でも——今度は、大丈夫、って、揺れてる。今度は——ちゃんと、戻ってくる、って。一緒に——信じてる、みたいな揺れ方だ」
「アルト——」とノアが、小さく、言った。「見てるか。俺たちは——また、ここにいるぞ。昨日の続きから——ここにいるぞ」
五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。
―――
夕暮れが——来た。
ルルが——鼻先を、木の方角に、向けた。
「……においが——また、変わってきた」とルルが言った。「昨日の夕方と、今日の夕方——違う。昨日は、止まった、というにおいだった。今日は——少し、戻ってきた、というにおいだ。一日、ここにいたから——また、少し、戻ってきてる」
「一日で——どのくらい戻ってきたんだ」とジンが聞いた。
ルルが、少し、考えた。
「……ほんの少し、だ」とルルが言った。「全部じゃない。まだまだ、薄い。でも——昨日よりは、濃い。続けてるから——続きから、動いてる。あと何日かかるかは——わからない。でも、戻ってきてる。確かに——戻ってきてる」
ジンが——木の根元の方角を、見た。
「……わかった」とジンが言った。「明日も——ここにいる」
―――
エリナが、手帳を、開いた。
ペンを、走らせた。
今日のこと——朝、ルルが「においが戻ってきてる、昨日より濃い」と言ったこと、カインが「最も新しく消えた声が最初に戻る」という記録を読み上げたこと、老人が今日も木の根元に来たこと、ジンが「昨日の続きから聞いてる」と言ったこと、ルルが「聞いてもらったことを声が覚えている、続きから動いてる」と言ったこと、セレクが「最後まで手放さなかった声が最後に戻る」という記録を示したこと、老人が「最後でいい、みんなの声が先に戻ればいい」と言っていたこと、でも「一人で長かった」というにおいもルルが感じ取ったこと、ジンが「長かったな」と言ったこと、老人が頷いただけだったこと、アルトが一緒に信じているように揺れていたこと、ルルが「昨日より濃い、確かに戻ってきてる」と言ったこと。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『今日、ルルさんが「昨日の続きから動いてる」と言いました。聞いた分だけ次が楽になる、消えない、残る、続きになる、と。私は、その言葉を書きながら、ペンが、少し、震えました。昨日より今日の方が濃い。今日より明日の方が、きっと濃い。続けることが——続きになる。老人の方が「最後でいい」と言っていた、とルルさんが教えてくれました。ずっと一人で支えてきた時間が長かった、そういうにおいがした、と。ジンさんは「長かったな」と、それだけ言いました。老人の方は、頷いただけでした。声が届かなくても——届いた、と思いました。届いた、ということは、わかった。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
集落は——静かだった。
声は——まだ、届かなかった。
でも——
昨日より、消えていくにおいが——薄かった。
昨日より、戻ってきたにおいが——あった。
ルルは、それを確かめて、眠った。
―――
ジンは——木のある方角に、手を、当てた。
地面を——通して。
「……今夜も——ここにいる」とジンが、小さく、言った。「明日も——ここにいる。昨日の続きから——聞く。お前たちの声が——戻ってくるまで。ちゃんと——ここにいる」
地面の奥から——返事は、なかった。
でも——暖炉の火が、穏やかに、揺れた。
台地の風が——遠く、あった。
アルトが——見ていた。
一行の背を——押していた。
夜が——深くなった。
昨日より、声が、少し戻った夜が。
穏やかに——深くなった。
―――
― 第74話・了 ―
―――
次話予告:
翌朝、ルルが鼻先を向ける。「……においが——また、戻ってきてる。昨日より——もう少し、濃い。二日、ここにいたから——また、戻ってきてる」。カインが写しを開く。「記録には——『声が戻るにつれて、声を持つ者たちの間にも、変化が生まれる。届かなかった間に溜まっていたものが——少しずつ、形を見せ始める』とあります」。老人がジンの隣に、しゃがむ。根元に、手を当てる。口が、動く。声は——まだ、届かない。でも——ルルが、目を細める。「……においが——また、戻ってきた。昨日より——もう少し、濃い。続きから——動いてる。老人の声が——一番奥に、ある。でも——少しずつ、近づいてきてる」。五本目の糸が——穏やかに、揺れる。




