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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第五章「灰の下に眠るものの話」

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第73話「においが強くなってきた、というルルの声と、そこにいる、というカインの声と、消える前に受け取る、というジンの声と、次の声への道」

道が——続いていた。


前から——においが、来ていた。


ルルは——鼻先を、前に向けていた。


歩きながら——ずっと、向けていた。


―――


「……においが——強くなってきた」とルルが言った。声が、静かだった。「消えていくにおい。でも——まだ、届いてる。消えてるけど——まだ、ある。ぎりぎり——ある」


ジンが——ルルを、見た。


「……ぎりぎり、か」とジンが、低く、言った。


「……うん」とルルが言った。「イルナ村を出てから——ずっと、同じにおいだった。でも——今日は、違う。昨日より——薄い。消えるのが——速くなってる」


ジンが——前を、向いた。


「……急ぐか」とジンが言った。


全員が——頷いた。


―――


カインが、写しを、広げた。


「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『消えていく声を留めるには、聞く者が先に声を受け取らなければならない。受け取るとは——声がくる前に、そこにいることだ』」


ジンが——カインを、見た。


「……そこにいる、ということか」とジンが言った。


「……そうです」とカインが言った。「声が届くのを待つのではなく——声が来る前に、その場所に、いる。聞く者がそこにいることで——消えかけていた声が、戻ってくる。そういうことだと、思います」


ルルが——少し、目を、細めた。


「……においが——それだ」とルルが言った。「消えていくだけじゃない。こっちが近づいてるのを——感じてる。消えかけてた声が——また、少し、戻ってきてる。聞いてくれる人が来た——って,においがする」


「戻ってきてる——か」とジンが、静かに、言った。


「……うん」とルルが言った。「でも——まだ,ぎりぎりだ。速く行かないと——また、薄くなる」


―――


五本目の糸が——ゆっくりと、揺れた。


ルルが、息を、止めた。


「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——揺れてる。消えていくにおいを——感じてる。自分も——消えそうだった時のことを、覚えてる。だから——揺れてる。早く行けって——言ってるんじゃない。でも——前を向いてる。一緒に——前を向いてる」


「アルト——」とノアが、小さく、言った。「わかってるか。今度も——一緒に、行くぞ」


五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。


―――


昼を——過ぎた。


道が——変わってきた。


木が——減った。


空が——広くなった。


風が——あった。


でも——


ルルが、少し、顔を上げた。


「……においが——また、動いた」とルルが言った。「近づいてる。さっきより——近い。消えていくにおいの中に——別のにおいが、混じってきた。困ってるにおいだ。届けたくて、届かなくて——困ってる。でも——イルナ村のにおいとは、少し、違う」


「どう——違う」とジンが聞いた。


ルルが、少し、考えた。


「……イルナ村は——積み重なってた。長い間、溜まってた。でも——今度は、積み重なってない。消えてく途中だから——溜まれない。届けたくて、届けたくて——でも届く前に、消えてく。そういうにおいだ」


しばらく——誰も、何も、言わなかった。


「消える前に——受け取る」とジンが、低く、言った。


「……そうです」とカインが言った。


―――


セレクが、静かに、口を、開いた。


「……教会の記録に——もう一行、あります」とセレクが言った。「『消えていく声のある場所には、必ず、最初に声が生まれた痕跡が残っている。その痕跡に触れた者は——声の始まりに戻れる』」


「声の始まりに——戻れる」とノアが、静かに、繰り返した。


「……そうです」とセレクが言った。「声が消えていくとき——全部が消えるわけではない。最初に声が生まれた場所だけは、残る。そこに触れることで——消えかけた声を、もう一度、引き出せる。そういうことだと、思います」


ジンが——手のひらを、見た。


「……最初に声が生まれた場所、か」とジンが言った。


―――


シアが、空間を、静かに、探った。


「……見えてきた」とシアが言った。「遠い。でも——見える。音を運ぶものが——空気の中にある。イルナ村の道筋とは——違う形だ。道筋じゃない。もっと——細い。糸のような。でも——切れそうで、切れてない。ぎりぎり——ある」


「切れそうで——切れてない」とジンが、繰り返した。


「……うん」とシアが言った。「誰かが——支えてる。声が消えないように——誰かが、支えてる。でも——その支えが、もう、限界に近い」


ルルが、息を、止めた。


「……においが——変わった」とルルが言った。「支えてるにおいが——した。消えていくものを、支えながら、困ってる。自分も——消えそうなのに、支えてる。そういうにおいだ」


「支えてる——か」とジンが、静かに、言った。


「……うん」とルルが言った。


―――


夕暮れが——近づいた。


一行は——小さな集落に、着いた。


人が——いた。


数人だった。


みんな——口が、動いていた。


声は——届かなかった。


でも——


ルルが、少し、目を、細めた。


「……においが——ここから、してた」とルルが言った。「消えていくにおいが——ここから、来てた。届けたくて、届かなくて——消えていく。それが——この場所だ」


ジンが——集落を、見た。


人を——見た。


口が動いているのに——声が届かない人を、見た.


「……また、聞きに来た」とジンが、静かに、言った。


―――


一人の老人が——こちらに、気づいた。


歩いてきた。


口が、動いた。


声は——届かなかった。


ルルが、息を、止めた。


「……来てくれたのか——って、言ってる」とルルが言った。「誰かが来るのを——待ってた。でも——もう、諦めてた。来るはずがない、って——思い始めてた。なのに——来た。そういうにおいだ」


ジンが——老人を、見た。


「……聞こえてる」とジンが言った。声を——少し、張った。「声が——届かなくても、ちゃんと、聞こえてる。お前たちの声が——ぎりぎり、まだ、ある。消えいてない。俺たちが来た。ここにいる」


ルルが、少し、目を、細めた。


「……においが——動いた。ジンの声に——引き寄せられてる。消えかけてたにおいが——少し、戻ってきてる。さっきより——濃い。聞いてくれる人が、来た——って、わかってる」


―――


老人が——集落の奥に、歩いた。


手で——ついてこい、と示した。


一行は——ついて行った。


集落の中ほどに——一本の木が、あった。


立っていた。


枯れていなかった。


でも——葉が、なかった。


枝だけが——空に、向かっていた。


ルルが——息を、止めた。


「……においが——ここから、してる」とルルが言った。「消えていくにおいの——一番、濃いところ。ここだ。声が最初に生まれた場所——ここだと、思う」


カインが——写しを、手に取った。


「……『声の始まりに触れた者は、声を引き出せる』——ここが、その場所だと、思います」とカインが言った。


ジンが——木の根元に、近づいた。


膝を——ついた。


手を——根元に、当てた。


―――


昨日までとは——違う感触だった。


重さは——なかった。


積み重なりも——なかった。


代わりに——


薄い。


薄くて、細い。


消えていく途中の——何かが、あった。


「……聞こえてる」とジンが言った。声が——低かった。「ここにいる。消えなくていい。聞いてる人間が——ここにいる」


しばらく——何も、なかった。


風が——あった。


それだけだった。


でも——


ルルが、息を、止めた。


「……動いた」とルルが言った。「ごく小さく——動いた。消えていくにおいが——一瞬、止まった。ジンが触れたから——止まった。消えるのが——止まってる。まだ、薄いけど——消えてない。ぎりぎり——消えてない」


「止まった——か」とジンが、根元に手を当てたまま、言った。


「……うん」とルルが言った。「こっちの声が——届いてる。聞いてくれる人がいる——って、わかってる。だから——消えるのを、止めてる」


―――


ノアが——木の根元に、近づいた。


ジンの隣に——しゃがんだ。


根元に——手を、当てた。


「……聞こえてる」とノアが、静かに、言った。「俺も——ここにいる。消えなくていい。まだ——ちゃんと、ある」


ルルが、鼻先を、木に向けた。


「……においが——また、動いた。ジンとノアが——二人、聞こうとしてる。消えていくにおいが——少し、戻ってきてる。さっきより——濃い。戻ってきてる。ぎりぎりのところで——戻ってきてる」


―――


老人が——ジンの隣に、来た。


根元を——見た。


口が、動いた。


声は——届かなかった。


ルルが、息を、止めた。


「……ずっと——ここにいた、って、言ってる」とルルが言った。「声が届かなくなってから——ずっと、この木のそばにいた。声が消えていくのを——感じてた。止められなかった。でも——離れられなかった。ここにいれば——いつか、誰かが来る、って。そういうにおいだ」


ジンが——老人を、見た。


「……待っていてくれた」とジンが言った。


老人が——根元に、手を、当てた。


ジンとノアの、隣に。


ルルが、少し、目を、細めた。


「……においが——また、動いた。三人が——一緒に聞こうとしてる。消えていくにおいが——また、少し、戻ってきてる。戻ってきてる。でも——まだ、薄い。もう少し——もう少しだけ、必要だ」


―――


夜が——来た。


一行は——集落で、夜を、過ごすことにした。


老人が——食事を、用意してくれた。


温かいものだった。


声は——届かなかった。


でも——老人は、みんなに、食事を、出した。


声がなくても——それは、届いた。


ジンが——食事を、受け取った。


「……ありがとう」とジンが言った。


老人が——頷いた。


―――


暖炉の火が——揺れていた。


カインが、写しを、また、広げた。


「……記録には——もう一行、あります」とカインが言った。「『消えていく声は、一夜で全てが戻るわけではない。聞く者がそこに留まり続けることで——少しずつ、声が戻ってくる』」


「留まる——か」とジンが、静かに、言った。


「……そうです」とカインが言った。「一度触れただけでは——足りない。ここに留まって、何度も聞こうとすることで——消えていた声が、少しずつ、戻ってくる。イルナ村の道筋が記憶を持っていたように——声も、聞いてもらったことを、覚えている。だから——続けることが、必要です」


ジンが——暖炉の火を、見た。


「……明日も——ここにいる、ということか」とジンが言った。


「……そうです」とカインが言った。


―――


ルルが——鼻先を、木の方角に、向けていた。


「……においが——まだ、ある」とルルが言った。「消えてない。さっきより——少し、濃い。こっちが留まってるのを——感じてる。今夜、ここにいる——って、わかってる。消えるのを——やめようとしてる。そういうにおいだ」


「やめようとしてる——か」とジンが、低く、言った。


「……うん」とルルが言った。「消えたくて、消えてたわけじゃない。消えるしかなかった。でも——聞いてくれる人が来たから。ここにいてくれるから——やめようとしてる。声が——消えるのを、やめようとしてる」


―――


五本目の糸が——穏やかに、揺れた。


ルルが、息を、止めた。


「……アルトが——揺れてる」とルルが言った。「台地から——揺れてる。においを感じてる。消えかけてた声が——少し、戻ってきてるのを、感じてる。自分のことを——思い出してる。名前が届かないまま消えそうだった、あの時のことを——思い出してる。でも——今度は、大丈夫、って、揺れてる。今度は——ちゃんと、戻ってくる、って」


「アルト——」とノアが、小さく、言った。「見てるか。俺たちは——また、ここにいるぞ」


五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。


―――


エリナが、手帳を、開いた。


ペンを、走らせた。


今日のこと——ルルが「においが強くなってきた、ぎりぎりある」と言ったこと、カインが「受け取るとはそこにいることだ」という記録を読み上げたこと、ルルが「聞いてくれる人が来た、においがする」と言ったこと、シアが「切れそうで切れていない誰かが支えている」と言ったこと、セレクが「声の始まりの痕跡に触れた者は声を引き出せる」という記録を示したこと、集落に着いたこと、老人がここでずっと待っていたこと、木の根元に触れると消えていくにおいが止まったこと、老人も一緒に根元に手を当てたこと、カインが「留まり続けることで声が戻ってくる」という記録を示したこと、ルルが「消えるのをやめようとしてる」と言ったこと、アルトが穏やかに揺れたこと。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを止めた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、ルルさんが「ぎりぎりある」と言いました。その「ぎりぎり」という言葉が、ずっと頭に残っています。イルナ村の道筋は積み重なっていた。長い間、溜まって、ちゃんとあった。でも今度は違う。消えていく途中だから、溜まれない。届けたくても、届く前に、なくなってしまう。そういう声が、ある。ジンさんが根元に触れて「ここにいる」と言ったら、消えていくにおいが止まったと、ルルさんが言いました。止まった。いるだけで、止まった。聞いてくれる人がいるから、消えるのをやめようとしている。老人の方が、ずっとこの木のそばにいたと教えてくれました。声が届かなくても、離れられなかったと。そのにおいを、ルルさんが読んでいました。離れられなかった理由が、いつか誰かが来るから、だったとしたら——この人も、ずっと、聞いてくれる人を、待っていたのだと思います。カインさんは「留まることで声が戻ってくる」と言いました。明日も、ここにいる。それが、できることの全てです。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


暖炉の火が——揺れていた。


集落は——静かだった。


声は——まだ、届かなかった。


でも——


消えていくにおいが——今夜、少し、薄くなっていた。


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


ジンは——根元のある方角に、手を、当てた。


地面を——通して。


「……ここにいる」とジンが、小さく、言った。「今夜も——ここにいる。明日も——ここにいる。お前たちの声が——消えないように。ちゃんと——聞いてる」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——暖炉の火が、穏やかに、揺れた。


台地の風が——遠く、あった。


アルトが——見ていた。


一行の背を——押していた。


夜が——深くなった。


消えかけた声が——止まった夜が。


穏やかに——深くなった。


―――


― 第73話・了 ―


―――


次話予告:


翌朝、ルルが鼻先を向ける。「……においが——また、戻ってきてる。昨日より——濃い。一晩、ここにいたから——声が、また、少し、戻ってきてる」。カインが写しを開く。「記録には——『声が戻るとき、最初に戻るのは、最も新しく消えた声だ。古くから消えていた声は、最後に戻る』とあります」。ジンが根元に手を当てる。「……聞こえてる。また——来た。昨日の続きから——聞いてる」。ルルが息を止める。「……においが——また、動いた。昨日触れたことを——覚えてる。昨日の続きから——動いてる」。老人が木の根元に来る。隣に、しゃがむ。根元に、手を当てる。口が、動く。声は——まだ、届かない。でも——ルルが、目を細める。「……においが——また、戻ってきた。昨日より——もう少し、濃い。二日、ここにいたから——また、戻ってきてる」。五本目の糸が——穏やかに、揺れる。

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