第72話「また来る、というジンの声と、道は残ってる、というルルの声と、次の声を求める、というカインの声と、イルナ村の出発の朝」
朝が——来た。
イルナ村の朝は——静かだった。
でも——
昨日と、同じ静けさでは、なかった。
広場の方角から——声が、した。
子どもたちの声が。
誰かを呼ぶ声が。
笑い声が。
全部——届いていた。
ちゃんと——届いていた。
―――
ジンが、目を覚ました。
広場の声を——しばらく、聞いた。
それから——地面に、手を、当てた。
静かな、温かいものが——あった。
重さは——なかった。
積み重なっていたものは——なかった。
代わりに——何かが、落ち着いていた。
「……終わったな」とジンが、小さく、言った。「道筋が——繋がった。声が——届いた。ちゃんと——届いた」
広場から——子どもの笑い声が、した。
届く声が——した。
―――
ルルが、目を覚ました。
すぐに——二つの方角に、鼻を、向けた。
後ろ——台地の方角。穏やかな、温かいにおい。アルトが、台地から、こっちを見ている。
前——イルナ村の、どこか。
ルルが、少し、目を、細めた。
「……においが——また、変わってる」とルルが、静かに、言った。「届いた後の落ち着いたにおい——それは、まだある。でも——それだけじゃない。もっと先から——新しいにおいが、来てる。遠くから——来てる。届いた声が、次を呼んでる。そういう——においだ」
「遠くから——か」とジンが、ルルを、見た。
「……うん」とルルが言った。「ここじゃない——もっと遠い場所から。でも——はっきり、来てる」
―――
荷物を——まとめた。
今日は——出発する日だった。
ジンは——広場の方角を、しばらく、見ていた。
「……行くか」とジンが言った。
全員が——頷いた。
―――
広場に——着いた。
待つ木が——あった。
昨日と——同じ場所に、立っていた。
でも——今日は、違かった。
昨日は——ただ、立っていた。
今日は——立っていることに、意味があった。
道筋の端を、守り続けた木が——今日も、ここにいた。
ルルが、息を、止めた。
「……においが——残ってる」とルルが言った。「端が——ちゃんと、残ってる。昨日、道筋が繋がって——でも、端は、消えてない。ここに——ある。木の根元に——ちゃんと、ある」
「残ってる——というのは」とジンが聞いた。
ルルが、少し、考えた。
「……いつでも、開ける」とルルが言った。「また声が届かなくなっても——ここには、端が、ある。道は——もう、ここに、ある。いつでも——また、動かせる」
―――
村長が——広場に、出てきた。
一行を——静かに、見ていた。
口が、動いた。
声が——届いた。
「……行くのか」と村長が、言った。しわがれた声が——穏やかに、届いた。
ジンが——村長を、見た。
「……また、来る」とジンが言った。「お前たちの声が——ちゃんと届いてるか、確かめに、また、来る」
村長が——少し、目を、細めた。
「……待っている」と村長が、言った。「声が届く間——ずっと、待っている。届かなくなっても——また、待つ。今度は——待てる。道が、ここにあることを、知っているから」
ジンが——頷いた。
何も——言わなかった。
ただ——頷いた。
―――
子どもが——広場に、来た。
まっすぐ——ジンの前に、来た。
口が、動いた。
声が——届いた。
「……また、来てくれますか」と子どもが、言った。
ジンが——子どもを、見た。
「……来る」とジンが言った。「約束する」
子どもが——少し、間を置いた。
それから——待つ木の根元に、歩いた。
根元に——小さな手を、当てた。
しばらく——そのまま、いた。
それから——振り返った。
口が、動いた。
声が——届いた。
「……道——残ってますか」と子どもが、聞いた。
ルルが——息を、止めた。
「……残ってる」とルルが言った。「においが——ちゃんと、残ってる。端が——ここにある。消えてない」
子どもが——頷いた。
手を——根元から、ゆっくり、離した。
「……わかった」と子どもが、言った。「ちゃんと——残ってる。待つ木が——また、守ってる」
―――
カインが、写しを、広げた。
「……出発の前に——一行、読み上げてもいいですか」とカインが言った。
全員が——カインを、見た。
「……アル・ヴェリアの記録には——こうあります」とカインが言った。「『声を聞いた者は、次の声を求める。それが——旅の続きだ』」
しばらく——誰も、何も、言わなかった。
「次の声を——求める」とジンが、低く、繰り返した。
「……そうです」とカインが言った。「ここで聞いた声が——次を呼ぶ。イルナ村の声を聞いたから——次の、届かない声が、聞こえるようになる。そういうことだと、思います」
「聞くたびに——聞こえる声が、増えていく」とノアが、静かに、言った。
「……そうです」とカインが言った。「聞こうとした分だけ——聞こえる声が、増えていく。道筋が、太くなるように——聞く者も、太くなっていく」
―――
五本目の糸が——穏やかに、揺れた。
ルルが、息を、止めた。
「……アルトが——こっちを見てる」とルルが言った。「台地から——こっちを、見てる。穏やかに——揺れてる。良かった——って、揺れてる。次を見てる——揺れ方だ。早く行きたいわけじゃない。でも——次がある、って、わかってる。一緒に——前を向いてる」
「アルト——」とノアが、小さく、言った。「また——届いたぞ。今度は——声が、届いた。ここにいる人たちの声が——ちゃんと、届いた」
五本目の糸が——穏やかに、前を向いた。
その向きは——次の方角だった。
―――
セレクが、静かに、口を、開いた。
「……教会の記録に——もう一行、あります」とセレクが言った。「『道を守った者は、旅をした。その旅の終わりに——次の道を守るために、また、どこかへ向かった』」
ジンが——セレクを、見た。
「……旅人が——また、次の場所へ向かった、ということか」とジンが言った。
「……そうだと、思います」とセレクが言った。「この村に来て、端を預けた旅人は——ここで旅を終えなかった。次の声が届かない場所へ——向かったのかもしれません。声を聞いた者は——次の声を求める。その旅人も——同じだったのかもしれません」
ルルが——少し、鼻先を、上げた。
「……においが——する」とルルが言った。「旅人のにおいが——遠く、する。同じ方角を向いてた人のにおい。台地の風のにおいと——少し、似てる。ずっと、先に——いったにおいだ」
「ずっと、先に——か」とジンが、低く、言った。
「……うん」とルルが言った。「でも——消えてない。遠いけど——ある。そういうにおいだ」
―――
一行は——村を、歩いた。
出口へ——向かって、歩いた。
村人が、一人——声をかけてきた。
口が、動いた。
声が——届いた。
「……ありがとう」とその人が、言った。「声が——届くようになった。やっと——言えた」
ジンが——その人を、見た。
「……何が、言えたんだ」とジンが聞いた。
その人が——少し、笑った。
「……家族に——好きだ、って、言えた」とその人が言った。「ずっと——言いたかった。声が届かなくなってから——ずっと、言えなかった。昨日——言えた。今日も——言えた」
ジンが——少し、間を置いた。
「……届いたか」とジンが聞いた。
「……届いた」とその人が言った。「ちゃんと——届いた。顔を——見てくれた。うなずいてくれた。それだけで——十分だった」
ジンが——頷いた。
「……十分だ」とジンが言った。
―――
エリナが、手帳を、開いた。
歩きながら——ペンを、走らせた。
今日のこと——朝、ジンが「終わったな」と言ったこと、ルルが「届いた後のにおいの先に遠くからのにおいがある」と言ったこと、荷物をまとめて広場へ向かったこと、待つ木が今日も立っていたこと、ルルが「端がちゃんと残ってる」と言ったこと、村長が「待てる、道がここにあることを知っているから」と言ったこと、子どもが根元に手を当てて「道残ってますか」と聞いたこと、カインが「声を聞いた者は次の声を求める」という記録を読み上げたこと、セレクが「旅人はまた次の声のある場所へ向かった」と言ったこと、村人が「家族に好きだと言えた、顔を見てくれてうなずいてくれた、それだけで十分だった」と言ったこと、アルトが次の方角を向いていること。すべてを、書いた。
書き終えて、ペンを止めた。
それから——もう一行、追加した。
『出発の朝、子どもが待つ木の根元に手を当てて「道、残ってますか」と聞きました。ルルさんが「残ってる」と答えました。子どもは「ちゃんと残ってる、待つ木がまた守ってる」と言いました。私は、その時、ペンが止まりました。道は残る、と思いました。繋がった道は——消えない。聞こうとしたことは——消えない。昨日、カインさんが「聞こうとすることは消えない」と言っていました。今日も——そうでした。村人の方が「好きだと言えた、うなずいてくれた、それだけで十分だった」と言いました。最も長く待っていた言葉が、届いた。届けることができた。それだけで——十分だったと、その人は言いました。私は、それを書きながら、また、ペンが、止まりました。届けることが、できた。そのことが——ちゃんと、届いた。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』
村の出口が——見えてきた。
風が——あった。
台地の風が——遠く、あった。
届く声が——後ろから、来ていた。
―――
村の出口で——一行は、立ち止まった。
後ろを——振り返った。
広場が——見えた。
待つ木が——見えた。
村人たちが——声を、出していた。
みんな——届く声を、出していた。
子どもが——手を、振っていた。
声が——届いた。
「……また、来てください」と子どもが、言った。
ジンが——手を、振った。
「……また、来る」とジンが言った。
―――
ルルが——二つの方角を、感じた。
後ろから——イルナ村の届いた声のにおい。落ち着いた、安心したにおい。
前から——遠い、新しいにおい。届けたくて、届かなくて、困っているにおい。でも——まだ、遠い。まだ——ここからは、遠い。
ルルが、少し、目を細めた。
「……においが——二つ、ある」とルルが言った。「後ろから——届いたにおい。前から——次のにおい。両方——ある」
「次のにおいが——どこから来てる」とジンが聞いた。
ルルが、少し、考えた。
「……遠い」とルルが言った。「イルナ村より——ずっと、遠い。でも——はっきり、来てる。届けたくて、届かなくて、困ってる。そういうにおいだ。でも——ここのにおいとは、少し、違う」
「どう——違う」とジンが聞いた。
ルルが、鼻先を——少し、前に、向けた。
「……ここのにおいは——声が積み重なってた。溜まってた。次のにおいは——積み重なり方が、違う。声が積み重なってるんじゃなくて——声が、消えてるにおいだ。届かないんじゃなくて——消えてる。消えていくにおいだ」
しばらく——誰も, 何も、言わなかった。
「消えていく——か」とジンが、低く、言った。
「……うん」とルルが言った。「届かないまま——消えてく。そういうにおいだ」
―――
カインが、写しを、手に取った。
「……消えていく声、というのは——記録にも、あります」とカインが言った。「アル・ヴェリアの写しには——こうあります。『届かないままの声には、二種類ある。積み重なる声と、消えていく声。積み重なる声は——道筋を見つければ、届く。消えていく声は——声そのものを、留めなければ、なくなる』」
「留める——というのは」とシアが、静かに、聞いた。
カインが、少し、間を置いた。
「……記録には——それ以上は、書かれていません」とカインが言った。「でも——『消えていく声を留めるには、聞く者が先に声を受け取らなければならない』という一行が、続いています」
「先に——受け取る」とノアが、静かに、繰り返した。
「……そうです」とカインが言った。「届く前に——まず、受け取る。それが——消えていく声への、方法のようです」
―――
五本目の糸が——ゆっくりと、前を向いた。
ルルが、息を、止めた。
「……アルトが——前を向いてる」とルルが言った。「台地から——前を向いてる。次の方角を——見てる。消えていく声のにおいを——感じてる。あの時と——同じだ。名前が届かなかった時のにおいと——少し、似てる。届かないまま消えていくものを——知ってる、みたいな、揺れ方だ」
「アルトが——知ってる」とノアが、小さく、言った。
「……知ってる」とルルが言った。「自分も——消えそうだった。名前が届かないまま——消えそうだった。あの時のことを——覚えてる。だから——揺れてる。早く行けって——言ってるんじゃない。でも——前を向いてる」
ノアが——少し、目を、細めた。
「……アルトも——一緒に、行くんだな」とノアが言った。
「……ずっと」とルルが言った。「最初から——ずっと」
―――
一行は——歩き始めた。
前へ——歩き始めた。
後ろから——イルナ村の声が、した。
子どもの声が。
村長の声が。
村人たちの声が。
全部——届いていた。
前から——遠いにおいが、来ていた。
消えていくにおいが——来ていた。
ジンが——少し、立ち止まった。
後ろを——一度だけ、振り返った。
待つ木が——まだ、見えた。
子どもが——まだ、手を振っていた。
ジンが——もう一度、手を、振った。
それから——前を、向いた。
「……行くか」とジンが言った。
全員が——頷いた。
一行は——歩いた。
声が届いた村を——後にして。
消えていく声の方角へ——歩いた。
―――
五本目の糸が——前を向いた。
穏やかに——前を向いた。
アルトが——見ていた。
台地の風が——一行の背を、押していた。
道が——続いていた。
声が——待っていた。
聞く者が——歩いていた。
それだけで——十分だった。
―――
― 第72話・了 ―
―――
次話予告:
歩きながら、ルルが鼻先を向ける。「……においが——強くなってきた。消えていくにおい。でも——まだ、届いてる。消えてるけど——まだ、ある。ぎりぎり——ある」。カインが写しを開く。「記録には——『消えていく声を留めるには、聞く者が先に声を受け取らなければならない。受け取るとは——声がくる前に、そこにいることだ』とあります」。ジンが、静かに、言う。「……そこにいる、ということか」。ルルが息を止める。「……においが——変わった。消えていくだけじゃない。こっちが近づいたのを——感じてる。消えかけてた声が——また、少し、戻ってきてる。聞いてくれる人が来た——って、においがする」。五本目の糸が——ゆっくりと、揺れる。




