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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第五章「灰の下に眠るものの話」

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第68話「においが変わった、というルルの声と、夢の中の声が何も残らない、というノアの声と、また聞きに来た、というジンの声と、イルナ村の夜明け前」

朝が、来た。


 カルネア平原の草が——風に、揺れていた。


 台地の方角から来る風が——まだ、あった。


 穏やかに。


 静かに。


 一行の背中を——押しながら。


 ジンが、目を覚ました。


 すぐに——北の方角を、見た。


 平原の草が——風に揺れていた。その先に——何かが、あった。


 「……今日——着く、か」とジンが、ぽつりと、言った。


―――


 ルルが、目を覚ました。


 すぐに——二つの方角に、鼻を、向けた。


 後ろ——台地の方角。


 前——北の、どこか。


 しばらく——何も、言わなかった。


 それから——ルルが、静かに、目を、細めた。


 「……においが——変わった」とルルが言った。「昨日より——近い。台地を出た時よりも、ずっと近い。届けたくて、届かなくて、困ってる。そのにおいが——もっとはっきりしてきた」


 「近い——ということは」とジンが聞いた。


 ルルが、北の方角を、もう一度、確かめた。


 「……今日——着く」とルルが言った。「においが——そう言ってる」


―――


 ノアが、静かに、起き上がった。


 しばらく——平原の草を、見ていた。


 「……夢を、見た」とノアが言った。声が、少し、掠れていた。


 全員が——ノアを、見た。


 「夢——というのは」とエリナが、手帳を開きながら、聞いた。


 ノアが、少し、間を置いた。


 「……声が、した」とノアが言った。「夢の中で——声が、した。でも——目が覚めたら、何も、残ってなかった。声がしたこと自体は、覚えてる。でも——何を言ってたのか、わからない。何の声だったのか——わからない」


 しばらく——誰も、何も、言わなかった。


 「……夢の中の声が、何も残らない」とカインが、静かに、繰り返した。


 ノアが、少し、頷いた。


 「……届かなかった、ということか」とノアが、小さく、言った。「夢の中でさえ——届かなかった」


―――


 カインが、地図を、広げた。


 「……改めて、確認します」とカインが言った。「今日中に——村『イルナ』に着けるはずです。次の封印地は、その村の周辺にあります」


 「村の人たちは——何か、知っているのか」とジンが聞いた。


 カインが、写しを、取り出した。


 「……記録には——こうあります」とカインが言った。「『そこに住む者たちは、眠るたびに夢を見る。しかし——夢の中の声が、目覚めた後には、何も残らない』」


 ノアが——息を、止めた。


 「……今の、俺の夢と——同じだ」とノアが、低く、言った。


 カインが、少し、間を置いた。


 「……そうです」とカインが言った。「ノアさんの夢は——その村の人たちが長年経験してきたことと、同じ性質を持っているのかもしれません」


 「俺が——感じた、ということは」とノアが言った。


 「……近い、ということです」とカインが言った。「届かない声が——もうそこまで、来ています」


―――


 セレクが、静かに、口を、開いた。


 「……教会の記録には——もう一行、あります」とセレクが言った。「『夢の声を受け取る者は、その声の道筋の端に立っている。道筋はある。ただ——途中で、断ち切られている』」


 しばらく——誰も、何も、言わなかった。


 「道筋の端に——立っている」とジンが、繰り返した。


 「……そうです」とセレクが言った。「声は出ている。道筋もある。でも——途中で断ち切られているから、届かない。夢の中でかろうじて端に触れられるのは——眠っている時だけ、意識の境界が薄くなるからかもしれません」


 ノアが——手のひらを、見た。


 「……夢の中で——確かに、何かが、来ていた」とノアが言った。「届かなかったけど——来ていた。来ようとしていた」


―――


 荷物を——まとめた。


 炉の火を——消した。


 「……行くか」とジンが言った。


 全員が——頷いた。


 台地の風が——背中に、あった。


 一行は、北へ、歩き始めた。


―――


 カルネア平原を——歩いた。


 草が、風に、揺れていた。


 しばらく——誰も、何も、言わなかった。


 「……ルル」とジンが、ふと、聞いた。「においは——どうだ」


 ルルが、鼻先を、少し、上げた。


 「……近くなってきてる」とルルが言った。「台地のとは——全然、違う。台地は——火になりたくて、困ってた。これは——届けたくて、届けられなくて、困ってる。でも——待ってる。誰かが来るのを——待ってる。そういう、においだ」


 「待ってる——か」とノアが、静かに、言った。


 「……ずっと」とルルが言った。「ずっと——待ってる。声が届かないまま——ずっと、待ってる」


 誰も——何も、言わなかった。


 風が、穏やかに、通った。


―――


 昼過ぎ——平原の草が、少し、低くなった。


 遠くに——小さな屋根が、見え始めた。


 「……あれが」とカインが言った。「イルナです」


 ルルが、鼻先を、上げた。


 「……においが——大きくなってきた」とルルが言った。「あっちが——こっちに気づいてる。届けようとしてる。でも——届かない。そういう、においだ」


 「気づいてる——のか」とジンが、低く、言った。


 「……うん」とルルが言った。「台地の時と——同じだ。こっちが近づいたら——向こうも、動いた。向こうも——気づいた」


 ジンが、北の方角を、見た。


 小さな屋根が——少しずつ、大きくなっていた。


―――


 村に——入った。


 石造りの、小さな家が、並んでいた。


 人の姿は——あった。でも——静かだった。


 子どもが、一人、立っていた。


 こちらを——見ていた。


 何も、言わなかった。


 ただ——見ていた。


 ルルが、息を、止めた。


 「……においが——この子からも、する」とルルが、小さく、言った。「届けたくて——届かなくて、困ってる。そういう——においが」


 子どもは——まだ、こちらを、見ていた。


 口が、少し、動いた。


 でも——声は、聞こえなかった。


―――


 「……声が——出てる」とルルが言った。「でも——届かない。出てるのに——届かない」


 ジンが、子どもの前に、膝を、ついた。


 子どもが——ジンを、見た。


 口が、また、動いた。


 「……何か、言おうとしてるな」とジンが、低く、言った。


 ルルが、子どもの傍に、近づいた。


 鼻先を——少し、近づけた。


 「……ありがとう——って、言おうとしてる」とルルが言った。声が、少し、震えていた。「声が——ちゃんと、出てる。でも——届かない。私には——においでわかる。でも——音として、届かない」


 子どもが——少し、目を、大きくした。


 ルルを——見た。


 「……わかった——みたいだ」とルルが言った。「私が——聞こえてる、って、わかった。においが——変わった。嬉しいにおいに——なった」


―――


 村長が——やって来た。


 年老いた、小柄な、女性だった。


 こちらを——静かに、見た。


 口が、動いた。


 「……この村の人たち——みんな、声が届かないのか」とジンが、ルルに、聞いた。


 ルルが、少し、間を置いた。


 「……うん」とルルが言った。「においは——全員から、する。届けたくて、届かなくて、困ってる。でも——声は、出てる。ちゃんと、出てる。ただ——届かない」


 カインが、村長に、向き直った。


 「……私たちは——旅をしているものです」とカインが言った。「この村のことを——記録で知って、来ました。声が届かない——その理由を、探しに来ました」


 村長の口が——また、動いた。


 ルルが、息を、止めた。


 「……ずっと、待ってた——って、言ってる」とルルが言った。「誰かが来るのを——ずっと、待ってた。そういう——においだ」


―――


 村長が——家の中へ、導いた。


 一行は——中へ、入った。


 暖炉に——火が、あった。


 揺れていた。


 ジンが——炉の火を、見た。


 「……揺れてる」と、ジンが、小さく、言った。「ちゃんと——揺れてる。この村には——火がある。炉の火は——ある」


 「火は——ある」とシアが言った。「でも——空間の動きが、おかしい。音に関わる何かが——正しく流れていない。音を運ぶはずの何かが——途中で、止まっている」


 「音を運ぶ——もの」とノアが、繰り返した。


 「……空気が、動いている。でも——声が、届かない」とシアが言った。「動いているのに——届かない。つまり——空気の流れとは、別の、何かが、断ち切られている」


―――


 セレクが、静かに、口を、開いた。


 「……教会の記録には——こうあります」とセレクが言った。「『声は空気ではなく、もう一つの道を通る。その道が断ち切られた場所では——声は出ても、世界に触れられない』」


 「もう一つの道——というのは」とエリナが、ペンを持ったまま、聞いた。


 セレクが、少し、考えた。


 「……わかりません」とセレクが言った。「記録には——道の名前は、ありません。ただ——『声が世界に触れるための道筋』とだけ、書かれています。その道筋が——ここでは、断ち切られている」


 「断ち切られた——道筋に、触れる」とジンが、低く、言った。


 「……そうです」とカインが言った。「灰の台地で——地面に触れることで、地底の存在と繋がれた。今度は——音の道筋に、触れなければならない。どうやって——それを、俺たちが、見つける」


 ジンが、少し、目を、細めた。


 「……道筋は、そこにいる者が、見つける——だったな」とジンが言った。


 「……そうです」とカインが言った。


―――


 夕暮れが——来た。


 村長が——食事を、用意してくれた。


 温かい、スープだった。


 一行は——それを、受け取った。


 村長の口が——また、動いた。


 ルルが、息を、止めた。


 「……何年も、ずっと、こうだった——って、言ってる」とルルが言った。「声が届かないまま——何年も、ずっと。でも——諦めてない。諦めてない、においがする。ただ——疲れてる。長く——疲れてる」


 ジンが、スープを、一口、飲んだ。


 温かかった。


 「……わかった」とジンが、村長に向かって、言った。「明日——探す。道筋を、探す。必ず——見つける」


 村長の目が——少し、動いた。


 ルルが、小さく、言った。


 「……信じてくれてる。嬉しいって——においがする」


―――


 夜が、深くなった。


 暖炉の火が——揺れていた。


 五本目の糸が——ゆっくりと、揺れた。


 ルルが、息を、止めた。


 「……アルトが——こっちを見てる」とルルが言った。「台地から——こっちを、見てる。一緒に、来てる。心配してる——わけじゃない。ただ——見てる。応援してる、顔で、見てる」


 「アルト——この村のこと、わかるか」とノアが、小さく、聞いた。


 ルルが、少し、考えた。


 「……うん、わかる——と思う」とルルが言った。「アルトも——ずっと、届かなかった。名前が——届かなかった。それと——同じ、においがするって——糸が、揺れてる。共鳴してる」


 ノアが——少し、目を、細めた。


 「……アルトも——一緒に、聞いてくれてるのか」とノアが言った。


 「……ずっと」とルルが言った。「最初から——ずっと」


―――


 エリナが、手帳を、開いた。


 ペンを、走らせた。


 今日のこと——朝、ノアが「夢の中の声が何も残らなかった」と言ったこと、カインがイルナ村の記録を読み上げたこと、セレクが「夢の声を受け取る者は道筋の端に立っている」という記録を引いたこと、村に着くとルルが「においが近い、あっちがこっちに気づいてる」と言ったこと、子どもから声が出ているのに届かないことをルルが感じたこと、ルルが「ありがとうって言おうとしてる」と言ったこと、シアが「音を運ぶ別の道筋が断ち切られている」と言ったこと、村長が長年待っていたと伝えたこと、ジンが「明日、道筋を探す、必ず見つける」と言ったこと、アルトが五本目の糸の向こうで応援していること。すべてを、書いた。


 書き終えて、ペンを止めた。


 それから——もう一行、追加した。


 『今日、村に入った時、子どもが口を動かしていました。声は、聞こえませんでした。でも——ルルさんが「ありがとうって言おうとしてる」と言いました。私には、直接わかりません。でも——その子の顔を見て、わかりました。確かに、何かを、伝えようとしていた。ジンさんが膝をついて子どもと目線を合わせました。それだけで——子どもの顔が、少し、変わりました。声は届かなくても——見てくれている、ということは届いた。そういうことだと思います。村長さんは長年待っていたと言いました。諦めずに——待っていた。ジンさんが「明日、道筋を探す」と言いました。私は、その言葉を書きながら、台地の時のことを思い出しました。あの時も——わからないまま、始めた。でも——届いた。また、聞きに来た。それだけで——十分だと思いました。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


 暖炉の炎が、静かに、揺れた。


 村の夜が——深くなった。


―――


 ルルは、暖炉の火を——見ていた。


 においが——二つ、あった。


 後ろから——台地の風のにおい。穏やかな、温かいにおい。


 前から——届けたくて、届かなくて、困ってるにおい。でも——待ってる。ちゃんと——待ってる。


 ルルは、少し、目を細めた。


 「……においが——する」とルルが、小さく、呟いた。「また——困ってるものが、いる。でも——今度は、違う種類の、困り方だ。声は、ある。ちゃんと、ある。ただ——届かない。届けたくて——届かない」


 地面の奥から——返事は、なかった。


 でも——北の方角から、ごく小さく——何かが、震えた、ような気がした。


 ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


 ノアは——眠れなかった。


 暖炉の火を——見ていた。


 今朝の夢のことを——考えていた。


 声が——した。


 でも——目が覚めたら、何も、残っていなかった。


 それは——この村の人たちが、ずっと、繰り返してきたことだ、と——ノアは思った。


 「……届かなかった」とノアが、小さく、言った。「声は、あった。でも——届かなかった。アルトの時と——同じだ。名前を、呼ぼうとしたのに——届かなかった。あの時と——同じだ」


 ノアが、手のひらを——見た。


 「……でも——今度は、届ける」とノアが言った。「今度こそ——届ける」


 暖炉の火が——穏やかに、揺れた。


―――


 夜が、深くなった。


 暖炉の火が、揺れていた。


 北の方角には——まだ、遠い、何かがあった。


 声を持ちながら——声が届かないまま。


 それでも——待っていた。


 誰かが、来ることを。


 音の道筋に——触れてくれる者が、来ることを。


 待っていた。


 ジンが——地面に、手を、当てた。


 重さを——感じた。


 台地の時とは——違う重さだった。


 でも——確かに、あった。


 「……また、聞きに来た」とジンが、小さく、言った。「お前の声を——聞きに来た。道筋が、どこで、断ち切られてるのか——俺たちが、見つける」


 地面の奥から——返事は、なかった。


 でも——北の方角から、ごく小さく——何かが、震えた。


 台地の風が——穏やかに、通った。


 炉の火が——揺れた。


 一行の背を——押した。


―――


― 第68話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、ジンは村の中を歩く。「道筋が——どこかにある」。ルルが鼻を向ける。「……においが——ここから、変わってる。この辺りで——何かが、断ち切られてる」。シアが空間を探る。「……見えない。でも——感じる。音が積み重なってる場所が——ある」。カインが写しを開く。「記録には——『道筋に触れるには、まず、声を聞かなければならない。聞こうとする者の前に——道筋は現れる』とあります」。ノアが、静かに、言う。「……聞こうとする——か」。ジンが地面に手を当てる。「……ここか」。地面の奥から——初めての、ごく小さな、震えが返ってくる。ルルが、息を止める。「……動いた。道筋が——動いた」。五本目の糸が——穏やかに、前を向く。


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