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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第五章「灰の下に眠るものの話」

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第66話「ありがとう、というノアの声と、風が来るにおいだ、というルルの声と、行ってくる、というジンの声と、穏やかに見送るアルトの目」

夜が、明けた。


 灰の台地の方角からは——風が、あった。


 昨日と——同じ風が。


 炉の火は、また、灰になっていた。白い、軽い灰が——残っていた。


 ジンが、目を覚ました。


 すぐに——台地の方角を、見た。


 しばらく——何も、言わなかった。


 それから——ゆっくりと、息を、吸った。


 「……終わった」とジンが、ぽつりと、言った。「ちゃんと——終わった」


―――


 ルルが、目を覚ました。


 すぐに——台地の方角に、鼻を、向けた。


 しばらく——何も、言わなかった。


 それから——ルルが、静かに、目を、細めた。


 「……においが——全然、違う」とルルが言った。「台地の、ちゃんとした朝のにおいだ。困ってるにおいが——ない。燃えられなかったにおいが——ない。苦しいにおいが——ない。ただ——朝だ。台地の朝だ」


 「朝に——なった、か」とジンが、静かに、言った。


 ルルが、少し、頷いた。


 「……ちゃんとした、朝に——なった」


―――


 ノアが、静かに、起き上がった。


 台地の方角を、しばらく、見ていた。


 「……夢は、なかった」とノアが言った。「昨日まで——ずっと、夢を見てた。でも——今日は、なかった。ただ——静かだった」


 「静かだった——というのは」とエリナが、手帳を開きながら、聞いた。


 ノアが、少し、考えた。


 「……穏やかだった。あいつが——ちゃんと、落ち着いてる、感じがした。遠くに行ったんじゃなくて——台地の中に、いる。台地の一部に——なって、いる。そういう、静けさだった」


―――


 カインが、革の鞄に——アル・ヴェリアの写しを、しまった。


 ゆっくりと。


 丁寧に。


 「……記録を、一つ、最後に読んでおきたいと思います」とカインが言った。「昨夜——写しの末尾に、これまで見落としていた一行がありました」


 全員が——カインを、見た。


 カインが、鞄の口を——閉じた。


 「……読みます」とカインが言った。「『守られたものが光になった後——台地は、初めて自分の朝を知る。その朝は、誰のものでもない。台地の、朝だ』」


 しばらく——誰も、何も、言わなかった。


 「……台地の、朝」とジンが、低く、繰り返した。


 「……そうです」とカインが言った。「四百年——台地には、台地の朝が、なかった。今日——初めて、来た」


―――


 野営地を——片付け始めた。


 炉の火を——消した。


 荷物を——まとめた。


 いつものことだった。


 でも——今日は、違った。


 誰も、急がなかった。


 誰も、無言でもなかった。


 シアが、荷物を束ねながら——ぽつりと、言った。


 「……台地が、軽い」


 「軽い——というのは」とジンが聞いた。


 シアが、少し、空間を、探った。


 「……魔力の流れが——ある。昨日まで、なかった。今日——ちゃんと、流れてる。台地の空気が——動いてる。重かったものが——ない」


 「ザルヴァが、止めてたものが——なくなったのか」とジンが、低く、言った。


 「……そうです」とカインが言った。「台地を縛っていたものが——今日、消えた。世界の、一つの流れが——今日から、また、動く」


―――


 荷物が——まとまった。


 出発の、準備が——できた。


 でも——ジンは、すぐには、動かなかった。


 全員を——見た。


 「……もう一度、だけ」とジンが言った。「行く前に——窪みの前に、立ちたい」


 誰も——何も、言わなかった。


 全員が——頷いた。


―――


 窪みへの道を——歩いた。


 境界を、越えた。


 窪みが——見えた。


 昨日と——同じ場所に。


 でも——違った。


 黒いものが——なかった。


 灰だけが、あった。


 軽い——灰だけが。


 ルルが、鼻先を、少し、上げた。


 「……においが——穏やかだ」とルルが言った。「在り続けて、届いた——においがする。苦しくない。困ってない。ただ——穏やかに、ここに、在る」


―――


 ジンが、窪みの前に、立った。


 地面に——両手を、当てた。


 目を、閉じた。


 しばらく——静かだった。


 地面の奥から——重さが、来た。


 これまでとは——全く、違う、重さだった。


 重さ——というより。


 温かさ——だった。


 台地の中に、均等に、静かに、広がった温かさが——ジンの両手を通じて、返ってきた。


 「……いる」とジンが、小さく、言った。「ちゃんと——いる。形は、ないけど。でも——いる。台地の中に——ちゃんと、いる」


 ジンが、目を、開けた。


 窪みを、見た。


 「……行ってくる」とジンが言った。「次の——止まってるところへ。でも——また、来る。この台地に——来る。お前が、台地の一部になったんなら——ここに来れば、会える」


 地面の奥から——返事は、なかった。


 でも——温かさが、少し、柔らかく、動いた。


 わかった——と言うように。


―――


 ノアが、窪みの前に、立った。


 地面を——しばらく、見ていた。


 それから——しゃがんで、両手を、地面に、当てた。


 「……ありがとう」とノアが言った。声が、穏やかだった。震えていなかった。「四百年——待っててくれて。俺が来るのを——ちゃんと、待っててくれて。ありがとう」


 一拍。


 二拍。


 地面の奥から——温かさが、返ってきた。


 ゆっくりと。


 柔らかく。


 「……こっちこそ」と——言うような、温かさだった。


 ノアが、少し、目を、細めた。


 「……届いた、よな」とノアが言った。「今度こそ——ちゃんと、届いた」


 台地の風が——穏やかに、通った。


―――


 ルルが、ふと——息を、止めた。


 「……五本目の糸」とルルが言った。「今——ゆっくり、穏やかに、揺れてる。アルトが——台地の方角を、見てる。窪みを——見てる。でも、悲しそうじゃない。ただ——穏やかに、見てる。友達のことを、ちゃんと、見届けた。その顔で、見てる」


 ノアが、立ち上がった。


 「……アルトも——見てたんだな」とノアが、小さく、言った。「最後まで——見てたんだな」


 「……ずっと」とルルが言った。「最初から——ずっと、見てた。一人じゃ、なかった。ずっと——見てもらってた」


―――


 セレクが、静かに、口を、開いた。


 「……一つ、最後に」とセレクが言った。「教会の記録に——こういう一行があります。『光になったものは——台地の風になる。その風は、次に来る者の背を、押す』」


 しばらく——誰も、何も、言わなかった。


 「……背を、押してくれる、か」とジンが言った。


 「……そうです」とセレクが言った。「アルトは——行く先に、ちゃんと、いる。形を変えて——台地の風として、一行の背を、押す」


 台地の風が——また、来た。


 今日——何度目かの、風が。


 ジンの髪が——少し、揺れた。


 ノアの髪が——少し、揺れた。


 全員の——髪が、揺れた。


―――


 窪みを——もう一度、見た。


 灰だけが、あった。


 軽い——灰が。


 でも——温かかった。


 「……行くか」とジンが言った。


 全員が——頷いた。


 一行は、窪みに、背を向けた。


 台地の出口へ、向かって、歩き始めた。


 歩いた。


 誰も、振り返らなかった。


 振り返らなくても——わかった。


 台地の風が——ずっと、背を、押していた。


―――


 エリナが、歩きながら——手帳を、開いた。


 ペンを、走らせた。


 今日のこと——朝、ジンが「ちゃんと終わった」と言ったこと、ルルが「台地のちゃんとした朝のにおい」を感じたこと、ノアが夢なしの穏やかな静けさで目を覚ましたこと、カインが「守られたものが光になった後、台地は初めて自分の朝を知る」というアル・ヴェリアの記録の最後の一行を読んだこと、シアが「台地の魔力の流れが戻った、軽い」と言ったこと、ジンが窪みの前で「行ってくる、また来る」と言ったこと、地面の奥から温かさが返ってきたこと、ノアが「ありがとう」と言ったこと、セレクが「光になったものは台地の風になり次に来る者の背を押す」という記録を引いたこと、台地の風が一行全員の髪を揺らしたこと。すべてを、書いた。


 書き終えて、ペンを止めた。


 それから——もう一行、追加した。


 『今日、野営地を片付けながら、シアさんが「台地が軽い」と言いました。確かに——昨日まで、台地の空気は重かった。今日は、違いました。ジンさんが窪みの前で「行ってくる、また来る」と言いました。地面の奥から返事はありませんでしたが——温かいものが、確かに、返ってきました。私には直接わかりません。でも——ジンさんの顔を見て、わかりました。ノアさんが「ありがとう」と言いました。それは、震えていない声でした。四百年分の言葉が、ようやく、声になった——そういう声でした。台地を出る時、風が吹きました。セレクさんは「光になったものが台地の風として背を押す」と言いました。私は、その風を、背中で感じました。それだけを、最後に、書きます。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


 ペンを——しまった。


 手帳を——閉じた。


 台地の風が——また、来た。


―――


 カルネア平原の端まで——歩いた。


 台地の灰色の大地が——緑に、変わっていった。


 境界を、越えた。


 振り返ると——台地が、あった。


 灰色の、広い台地が。


 風が、吹いていた。


 灰が——穏やかに、流れていた。


 「……ルル」とジンが言った。「五本目の糸——今、どうだ」


 ルルが、少し、考えた。


 「……アルトが——こっちを、見てる」とルルが言った。「台地の方角から——こっちを、見てる。悲しそうじゃない。ただ——見てる。ちゃんと、見送ってる。友達を、見送ってる、顔で、見てる」


 「……そうか」とジンが言った。


 「……もう一つ」とルルが言った。「においが——来てる。台地から——においが、来てる。ちゃんとした朝のにおい。風のにおい。それから——」


 ルルが、少し、目を、細めた。


 「……まだ、困ってるにおいが——する。もっと、遠い場所から。でも——こっちを、向いてる。次に来てくれるのを——待ってる、においだ」


―――


 全員が——ルルを、見た。


 「……次の、封印地か」とジンが、低く、言った。


 ルルが、頷いた。


 「……においがする。まだ——困ってるものが、いる」


 カインが、地図を、取り出した。


 「……調べてきました」とカインが言った。「次の封印地について——アル・ヴェリアの写しの中に、もう一箇所の記録が、あります。灰の台地の次に向かうべき場所の、記録が」


 全員が——カインを、見た。


 カインが、地図の一点を、指で、押さえた。


 「……こちらです」


―――


 セレクが、静かに、口を、開いた。


 「……記録には、こうあります」とセレクが言った。「アル・ヴェリアが残した言葉です。『次に向かう者よ——止められた声を、また、聞け。灰の下で聞いた音を——忘れるな。声を持たないものに、声を返す旅は——まだ、続く』」


 しばらく——誰も、何も、言わなかった。


 「……続く、か」とジンが言った。


 「……続きます」とカインが言った。「ここで終わりではない。次も——止まってるものが、いる。次も——声を持てないものが、いる。私たちは——また、聞かなければならない」


 ジンが、台地を、もう一度、見た。


 それから——全員を、見た。


 「……行くか」とジンが言った。


 全員が——頷いた。


―――


 カルネア平原を——歩いた。


 台地の風が——背中に、あった。


 しばらく——誰も、何も、言わなかった。


 それは——静かさだった。


 でも——空っぽの静かさでは、なかった。


 ちゃんと——満ちていた。


 「……ルル」とジンが、ふと、聞いた。「五本目の糸——今は」


 ルルが、少し、振り返った。


 台地の方角を——見た。


 それから——前を、向いた。


 「……一緒に、来てる」とルルが言った。「アルトが——一緒に、来てる。台地に、いる。でも——一緒に、来てる。見えないけど——一緒に、歩いてる」


 ジンが、少し、目を、細めた。


 「……そうか」とジンが言った。「なら——七人だな。今日から」


 ノアが——少し、笑った。


 声は、出なかった。


 でも——笑った。


 「……七人、か」とノアが言った。「増えたな」


―――


 夕暮れが——来た。


 平原の端に——野営地を、作った。


 炉に、火を、つけた。


 火が、揺れた。


 ルルが、台地の方角を——見ていた。


 「……においが——遠くなってきた」とルルが言った。「台地の朝のにおい。でも——消えてない。ちゃんと——ある。ずっと、ある。アルトが——台地から、こっちを、見てる。穏やかに——見てる」


 「……アルト」とノアが、小さく、呟いた。「俺たちの旅——見ててくれ」


 台地の方角から——風が、来た。


 炉の火が——揺れた。


 それが——返事だった、ような気がした。


―――


 夜が、深くなった。


 炉の火が、揺れていた。


 台地は——遠くなった。


 でも——台地の風は、まだ、あった。


 アルトという名前を持ったものは——今夜、台地の中で、静かに、静かに。


 一行を——見ていた。


 遠ざかっていく、一行を。


 悲しくは、なかった。


 行ってしまう——のではなかった。


 次に向かっていく——のだった。


 次の——止まってるものの、ところへ。


 次の——声を持てないものの、ところへ。


 自分が、できなかったことを——あいつらは、また、やる。


 それが——嬉しかった。


 在り続け——届いた。


 名前の通りに。


 今夜——台地の風が、吹いていた。


 その風の中で——アルトという名前を持ったものは、静かに、静かに。


 一行の背を、押していた。


―――


― 第66話・了 ―


―――


次話予告:平原を進む一行の前に、カインが地図の一点を示す。「次の封印地——ここです」。セレクがアル・ヴェリアの記録を引く。「『水でも火でも灰でもない場所。そこには——音が、止まっている』」。ルルが鼻を向ける。「……においがする。違う種類の——困ってるにおいだ。さっきまでの台地とは——全然、違う。でも——困ってる。ちゃんと——困ってる」。ノアが、遠くを見る。「……音が、止まってる、というのは」。カインが、写しを開く。「……声を出そうとして、出せないのではなく——最初から、音そのものが、届かない場所、です」。ジンが、地図の一点を、見る。「……行くか」。全員が、頷く。五本目の糸が——穏やかに、前を向く。


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