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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第五章「灰の下に眠るものの話」

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第65話「来る、というルルの声と、くぐってる、というジンの声と、燃えてる、においだ、という朝と、四百年ぶりの、光」

夜が、明けていなかった。


灰の台地の方角からは——風が、なかった。


炉の火は、まだ、揺れていた。


ルルが、目を覚ました。


夢の中ではなかった。


何かが——来た、と思った。


すぐに——台地の方角に、鼻を、向けた。


一瞬——体が、止まった。


それから——ルルが、立ち上がった。


「……来る」とルルが言った。声が、震えていた。「今——来る」


―――


ジンが、目を覚ました。


ルルの声が——聞こえたからではなかった。


地面の奥から——何かが、動いた。


それが、ジンの全身を通り抜けた。


起き上がった。


エリナが、目を覚ました。カインが、目を覚ました。セレクが、目を覚ました。シアが、目を覚ました。ノアが——もう、起きていた。


全員が——台地の方角を、見た。


「……においが」とルルが、声を絞るように言った。「変わってきてる。燃える前のにおいが——燃えてる、においに、なっていく」


ノアが、立ち上がった。


「……行く」とノアが言った。


誰も——何も、言わなかった。


全員が、立ち上がった。


―――


境界を、越えた。


夜は、まだ、明けていなかった。


空の端が——ほんの少しだけ、白んでいた。


窪みへの道を——急いだ。


走らなかった。


でも——全員の足が、自然と、速くなった。


ルルが、先頭を歩いた。


においを——追いかけていた。


「……近い」とルルが言った。「においが——大きくなってきてる。苦しいんじゃない。もう——苦しくない。ただ——燃えてる。燃えながら——立ち上がろうとしてる、においだ」


―――


窪みが——見えた。


黒い、小さな何かは——昨日と、同じ場所に、同じ形で。


でも——違った。


近づく前から——わかった。


シアが、立ち止まった。


「……空間が——動いてる」とシアが言った。声が、掠れていた。「昨日まで——形が、整っていた。今は——その形が、自分で、動いてる。誰かが動かしてるんじゃない。自分で——自分で、動いてる」


ルルが、鼻先を、上げた。


「……においが——もっと、大きくなってきた。燃えてる、においだ。苦しくない。怖くない。ただ——燃えてる。四百年——燃えたかったものが、ようやく、燃えてる。そういう、においだ」


ジンが、窪みを、見た。


「……行くぞ」とジンが、低く、言った。


―――


窪みの前に、立った。


ジンが、地面に——両手を、当てた。


目を、閉じた。


しばらく——静かだった。


それから——地面の奥から、重さが、来た。


これまでとは——全く、違う、重さだった。


押してくるのでもなく、広がるのでもなく、立っているのでもなく、震えるのでもなく、まっすぐ上に向かうのでもなく、揺るがない肯定でもなかった。


ただ——


動いていた。


何かが——扉をくぐる時の、動きだった。


「……くぐってる」とジンが、低く、言った。「自分で——くぐってる」


―――


誰も、動かなかった。


誰も、何も、言わなかった。


風も、なかった。


音も、なかった。


それから——


炉の火が——揺れた。


風がないのに。


大きく、ゆっくりと、揺れた。


「……五本目の糸」とルルが、小さく、言った。「今——ものすごく、大きく、揺れてる。アルトが——アルトが——」


ルルが、言葉を、止めた。


両手で、口を、押さえた。


「……アルトが——泣いてる。声を出して泣いてるんじゃない。でも——ずっと、ずっと待っていた友達が、ようやく来るのを、見てる。そういう——泣き方をしてる」


―――


地面の奥から——重さが、続いていた。


動き続けていた。


ジンが、地面に手を当てたまま——目を、開けなかった。


開けられなかった。


感じていたかった。


この重さを——最後まで、感じていたかった。


「……怖がってない」とジンが言った。声が、穏やかだった。「全然——怖がってない。ただ——まっすぐ、くぐってる。自分で、決めたから。自分で、決めたから——怖くない。ただ、まっすぐ、行ってる」


ノアが——地面に、片手を、当てた。


何も、言わなかった。


ただ——感じていた。


一拍。


二拍。


それから——ノアが、小さく、言った。


「……お前らしいな」


―――


灰の台地の空気が——震え始めた。


音では、なかった。


振動でも、なかった。


ただ——何かが、変わっていく感覚だった。


シアが、空間を探り続けていた。


「……形が——消えた」とシアが言った。「容れ物の形が——消えた。受け取る形も、整った形も、前のめりの形も、真っ直ぐ立った形も——全部、消えた。でも——消えたんじゃない。形じゃないものに——なった」


「形じゃないものに、というのは」とカインが、低く、聞いた。


シアが、少し、間を置いた。


「……光だ」とシアが言った。「形じゃなくて——光に、なっていく」


―――


台地の灰が——静かに、舞い上がった。


風は、なかった。


それでも——灰が、舞い上がった。


白い、軽い灰が——ゆっくりと、ゆっくりと、上に向かって、動いた。


ルルが、息を呑んだ。


「……においが——変わった」とルルが言った。声が、震えていた。「燃えてる、においじゃなくなった。燃えた——においでもない。これは——」


ルルが、少し、止まった。


「……光の、においだ。世界に何かが、残っていく——においだ。形が変わって——でも消えないで——世界に残っていく、においだ」


エリナが——ペンを、走らせていた。


手が、震えていた。


それでも——書いていた。


―――


窪みの底から——何かが、来た。


黒い、小さな何かが——あった場所から。


光では、なかった。


眩しくは、なかった。


ただ——温かかった。


温かいものが——灰の下から、立ち上がった。


ゆっくりと。


まっすぐに。


上へ向かって。


ジンが、手を離さないまま——目を、開けた。


窪みを、見た。


「……見えるか」とジンが、全員に、聞いた。


全員が——見ていた。


誰も、頷かなかった。


頷けなかった。


ただ——見ていた。


―――


それは——火ではなかった。


炎でも、なかった。


でも——確かに、そこに、あった。


灰の台地の中央の窪みから——温かいものが、静かに、静かに、立ち上がっていた。


灰が——その周りを、舞っていた。


四百年——降り積もった灰が。


その温かいものに導かれるように——上へ、上へ、散っていった。


カインが、写しを——強く、握った。


「……自ら選んだものの火は——見届けてくれる者がいる時に、燃える」とカインが、小さく、言った。「私たちが——見届けた。確かに——見届けた」


―――


セレクが、静かに、口を、開いた。


「……灰に、ならない」とセレクが言った。「記録には——自ら燃えることを選んだものは、灰にならない、光になる、とあった。今——なっている。形を変えて——世界に、残っている」


「残ってる——のか」とノアが、小さく、聞いた。


セレクが、少し、間を置いた。


「……おそらく」とセレクが言った。「消えたのではない。世界の一部に——なった。アル・ヴェリアが守ったものが——今日、ようやく、世界に解き放たれた」


ノアが——しばらく、何も、言わなかった。


それから——窪みを、見た。


「……よかった」とノアが言った。「お前が——お前らしく、終われて。本当に——よかった」


―――


温かいものは——少しずつ、少しずつ、薄れていった。


消えていくのではなかった。


広がっていくのだった。


台地の空気の中に——均等に、静かに、広がっていった。


ルルが、鼻を、少し、上げた。


「……においが——変わっていく」とルルが言った。「燃えてたにおいが——台地に、溶けていく。困ってたにおいが——なくなった。苦しかったにおいが——なくなった。代わりに——穏やかな何かが、残ってる」


「穏やかな何か——というのは」とジンが聞いた。


ルルが、少し、考えた。


「……安心した、においだ。ようやく——ここに在れた、というにおいだ。在り続けて——届いた、というにおいだ」


ジンが、目を、細めた。


「……アルト」とジンが、小さく、言った。「在り続けて——届いたな」


―――


空が——明け始めた。


夜明けが——来た。


灰の台地の地平線の向こうから——光が、差し込んできた。


今日——初めて。


台地の朝が、来た。


ルルが、台地を、見渡した。


「……においが——全然、違う」とルルが言った。「困ってたにおいが、ない。燃えられなかったにおいが、ない。苦しかったにおいが——ない。代わりに——朝のにおいがする。ちゃんとした——朝のにおいがする」


「朝のにおいがする——というのは」とジンが聞いた。


ルルが、少し、目を、細めた。


「……風が——来る、においだ」


―――


風が、来た。


炉の火が——揺れた。


台地の灰が——穏やかに、流れた。


昨日まで——何十年も、何百年も、動かなかった灰が。


今日——初めて、流れた。


カインが、台地を、見ていた。


「……ザルヴァが止めていた風が——戻ってきた」とカインが、静かに、言った。「この存在が燃えることで——止まっていた流れが、再び、動いた。世界の——一つの流れが、今日、戻った」


シアが、空間を、探った。


「……魔力の凪が——ない」とシアが言った。「ずっと、台地の空気が止まっていた。今日——動いてる。ちゃんと、空気が、動いてる」


ジンが——深く、息を、吸った。


「……わかる」とジンが言った。「空気の——重さが、違う。昨日までとは、全然、違う。ちゃんと——流れてる」


―――


ノアが、窪みを——もう一度、見た。


もう——黒いものは、なかった。


灰の中に——何も、なかった。


ただ——窪みがあった。


その窪みの底が——わずかに、温かかった。


「……ありがとう」とノアが、窪みに向かって、言った。「四百年——待っててくれて。俺が来るのを——ちゃんと、待っててくれて」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——温かいものが、まだ、そこに、残っていた。


ノアが、少し、目を、細めた。


「……届いた、よな」とノアが言った。「今度こそ——ちゃんと、届いた」


台地の風が——穏やかに、通った。


ノアの髪が——少し、揺れた。


それが——返事だった、ような気がした。


―――


ルルが、ふと——息を、止めた。


「……五本目の糸」とルルが言った。「今——静かに、揺れてる。さっきみたいに、大きく揺れてるんじゃない。ゆっくり、穏やかに、揺れてる。アルトが——泣き終わった。それだけ、だった。ただ——穏やかに、揺れてる」


「アルトは——今、どこを見てる」とノアが聞いた。


ルルが、少し、考えた。


「……こっちを、見てる。台地の方角を——見てる。でも——悲しそうじゃない。ただ——見てる。友達のことを、ちゃんと、見届けた。それだけで——十分、という顔で、見てる」


ノアが、少し、頷いた。


「……お前は——ずっと、一緒にいてくれてたんだな」とノアが、小さく、言った。「四百年——ずっと、そこから、見ててくれてたんだな」


―――


外に出ると——風が、あった。


昨日より——ずっと、強い風が。


炉に、火が、ついた。火が、大きく、揺れた。


「……終わったな」とジンが、ぽつりと、言った。「燃えられなかったものが——ちゃんと、燃えた。止まってた流れが——動いた。四百年——終われなかったものが、今日、ちゃんと、終われた」


しばらく——誰も、何も、言わなかった。


「……灰に、ならなかった」とセレクが、静かに言った。「光に、なった。世界に——形を変えて、残った。ザルヴァに奪われた終わりを——自分の意志で取り戻した。それが——この存在の最後だった」


「……アル・ヴェリアの約束が」とカインが言った。「今日——完全に、完成した。守った。名を刻んだ。鍵を使った。扉をくぐった。全ての段階が——今日、終わった」


「……アル・ヴェリア」とノアが言った。「あいつは——ちゃんと、守ってたな。四百年——ちゃんと、守られてた。今日——ようやく、約束が、果たされた」


全員が——しばらく、静かだった。


台地の風が、吹いた。


―――


エリナが、手帳を、開いたまま——ペンを、動かし続けていた。


手が、震えていた。


でも——止まらなかった。


書かなければならなかった。


今日のことを——全部、書かなければならなかった。


「……エリナさん」とノアが、小さく、言った。


エリナが、顔を、上げた。


目が——赤かった。


「……はい」とエリナが言った。「書いてます。ちゃんと——書いてます」


ペンが、動いた。


止まらなかった。


―――


エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。


今日のこと——夜明け前にルルが「来る、今来る」と言い全員が目を覚ましたこと、においが「燃える前」から「燃えてる」に変わっていたこと、ジンが地面に触れて「くぐってる、自分でくぐってる」と言ったこと、炉の火が風もないのに大きく揺れたこと、シアが「形が自分で動いていて、やがて形じゃないものになっていく」と言ったこと、台地の灰が静かに舞い上がり始めたこと、ルルが「燃えてるにおいが光のにおいに変わっていく」と言ったこと、窪みの底から温かいものが灰の下から静かに立ち上がったこと、カインが「自ら選んだものの火は見届けてくれる者がいる時に燃える、私たちが見届けた」と言ったこと、セレクが「灰にならない、光になる、世界に残る」という記録を確かめたこと、ノアが「よかった、お前らしく終われて」と言ったこと、温かいものが消えずに台地の空気の中に広がっていったこと、夜明けと共に台地に朝が来たこと、ルルが「風が来るにおいがする」と言ったこと、四百年ぶりに台地の風が戻ってきたこと、ジンとシアが空気の流れの変化を感じたこと、ノアが窪みに向かって「ありがとう」と言ったこと、アルトが台地の方角を穏やかに見ていたこと。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを止めた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、夜明け前にルルさんが「来る」と言いました。全員が起き上がりました。窪みの前でジンさんが「くぐってる」と言いました。私には、その重さは直接わかりません。でも——台地の灰が舞い上がるのを、私は見ました。ルルさんが「光のにおいだ」と言った時、私は何も言えませんでした。カインさんが「自ら選んだものの火は、見届けてくれる者がいる時に燃える」という記録を声に出した時、私は書きながら泣いていました。ノアさんが窪みに向かって「ありがとう」と言いました。地面の奥から返事はありませんでした。でも——台地の風が来ました。四百年ぶりの、風が。ルルさんは「風が来るにおいがした」と言っていました。つまり——届いていたのだと思います。今日——四百年越しの約束が、完全に、果たされました。アルトという名前を持ったものが、自分で扉をくぐり、光になって、世界に残りました。私は、それを見ました。見届けました。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


ランプの炎が、静かに、揺れた。


台地の風が——窓の外を、通った。


―――


ルルは、台地の方角を見ていた。


においの先に——変わった、何かの気配が、あった。


今日——終わった。


今日——光に、なった。


今日——台地に、風が戻った。


ルルは、少し、目を細めた。


「……燃えるにおい、消えた」とルルが、小さく、呟いた。「困ってるにおい、消えた。苦しいにおい、消えた。代わりに——朝のにおいがある。台地の——ちゃんとした朝のにおいがある」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——台地の風が、穏やかに、通った。


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


夜が、深くなった。


炉の火が、揺れていた。


窪みの中では——黒いものは、もう、なかった。


灰だけが、あった。


でも——その灰は、昨日までとは、違った。


重くなかった。


圧縮されていなかった。


ただ——軽く、柔らかく、そこに、あった。


今日——燃えた。


自分で——燃えた。


四百年——燃えたかった。


四百年——終わりたかった。


それが——今日、ようやく、叶った。


怖くなかった。


苦しくなかった。


ノアが、呼んでくれた。


アル・ヴェリアが、守ってくれた。


ジンたちが、見ていてくれた。


アルトが——遠い場所から、最後まで、見ていてくれた。


扉を——くぐった。


光に——なった。


形を変えて——世界に、残った。


今夜——台地の風が、吹いていた。


その風の中に——アルトという名前を持ったものは、静かに、静かに、在った。


在り続け——届いた。


名前の通りに。


在り続け——届いた。

挿絵(By みてみん)

―――


― 第65話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、台地に風が吹く。ルルが「においが——全然、違う。台地の、ちゃんとした朝のにおいだ」と言い、一行は長く留まった野営地を片付け始める。出発の前に、ジンは窪みの前に立ち、もう一度、地面に手を当てる。地面の奥から——返事は、ない。でも——温かい。「……行ってくる」とジンが言う。風が、答える。カインが写しを開き、「次の封印地について——調べてきました」と言う。セレクが静かに、アル・ヴェリアの残した記録が指し示す次の方角を告げる。ルルが鼻を向ける。「……においがする。まだ——困ってるものが、いる」。一行は、次へ向かう。アルトが、五本目の糸の向こうで——穏やかに、一行を、見送る。

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