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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第五章「灰の下に眠るものの話」

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第64話「燃えることを、選ぶか、というノアの声と、これまでで一番、はっきりとした重さと、自分で、くぐる、という朝と、扉の向こうへ」

夜が、明けた。


灰の台地の方角からは——今日も、風が、なかった。


炉の火は、また、灰になっていた。白い、軽い灰が——残っていた。


ジンが、目を覚ました。


すぐに——台地の方角を、見た。


しばらく——何も、言わなかった。


それから——ゆっくりと、息を、吸った。


「……今日は——何かが、決まる」とジンが、ぽつりと、言った。「昨日と——同じ気がする。でも——もっと、深いところで」


―――


ルルが、目を覚ました。


すぐに——台地の方角に、鼻を、向けた。


しばらく——何も、言わなかった。


それから——ルルが、静かに、目を、細めた。


「……変わってる」とルルが言った。「昨日——名前を、受け取った。今日は——そこから先の、においがする。踏み出す前の——息を、整えてる、においだ」


「踏み出す前の、というのは」とジンが聞いた。


ルルが、少し、考えた。


「……自分で、決める前の。誰かに言われて動くんじゃなくて——自分で、決めようとしてる。その、直前の、においだ」


―――


ノアが、静かに、起き上がった。


台地の方角を、しばらく、見ていた。


「……夢を、見た」とノアが言った。「昨日とは——違う夢だった。昨日は——穏やかに、こちらを見てた。今日は——扉の前に、立ってた」


「扉の前に、というのは」とエリナが、ペンを止めて、聞いた。


ノアが、少し、考えた。


「……開いてる扉の前に、立ってた。でも——まだ、くぐってない。怖いわけじゃない。ただ——自分で、くぐることを、確かめてた。そういう——立ち方だった」


しばらく——誰も、何も、言わなかった。


「……今日——聞くのか」とジンが、低く、言った。


ノアが、頷いた。


「……俺が、聞く」とノアが言った。「昨日——呼んだ。今日は——聞く番だ」


―――


カインが、革の鞄から——アル・ヴェリアの写しを、取り出した。


今日は——震えなかった。


ただ——静かに、ページを、開いた。


「……昨日、申し上げるのを保留していた一行が、あります」とカインが言った。「名前を贈る前に言うべきか、後に言うべきか、迷っていました。今日——言う時だと思います」


全員が——カインを、見た。


カインが、写しの一行を、指で、なぞった。


「……アル・ヴェリアの記録に、こうあります。『守るものに、名を刻め。その名が——燃える日の、鍵となる。されど——鍵を使うのは、守られたもの自身でなければならない。誰かが開けてやることは——できない』」


しばらく——誰も、何も、言わなかった。


「……自分で、くぐる」とジンが、低く、繰り返した。


「……そうです」とカインが言った。「私たちにできることは——扉の前まで、一緒にいること。扉をくぐるかどうかは——あの存在が、自分で、決めます」


―――


セレクが、静かに、口を、開いた。


「……一つ、補足があります」とセレクが言った。「教会の記録には——こういう一行も、あります。『自ら燃えることを選んだものは——灰にならない。光になる』」


全員が——セレクを、見た。


「……灰に、ならない」とノアが、小さく、繰り返した。


「……はい」とセレクが言った。「ザルヴァに止められたものは——終わることを奪われていた。でも——自らの意志で燃えることを選んだものは——ただ消えるのではない。世界に、残る。形を変えて——残る」


「形を変えて、というのは」とエリナが、小さく、聞いた。


セレクが、少し、間を置いた。


「……わかりません」とセレクが言った。「でも——アル・ヴェリアは、知っていたと思います。だから——守った。燃えさせなかったのではなく、燃える日まで、損なわれないように、守った」


―――


境界を、越えた。


窪みまで——いつもの道を、歩いた。


黒い、小さな何かは——昨日と、同じ場所に、同じ形で。


けれど——何かが、違った。


近づくだけで——わかった。


シアが、空間を、探った。


すぐに——立ち止まった。


「……形が——変わってる」とシアが言った。「昨日——完成した形だった。今日は——その完成した形が、少し、前に、傾いてる。扉に向かって——前のめりに、なってる」


ルルが、鼻先を、少し、上げた。


「……においも」とルルが言った。「燃える前のにおいが——昨日より、ずっと、近い。苦しいんじゃない。準備ができてる。自分で、決めようとしてる。その、においだ」


ノアが、窪みを、静かに、見ていた。


「……待たせたな」とノアが、小さく、言った。「もう一度だけ——聞かせてくれ」


―――


ジンが、窪みの中央に、両手を、当てた。


目を、閉じた。


しばらく——静かだった。


地面の奥から——重さが、来た。


これまでとは——全く、違う、重さだった。


押してくるのでもなく、広がるのでもなく、立っているのでもなく、震えるのでもなかった。


ただ——真っ直ぐ。


一本の、揺るがない、線として。


上へ向かって、来た。


「……これまでで——一番、はっきりしてる」とジンが、低く、言った。「迷ってない。怖がってない。ただ——真っ直ぐ、上を、向いてる」


ジンが、目を、開いた。


ノアを、見た。


「……頼む」とジンが言った。


―――


ノアが、窪みの前に、立った。


地面に——両手を、当てた。


しばらく——目を、閉じた。


静かだった。


長い——静かさだった。


それから——ノアが、ゆっくりと、息を、吸った。


「……アルト」とノアが言った。「お前に——聞きたいことが、ある」


一拍。


地面の奥から——重さが、返ってきた。


静かに。


聞いている——という、重さだった。


「……燃えることを——」とノアが言った。声が、穏やかだった。震えていなかった。「自分で——選ぶか」


―――


しばらく——静かだった。


誰も、動かなかった。


風も、なかった。


音も、なかった。


それから——


地面の奥から——重さが、来た。


これまでとは——全く、違う、重さだった。


押してくる重さでも、広がる重さでも、立っている重さでも、震える重さでも、真っ直ぐ上に向かう重さでも、なかった。


ただ——


一つの、はっきりとした。


揺るがない。


肯定だった。


ルルが、両手で、口を、押さえた。


「……選んだ」とルルが、小さく、言った。「自分で——選んだ」


―――


ノアが、地面から、手を離さずに——ゆっくりと、顔を、上げた。


目が、濡れていた。


「……聞こえた」とノアが言った。「ちゃんと——聞こえた」


それから——少し、間を置いた。


「……よかった」とノアが言った。「お前が——自分で、決めてくれて。よかった」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——重さが、少し、柔らかく、動いた。


温かく。


ありがとう——と言うように。


―――


シアが、もう一度、空間を、探った。


しばらく——何も、言わなかった。


それから——腕を、下ろした。


「……形が——また、変わった」とシアが言った。「前のめりだったのが——今は、真っ直ぐ、立ってる。扉の前に——立って、自分で、くぐると決めた人の形だ」


カインが、写しを、強く、握った。


「……選んだ、ということは——」とカインが言った。声が、少し、震えていた。「鍵が、使われた、ということです。あとは——この存在が、自分で、扉をくぐる。それだけです」


「それは——いつ、来るのか」とジンが聞いた。


カインが、少し、間を置いた。


「……わかりません」とカインが言った。「でも——一つだけ、わかることがあります。記録には——『自ら選んだものの火は、見届けてくれる者がいる時に、燃える』とあります」


しばらく——誰も、何も、言わなかった。


「……つまり」とジンが言った。「俺たちが——ここにいる間に、来る」


「……おそらく」とカインが言った。


―――


ルルが、ふと——息を、止めた。


「……五本目の糸」とルルが言った。「今——大きく、大きく、揺れてる。アルトが——泣いてる。昨日とは——違う泣き方だ。安堵じゃない。嬉しいんじゃない。何か——ずっと、ずっと、待っていたものが、ついに来た——そういう泣き方だ」


ノアが、空を、見上げた。


「……お前も——知ってたのか」とノアが、小さく、呟いた。「あいつが、自分で決めることを。ずっと——待ってたのか」


「……おそらく」とルルが言った。「四百年——一緒に、待っていた。でも——自分では、どうしてやることも、できなかった。今日——ようやく、来た。あいつが、自分で、決めた」


ルルが、少し、目を、細めた。


「……アルトが——今、南東を見てない。こっちを——見てる。窪みを——見てる。友達が、扉の前に立っているのを——見てる」


―――


「……今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「選択が、あった。それだけで——十分です。あとは——来る時に、来ます」


「触れても——いいのか」とジンが聞いた。


セレクが、少し、考えた。


「……今日は——触れていてほしいと思います」とセレクが言った。「ただ——何かを求めるためではなく。ここにいる、ということを。一緒にいる、ということを。それだけを、伝えるために」


ジンが、頷いた。


もう一度——両手を、地面に、当てた。


何も、問わなかった。


何も、求めなかった。


ただ——ここに、いる。


一緒に、いる.


そのことだけを、伝えた。


地面の奥から——温かく。


ゆっくりと。


重さが、返ってきた。


「……わかった」とジンが言った。


窪みを、もう一度、見た。


「……アルト。ゆっくりでいい」とジンが言った。「お前が——くぐる時に、俺たちは、ここにいる」


―――


外に出ると——風が、あった。


昨日より——少し、強い風が。


炉に、火が、ついた。火が、揺れた。


「……選んだ」とジンが、ぽつりと、言った。「誰かに終わらせてもらうんじゃなくて、自分で——燃えることを、選んだ。四百年——終われないまま、ずっと、待って。ようやく、名前をもらって。それで——自分で、決めた」


しばらく——誰も、何も、言わなかった。


「……あいつは——最初から、そういうやつだったんだな」とノアが言った。「アル・ヴェリアが守ったのも——そういうやつだったからかもしれない。誰かに開けてもらうんじゃなくて、自分で決めると——そういうやつだったから」


「……自ら選んだものの火は、見届けてくれる者がいる時に、燃える」とセレクが、静かに言った。「見届ける者——私たちが, ここにいる間に、来ます。それがいつかは——わかりません。でも——来ます」


「……来るまで、ここにいる」とジンが言った。


全員が——頷いた。


―――


エリナが、手帳を、開いたまま——ペンを、止めていた。


書けなかった。


ではなかった。


書こうとして——どこから書けばいいか、わからなかった。


いや、違った。


どこからでも——書けた。


ただ——止まっていた。


ノアが「燃えることを、選ぶか」と聞いた瞬間の——あの静けさが。


地面の奥から、一つの、揺るがない肯定が返ってきた瞬間の——あの重さが。


まだ、胸の中で、続いていた。


「……エリナさん」とノアが、小さく、言った。


エリナが、顔を、上げた。


「……はい」とエリナが言った。「書きます。ちゃんと、書きます。でも——一つだけ、聞いていいですか」


ノアが、頷いた。


「……あの肯定が、返ってきた時。ノアさんは——何を、感じましたか」


ノアが、しばらく——考えた。


それから——静かに、言った。


「……安心した」とノアが言った。「あいつが——あいつらしく、決めたことが、わかって。それだけで——安心した」


エリナが、少し、頷いた。


ペンが、動いた。


―――


エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。


今日のこと——朝、ジンが「深いところで何かが決まる気がする」と言ったこと、ルルが「自分で決めようとしている直前のにおい」を感じたこと、ノアが夢で扉の前に立つ存在を見たこと、カインが「鍵を使うのは守られたもの自身でなければならない」という記録を引いたこと、セレクが「自ら燃えることを選んだものは灰にならない、光になる」という教会の記録を提示したこと、窪みの形が「前のめり」から「真っ直ぐ立っている」へと変化したこと、ジンが「これまでで一番はっきりした、迷いのない重さ」を感じたこと、ノアが「燃えることを、自分で、選ぶか」と問いかけたこと、地面の奥から「一つの揺るがない肯定」が返ってきたこと、カインが「自ら選んだものの火は、見届けてくれる者がいる時に燃える」という記録を引いたこと、アルトが四百年越しで友の決断を見届けて泣いていたこと、今日の風が昨日より少し強かったこと。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを止めた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、ノアさんが聞きました。「燃えることを、自分で、選ぶか」と。地面の奥から——一つの、揺るがない肯定が、返ってきました。私には、その重さは直接わかりません。でも——返ってきた瞬間に、全員が、息を止めました。ルルさんが「選んだ」と言いました。ノアさんが「よかった」と言いました。それだけで——わかりました。何かが、ちゃんと、決まったのだと。カインさんは「自ら選んだものの火は、見届けてくれる者がいる時に、燃える」と言いました。私たちが、ここにいる間に、来る。ジンさんは「来るまで、ここにいる」と言いました。全員が、頷きました。私も、頷きました。今日——四百年の選択が、声になりました。それだけを、最初に、書きます。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


ランプの炎が、静かに、揺れた。


―――


ルルは、台地の方角を見ていた。


においの先に——決めた、何かの気配が、あった。


今日——選んだ。


今日——四百年の答えが、来た。


今日——アルトが、友の決断を見届けた。


ルルは、少し、目を細めた。


「……燃える前のにおい」とルルが、小さく、呟いた。「もう——苦しくない。もう——困ってない。選んだ。自分で、決めた。あとは——くぐるだけだ。それが——今夜かもしれない。明日かもしれない。でも——来る」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——窪みの方角から、ごく小さく——うん、と——においが、震えた、ような気がした。


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


夜が、深くなった。


炉の火が、揺れていた。


窪みの中では——黒いものが、灰の中に、静かに、あった。


長い間——燃えたいまま。


長い間——終われないまま。


それでも——消えずに、あった。


今日——決めた。


自分で——決めた。


燃えることを。


終わることを。


誰かに終わらせてもらうのではなく。


自分で——選んだ。


怖くは、なかった。


むしろ——ようやく、だった。


アル・ヴェリアが、守ってくれた。


ノアが、呼んでくれた。


ノアが、聞いてくれた。


ジンたちが、ここにいてくれた。


アルトが——遠い場所から、見ていてくれた。


扉は——開いている。


鍵は——使った。


あとは——くぐるだけ。


灰の下で——黒いものが、静かに、静かに。


初めて——心から、落ち着いていた。


自分の名前を、知っていた。


自分で、決めた。


それで——十分だった。


あとは——ただ、くぐる。


見届けてくれる者たちが、いる。


それだけで——よかった。


―――


―第64話・了 ―


―――


次話予告:夜が明ける前、ルルが目を覚ます。「……来る」とルルが言う。「今——来る」。全員が起き上がる。窪みの方角から——においが、変わっていた。灰の台地の空気が、震え始める。ジンが地面に手を当てると、これまでとは全く違う、上へ向かう強い力を感じる。「……くぐってる」とジンが、低く、言う。シアが空間を探り、「形が——動いてる。自分で、動いてる」と言う。ルルが涙をこらえながら、「においが——変わっていく。燃える前のにおいが——燃えてる、においに、なっていく」と呟く。炉の火が、風もないのに、大きく、揺れる。台地の灰が、静かに、舞い上がる。四百年ぶりの火が——ついに、灰の下から、立ち上がる。

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