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無詠唱の魔王  作者: Dちゃん
第五章「灰の下に眠るものの話」

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第62話「思い出した、というルルの声と、アル・ヴェリアの、においだ、という朝と、守った、という記録と、初めて、届いた感謝」

夜が、明けた。


灰の台地の方角からは——今日も、風が、なかった。


炉の火は、また、灰になっていた。白い、軽い灰が——残っていた。


ジンが、目を覚ました。


すぐに——台地の方角を、見た。


しばらく——何も、言わなかった。


それから——ゆっくりと、目を、細めた。


「……届いた、のか」とジンが、ぽつりと、言った。「昨日の——あれは。届いた、のか」


―――


ルルが、目を覚ました。


すぐに——台地の方角に、鼻を、向けた。


しばらく——何も、言わなかった。


それから——ルルが、体ごと、止まった。


動かなかった。


呼吸まで——止まっているように、見えた。


ジンが、じっと、ルルを、見ていた。


それから——


「……ルル」と、ジンが、静かに、呼んだ。


ルルが、ゆっくりと——息を、吸った。


「……思い出した」とルルが言った。声が、少し、震えていた。


「思い出した、というのは」とジンが聞いた。


ルルが、少し——目を、閉じた。


「……昨日——知ってる、においだと思った。遠い、霞の向こうにある、気がした。今日——起きたら、わかった。はっきり——わかった」


ルルが、目を、開いた。


「……このにおい——アルト、じゃない」とルルが言った。「もっと、古い。もっと、遠い。でも——同じ、線の上にある」


「同じ線の上に、というのは」とジンが聞いた。


ルルが、少し、考えた。


「……アルトの、においの——もっと、奥。アルトが生まれる前の場所から、来てる、においだ。これは——アル・ヴェリアの、においだ」


―――


ノアが、静かに、起き上がった。


台地の方角を、しばらく、見ていた。


「……夢を、見た」とノアが言った。「声じゃ、ない。でも——何か、古い気配が。夢の中で——遠い場所から、誰かが、こちらを、見ていた気がした」


「どんな気配だった」とエリナが、ペンを止めて、聞いた。


ノアが、少し、考えた。


「……怒ってるわけじゃない。悲しんでるわけでも——ない。ただ——静かに、見てた。ずっと、見てた。それだけだった」


しばらく——誰も、何も、言わなかった。


それから——ノアが、ゆっくりと、口を、開いた。


「……あいつが——アル・ヴェリアに、礼を、言ってたのか」とノアが言った。「四百年——届かなかった言葉を」


声が、少し、掠れていた。


―――


カインが、革の鞄から——アル・ヴェリアの写しを、取り出した。


今日は——震えなかった。


ただ——静かに、ページを、開いた。


「……昨日、セレクが引いた記録の——その続きが、あります」とカインが言った。


全員が——カインを、見た。


カインが、写しの一行を、指で、なぞった。


「『灰の下にあるものは、私が止めたのではない。私が、守った』」


しばらく——誰も、何も、言わなかった。


「……守った」とジンが、低く、繰り返した。


「……はい」とカインが言った。「止めた、ではありません。守った、です」


「その違いは」とジンが聞いた。


カインが、少し、間を置いた。


「……止める、というのは——動かさないことが、目的です。守る、というのは——動ける日が来るまで、損なわれないようにすることが、目的です。この存在は——燃えることを、禁じられたのではない。燃える日まで——燃えられる状態のまま、置かれていた、ということです」


―――


セレクが、静かに、口を、開いた。


「……一つ、補足があります」とセレクが言った。「教会の最古の記録にあった——『名のない者が、初めて呼ぶ言葉は——感謝である』という一行の、その前に——もう一行、あります。昨夜, 思い出しました」


全員が——セレクを、見た。


セレクが, 少し、間を置いた。


「……『その感謝は、いつも——待たせた者に向かう』」


しばらく——誰も、何も、言わなかった。


「待たせた者、というのは」とエリナが、小さく、聞いた。


「……アル・ヴェリアは、この存在に——燃えるのを待つよう、頼んだのかもしれません」とセレクが言った。「頼む、というよりも——約束した、のかもしれません。いつか、誰かが来る。その時まで——守る、と。そして——その約束を果たせないまま、アル・ヴェリアは逝った」


「……だから、四百年だったのか」とジンが、低く、言った。


セレクが、頷いた。


「……アル・ヴェリアが来るのを、待っていた。でも——来なかった。来られなかった。それでも——燃えずに、いた。燃えたくても——約束を守って、いた。そして——ようやく、誰かが来た。昨日——その誰かを通して、ようやく、言えた」


「ありがとう——を」とノアが、小さく、言った。


「……おそらく」とセレクが言った。


―――


境界を、越えた。


窪みまで——いつもの道を、歩いた。


黒い、小さな何かは——昨日と、同じ場所に、同じ形で。


けれど——何かが、違った。


シアが、近づいて、空間を、探った。


しばらく——何も、言わなかった。


それから——腕を、下ろした。


「……昨日と——全然、違う」とシアが言った。「揺れてない。静かだ。でも——消えたわけじゃない。ただ——落ち着いてる。休んでる、みたいな感じ」


ルルが、頷いた。


「……においも」とルルが言った。「困ってるにおいが——ない。ずっと、あった。今日は——ない。代わりに——柔らかい、何かが、ある。燃える前のにおいは、まだある。でも——それが、苦しそうじゃ、ない」


「苦しそうじゃない、というのは」とジンが聞いた。


ルルが、少し、考えた。


「……待てる、感じ。さっきまでは——待てなくて、困ってた。今は——待てる。誰かが来るのを——知ってる、みたいな」


―――


ジンが、窪みの中央に、両手を、当てた。


目を、閉じた。


何も、問わずに——そのまま、待った。


しばらく——静かだった。


長い、静かさだった。


それから——


地面の奥から、重さが、来た。


昨日までとは——違う、重さだった。


押してくる、重さでは、なかった。


広がる——重さだった。


ゆっくりと、均等に——四方へ、広がっていく、重さ。


ジンが、目を、閉じたまま——少し、息を、止めた。


「……楽になってる」とジンが、低く、言った。「昨日まで——ずっと、何かを、抱えてた。今日は——その重さが、違う。軽いわけじゃない。でも——持ち方が、変わってる」


―――


ノアが、地面に、片手を、当てた。


しばらく——目を、閉じていた。


それから——ゆっくりと、口を、開いた。


「……届いた、よな」とノアが言った。声が、穏やかだった。「お前の言葉——届いた、よな」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——重さが、少し、動いた。


柔らかく。


肯定するように。


「……届いた」とジンが、静かに、言った。「確かに——届いた」


ノアが、少し——目を、細めた。


「……よかった」とノアが言った。「四百年——言えなくて。ようやく、言えて」


ノアが、少し、間を置いた。


「……お疲れ、だったな」


―――


カインが、写しを、もう一度、開いた。


「……もう一行、あります」とカインが言った。「『守った者が燃える日——それは、誰かが、名を呼ぶ日である』」


「名を、呼ぶ日」とジンが、目を、見開いた。


「……はい」とカインが言った。「感謝が届いた、ということは——もう一つ、段階が、あります。アル・ヴェリアが守ったものは——いつか、名を呼ばれることを、待っていた。感謝を、言えたということは——その存在が、次の段階に進める、準備が、できた、ということかもしれません」


「次の段階、というのは」とジンが聞いた。


カインが、少し、息を、吸った。


「……名前です」とカインが言った。「この存在に——名前を、贈ることが、できる。そして——名前を受け取ったとき、初めて、燃えることができる。アル・ヴェリアが守ったものは——名前を——待っていたのかもしれません」


しばらく——全員が、静かだった。


「……アルトの時と、同じだ」とノアが言った。


「……そうです」とカインが言った。「ただ——一つ、違います。アルトは——名前を、忘れていました。この存在は——最初から、名前を、持っていない。誰も——まだ、贈っていない」


―――


シアが、もう一度、空間を、探った。


「……さっきより——形が、整ってる気がする」とシアが言った。「昨日——あの三つの音節が来た時、輪郭が揺れてた。今は——落ち着いてる。何かを、待ってる形に、なってる」


「待ってる形、というのは」とエリナが聞いた。


シアが、少し、考えた。


「……受け取る、形。出す形じゃなくて——受け取る形。昨日まで、向こうから何かが来てた。今日は——こちらからの何かを、待ってる」


「こちらからの何かを、待ってる——」とエリナが、小さく、繰り返した。


―――


ルルが、ふと——息を、止めた。


「……五本目の糸」とルルが言った。「今——大きく、揺れてる。跳ねてるんじゃない。揺れてる——でも、いつもと、違う。ゆっくり、穏やかに、大きく、揺れてる」


ルルが、少し、目を、細めた。


「……アルトが——泣いてる。声を出して泣いてるんじゃない。でも——静かに、泣いてる。悲しいんじゃない。何か——ずっと、ずっと、重かったものが、ようやく、おりたみたいな——そういう泣き方をしてる」


ノアが、少し——空を、見上げた。


「……お前も——知ってたのか」とノアが、小さく、呟いた。「あいつが、アル・ヴェリアへ、礼を言いたかったこと。四百年——ずっと、知ってたのか」


「……おそらく」とルルが言った。「知ってた。でも——どうしてやることも、できなかった。自分も——ずっと、ここにいたから」


「それが——今」とノアが言った。


「……届いた」とルルが言った。「アルトも——ようやく、知ることができた。あいつの言葉が——届いたことを」


―――


「……今日は、ここまでにしましょう」とカインが言った。「感謝が届いた。向こうが楽になっている。次の段階——名前が、見えてきました。でも——今日、急いで進める必要は、ありません」


「触れても——いいのか」とジンが聞いた。


セレクが、少し、考えた。


「……今日は——触れてもいいと思います」とセレクが言った。「ただ——何かを、問うためではなく。ただ——そこにいることを、伝えるために」


ジンが、頷いた。


もう一度——両手を、地面に、当てた。


何も、問わなかった。


何も、求めなかった。


ただ——ここに、いる。


そのことだけを、伝えた。


地面の奥から——柔らかく。


ゆっくりと。


重さが、返ってきた。


「……わかった」とジンが言った。


窪みを、もう一度、見た。


「……ゆっくりでいい」とジンが言った。「名前は——ちゃんと、考える」


―――


外に出ると——風が、あった。


炉に、火が、ついた。火が、揺れた。


「……感謝が——届いた」とジンが、ぽつりと、言った。「で——次は、名前か。アルトの時も、そうだった。名前が届いた時に——あいつは、初めて、自分が在るものだって、わかった」


「……この存在は——何を、待ってたんだろう」とノアが言った。「アル・ヴェリアに、ありがとうを言いたかった。それだけじゃ——ない気がする」


「……燃えることを」とセレクが、静かに言った。「約束通り——燃えることを、待っていたのではないかと、思います。アル・ヴェリアが守った。その守りが完成するのは——この存在が、ちゃんと燃えることができる日です。感謝が届いたということは——守りが、完成に向かい始めた、ということかもしれません」


「……名前が——鍵か」とジンが言った。


「……おそらく」とカインが言った。「アルトに名を贈ったように——この存在にも、名を贈る必要があります。ただ——アルトは、自分の名前を、心の奥に持っていました。この存在は——まだ、自分の名前を、知らない。贈られるのを、待っています」


「……贈る名前は——どうやって、決める」とジンが聞いた。


カインが、少し、考えた。


「……アル・ヴェリアの記録に、もう一行あります。『名を贈る者は——その存在が、最初に言った言葉を、聞いていなければならない』」


全員が——少し、沈黙した。


「……最初に言った言葉」とジンが言った。「三つの音節——か」


「……そうです」とカインが言った。「私たちは、昨日——それを、聞きました」


―――


エリナは、ランプの光で、手帳を書いた。


今日のこと——朝、ルルが「思い出した」と言いアル・ヴェリアのにおいだと告げたこと、ノアが夢で古い気配を感じあいつがアル・ヴェリアに礼を言っていたのかと呟いたこと、カインが「灰の下にあるものは、私が止めたのではない。私が、守った」という一文を引いたこと、セレクが「その感謝は、いつも——待たせた者に向かう」という前の一行を思い出したこと、アル・ヴェリアがこの存在に燃えるのを待つよう約束して逝ったかもしれないというセレクの推測、窪みの黒いものの重さが昨日より楽になり苦しそうでなくなっていたこと、ジンが触れずにただそこにいることを伝えると柔らかい重さが返ってきたこと、カインが「守った者が燃える日は名を呼ぶ日である」という一行を引いたこと、次の段階が名前であること、アル・ヴェリアの記録に「名を贈る者はその存在が最初に言った言葉を聞いていなければならない」とあること、五本目の糸を通じてアルトが静かに泣いていたこと、ルルがアルトも四百年ずっと知っていたと語ったこと。すべてを、書いた。


書き終えて、ペンを止めた。


それから——もう一行、追加した。


『今日、ルルさんが「思い出した」と言いました。昨日から知っていたにおいの正体が——アル・ヴェリアのにおいだったと。カインさんは記録を引きました。「灰の下にあるものは、私が止めたのではない。私が、守った」。止めたのではなく、守った。その言葉を聞いた時、何かが、ひっくり返った気がしました。この存在は、罰を受けていたのではなかった。約束を、守っていたのだと思います。四百年——誰も来なくて、アル・ヴェリアも来なくて、それでも——燃えずに、いた。昨日、ようやく、言えた。ありがとう、を。次は——名前だと、カインさんは言いました。名前を受け取った時、この存在は初めて燃えることができる。記録には「名を贈る者はその存在が最初に言った言葉を聞いていなければならない」とあります。私たちは——聞きました。三つの音節を、聞きました。その音節が——何なのか、まだわかりません。でも——聞いていた。それだけは、確かです。エリナ・フォルス談。自分で書いておく』


ランプの炎が、静かに、揺れた。


―――


ルルは、台地の方角を見ていた。


においの先に——楽になった、何かの気配が、あった。


今日——ルルは、思い出した。


今日——感謝が、届いていたことが、確かめられた。


今日——アルトが、泣いた。


ルルは、少し、目を細めた。


「……燃える前のにおい」とルルが、小さく、呟いた。「楽になってる。苦しくない。次が——来る。名前が——来る。でも——今日は、それでいい。今日は——届いた、ということだけで、いい」


地面の奥から——返事は、なかった。


でも——窪みの方角から、ごく小さく——うん、と——においが、震えた、ような気がした。


ルルは、それを確かめて、眠った。


―――


夜が、深くなった。


炉の火が、揺れていた。


窪みの中では——黒いものが、灰の中に、静かに、あった。


長い間——燃えたいまま。


長い間——終われないまま。


それでも——消えずに、あった。


昨日——言えた。


四百年——言えなかった言葉を。


今日——届いたと、知った。


届いた、ということが——わかった。


それだけで——もう、十分だった。


長い間——何かを、抱えていた。


でも——今夜は、少し、軽かった。


次が——来ることを、知っていた。


名前が——来ることを、知っていた。


それは——怖くなかった。


むしろ——楽しみだった。


アル・ヴェリアが、守ってくれた。


長い間——守ってくれた.


その守りが、ようやく——形になろうとしている。


黒い、小さな何かの——奥の、もっと奥で。


静かに、静かに。


名前を——待ち始めていた。


―――


― 第62話・了 ―


―――


次話予告:翌朝、カインが写しを開き、三つの音節の意味を分析し始める。「この三音節——古い言葉で、読めます」とカインが言い、ゆっくりと、一文字ずつ、解読していく。ノアが息を呑む。「……それ、って」。ジンが低く、「……アル・ヴェリアが、この存在に——つけようとしていた名前、か」と問う。カインが頷く。「記録には——『守るものに、名を刻め。その名が——燃える日の、鍵となる』とあります」。セレクが静かに、「……アル・ヴェリアは、四百年前から——この存在の名前を、決めていた」と告げる。ルルが、涙をこらえながら——「……あいつは——ずっと、呼ばれるのを、待ってた」と呟く。エリナが、ペンを止め、静かに頷く。明日——四百年前から決まっていた名前が、ようやく、声になる。

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